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脳とからだ

「脳とからだ」-メディアと場所-

ARTing No.02 pp.60-65 2009.06

1.人間の拡張

 マクルーハン流にいえば、メディアとは「人間の拡張」である(註1)。例えば、視聴覚を拡張したカメラやマイクロフォン、神経系を拡張したネットワーク、処理系を拡張したコンピュータ、そして手足の運動機能を拡張した道具や移動体など、その拡張は多岐に渡る。一般にメディアという語からイメージされるのは、情報を扱う「脳(とその出先機関)」の拡張であるが、ここでは、モノを扱う「からだ」の拡張も視野に入れて「メディアと場所」との関係を考察してみたい。
 カメラ、メモリ、コンピュータ、そしてインターネット。「脳」はこのわずか数十年で、時間と空間を超えた地球スケールのネットワークシステムへと拡張した。我々は今、空間的な移動を伴わず、順番待ちすることもなく、自宅に居ながらにしてあらゆる情報を閲覧・処理することができる。しかも、そのサービスの大半は無償で提供されている。「在宅勤務」と「ひきこもり」。言葉の響きに明暗の差はあるが、要するに人間は「場所」から離れる必要がなくなった。
 一方人間の「からだ」は、多種多様な物質とエネルギーを使い、長い年月をかけてそれを拡張した。様々な道具が生活環境をつくり、また様々な乗り物が人間のスケールを超える移動を可能にした。文明社会では定住というライフスタイルが多数派であるが、人間は動きたくないというわけではない。可能であれば、また身の危険がないのであれば「場所」から自由になりたいと考える。より速く、より遠くへ。
 現代は、移動の必要がない時代であると同時に、移動に関する制約もない時代であり、これが「人間の拡張」としてのメディアがもたらした現実だといえる。一見、そこには「場所」に関わる問題はなく、我々をとりまく世界は非常に快適であるかに見える。
 しかし、である。現代人はこの世界に何かしら「居心地の悪さ」を感じているのではないだろうか。それは「もっと便利にならないか」という単純なものではない。立ち位置が定まらなくなると同時に、世界を見通すパースペクティブが崩れていくような不安定な感覚。「他者に見られずに外の世界を見ることができる」というのは、映画と同様に快適なことではあるのだが、逆に自分自身のからだの存在感が希薄になる。透明人間になったような不安定な感覚である。
 私は、現代人が抱えるこの居心地の悪さを、「脳」と「からだ」の拡張速度のギャップによるものではないかと考える。確かに便利な世の中にはなった。しかしこの数十年、「脳」の拡張が10のべき乗ステップで「場所」にアクセスする自由を獲得していったのに対し、乗り物のスケールや移動速度にはほとんど変化がない。私が子供だった頃、21世紀の未来図には、空飛ぶ自動車や瞬間移動装置が描かれていた。しかしすでに2009年、いまだに車は空を飛ばないし、この先もその可能性は低い。想定外の進化を遂げた「脳」と、想定した未来を実現できない「からだ」、その拡張の速度に大きなギャップがある。

2.情報とモノ

 「鉛筆」のような原初的なものから「コンピュータ」や「自動車」にいたるまで、人間の拡張にはすべてソフトとハードの2つの側面がある。「脳」が扱う「情報(ソフトウエア)」と「からだ」が扱う「モノ(ハードウエア)」。「情報」と「モノ」を比較すると、「脳」と「からだ」の拡張速度に生じたギャップとその要因が明瞭になってくる。
 ひとつは使用するエネルギーの差である。「情報」の転送に必要なエネルギーに比べると、「モノ」の移動に要するエネルギーの量は比較にならないほど大きい(註2)。移動だけではない、複製・量産ということについても同様である。(著作権の問題は別にして)「情報」の複製がわずかな電力だけでできてしまうのに対し、「モノ」の場合は、数に比例した物質とエネルギーが確実に必要になる。物質もエネルギーもタダではない。「モノ」には(持っているだけで税金がかかるということも含めて)それなりの経費が必要になるのだ。
 もうひとつは信頼性の差である。電子制御装置に依存した現代のハードウエアは、技術がブラックボックス化していることもあって、感覚として信頼性に欠ける(註3)。本当にちゃんと動いているのか、誤動作することはないのか、そんな不安が常につきまとう。仕組みがオープンで、自分で修理できる自転車のような「モノ」であれば信頼もできる。しかし「修理するより新品買う方が安いですよ」の繰り返しでは、「モノ」は要するにゴミにしか見えなくなる。一方「情報」はどうか。通常あまり意識されないことだが、「情報」は物質ではないので、壊れるとか汚れるといったこととは無縁である。バックアップもできるし、"Undo(アンドゥ)"というタイムマシン機能もあるため、簡単に壊れる前の状態に戻すことができる。技術がブラックボックス化しているかといえば、実はそうでもない。例えばインターネットを支える各種のサーバーソフトウエアは、その大半がオープンソース(註4)、すなわちホワイトボックス化されたプログラムで、バグがあってもやがて修正され、非常に信頼性の高い状態へと安定する。また、例えばWikipedia(註5)の記事も「群衆の叡智」による自己組織的な情報構築でその信頼性を上げている。そもそも、インターネットという仕組み自体が脳の神経系のしくみを地球上に投影したようなものなのだから、情報は人間にとって都合よく伝達・蓄積される。関係のある情報同士はリンク形成によってその関係をより強化するし、部分的な破壊がおこっても、別の経路から接続が可能だ。複製が世界中に分散しているため、消滅してしまうという心配もない。もちろん、悪意のあるプログラムやウソも出回る。しかし例えば「Wikipediaのなかった時代に戻れるか?」と問われれば、少なくとも私は「No!」である。現状を見る限り「情報(ソフトウエア)」の世界では、破壊力よりも秩序を構築・維持する力の方が勝っている(註6)。時間とともに安定する「情報」と、時間とともに崩壊する「モノ」。信頼性という言葉で比較するまでもなく、そこには根本的なギャップが存在している。
 そして、「情報」と「モノ」との乖離を加速させたのが「情報」の「デジタル化」である。アナログメディアの時代、音楽はテープ、写真はフィルムなどと、ソフトとハードには強い結びつきがあったのだが、現在では、ディスク、半導体、有線・無線の電磁波など、「情報」は様々な媒体間を自由に移動できるようになった。デジタル化と同時に「情報」は「モノ」の束縛から解き放たれたのである。
 ローコスト、ローインパクト、高い信頼性、そして自由であること(註7)。「脳」はその拡張において「場所」を超越し、扱うことのできる「情報」の量を飛躍的に増大させた。「脳」と「からだ」は、それぞれが関わる「情報」と「モノ」との差異によって、その拡張の過程で大きく乖離したのである。

