情報共有と「神」
ソーシャルデザインのための「情報共有」の研究I
Information Sharing with "KAMI"
ー Study on information sharing for social design ( II )
芸術工学会誌 87号 / 発表梗概 令和5年11月
1. はじめに
我々の身の回りには多くの「神」が存在する。八百万の神、 付喪神はもちろん、超絶技巧で SNS を賑わす「神」、演芸の 舞台に舞い降りる「笑の神」、学生を救う「神科目」、そして 近年では「AI は神になるのか」といった議論もある。日本人は組織的な宗教に縁遠いことから「信仰心が無い」と言われるが、「神」の存在には肯定的で、社会的モラルの高さも、 身近に在る「神の監視」ゆえの結果ではないかと思われる。
本稿はソーシャルデザインの観点から情報共有のあるべき 姿を考察する継続研究の一つとして、超越的な存在としての「神」を再措定することの意義を検討するものである。「神」 という概念は、デザイン研究の対象としては違和感があるか もしれないが、社会学的なアプローチにおいては、我々の倫 理観の基礎をなす存在として議論に値する対象である。
ここでは「科学技術の進歩によってあらゆる物事が制御可 能になる」といった風潮に疑問を呈するとともに、人知を超えた存在を措定することによって、人為的な中央制御から自然の営みと共生した多様性のある社会へとシステムを移行さ せる可能性について検討したい。それは先行研究*1 でも強調 したとおり、インターネット文化が育んだオープンな思想と自律分散型の情報共有の可能性を示唆するものでもある。
2.情報と社会
この節では、現代社会が抱える「情報が共有できない」という問題を提起すべく、情報の氾濫、法・マニュアルの肥大化、 ブラックボックス化の3点を挙げてみたい。
1) 情報の氾濫
インターネットの拡大によって、かつて水面下にあった 様々な情報が溢れ出すとともに、仮想空間上には多種多様な 情報共有空間が生まれている。一方で身体感覚を伴うリアル な場での「共通の話題」が減り、社会のローコンテクスト化 が進んでいる。結果、「コミュニケーション能力の向上」が 強く求められるようになったことで「自称コミュ障」が増 大。人々は自信を失くすとともに、情報を共有する機会を自ら放棄する状況にある。SNS 上での罵詈雑言やフェイク情報、 アカウント情報の流出、この「情報災害」とも言える状況下 で、人々は安定した情報共有の場を失い、思考を停止せざる を得ない状態になっている。
2) 法・マニュアルの肥大化
社会システムの拡大・複雑化に対して、法やマニュアルが 共有不可能なサイズに膨れ上がっている。例えば、有斐閣の ポケット六法も、1979 年創刊時に 862 ページであったものが、 2000 年で 1328 ページ、2023 年現在 2128 ページと加速度的