3.人間の場所

 「脳」と「からだ」を乖離させ、「場所」を超越すること。自宅に居ながらにして情報の発信者となり、その脳活動の出力(文化遺伝子)をオープンな場所に遺すこと。インターネットの急速な普及とコンテンツの加速度的な増大を見れば、人間がいかにそれを待ち望んでいたかがわかる。しかし一方で、生身の「脳」は「からだ」の一部であり、「脳」と「からだ」を乖離することは「私」の実感を喪失することを意味する。
 「私」という「脳」の中の存在は、思い通りにならない「からだ」から自由になりたいと願うことがある。しかし「脳」も「からだ」の一部であり、また、「からだ」は私の世界認識の中心であるから、「からだ」を否定して生きることはできない。このジレンマは、サルから分岐した人間が本質的に抱え込んだものである。「脳」の拡張としてのメディアは、「からだ」から解放された「脳」がいかに自由で快適であるかを、現代人に見せつけた。我々は、自らが本質的に抱えている「脳」と「からだ」の宿命と葛藤を思い起こして、「居心地の悪さ」を感じているというべきであろう。
 我々はそろそろ、人間の拡張としてのメディアの問題と、生身の人間の問題とを区別し、それらの関係を調整し直す必要があるのではないだろうか。資源とエネルギーの犠牲を伴う「からだ」の拡張を最小限に抑えること。メディアへ拡張した「脳」と、生身の「脳」との役割を分けること。「場所」から自由になったメディア、すなわち「脳」の拡張の可能性を追求する一方で、生身の「脳」と「からだ」の本来の距離感を取り戻すこと。この数年、身の周りの不安定な感覚に対して私が無意識に取り組んできたことは、そんな「脳」と「からだ」の「場所」に関する再構築作業だったように思う。

・モノを動かさない。情報を動かす。
・情報を動かすときは、内容(脳)とスタイル(からだ)を分離する。
・情報はネットワークの向こうに預けて、そのアドレス(リンク)を管理する。
・情報の管理はメディアにまかせ、脳は「考えること」のために使う。
・モニターに向かって考えない。歩きながら、あるいは紙とペンを使って考える。

 現代の若者は「車は不要、モノはそれほど欲しくない」という(註8)。大人は彼らの消費意欲を喚起しようと躍起になっているようだが、いつの時代も、若者の感性は時代を先読みするものである。持続可能な社会のためには、ローコスト・ローインパクトで自由な「脳」の拡張を最大限活用しつつ、一方で「からだ」の拡張と移動を最小限にして、人間スケールの「場所」にその棲家を見出すべきではないだろうか。
 人間は考える葦である。

1)マーシャル・マクルーハン, 後藤和彦・高儀進 訳, 人間拡張の原理 -メディアの理解-, 竹内書店, 1967年
2)理論的にはモノの移動に必要なエネルギーはゼロである。摩擦がなければモノは慣性で動くし、減速時に運動エネルギーを100%回収できれば、それを次の加速に利用できる。しかし現実の世界では、大半は熱になってしまうわけで、モノの移動にかかるエネルギーを情報の移動と同等レベルにまで下げるのは難しい。
3)現代のモノは、理論上は非常に高い信頼性を保つべく管理・製造されている。しかし、それは「大人が正しく使えば壊れない」ということであって、我々が実生活において抱く印象とは別の話である。
4)ソフトウェアのソースコード(プログラム)を、インターネットで無償で公開し、万人にその改良や、再配布を認めたソフトウェア。Open Source Initiative (http://opensource.org/)に詳しい定義がある。
5)利用者が自由に執筆・編集できるインターネット上のフリー百科事典。非営利団体のウィキメディア財団(Wikimedia Foundation)が寄付による資金で運営している。Wikipediaの記事は、誰でも無償で自由に利用することができる。
6)「情報」のありかたすべてを単純に肯定するわけではない。武器(ハード)が人を傷つけるのと同様に、Web上の情報(ソフト)が人や社会を危険にさらすこともある。人間の拡張が人間の負の側面をも拡張するという事実は、忘れてはならないだろう。
7)Web上には、商用のソフトウエアやデータなど、有償で制限のある情報ももちろんある。しかし、CopyRightに代わるCreativeCommonsの普及の背景には、「複製の自由を前提としなければ情報は生き残れない」という認識の広まりがある。
8)「若者意識調査 -巣ごもる20代- 」,日経MJ,2007年8月22日付
首都圏に住む20代の生活意識調査では、現代の若者は、堅実・小規模な「ミニマムライフ」を好むという。


井上 貢一 (いのうえ・こういち )




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Last-modified: 2019-07-05 (金) 20:51:29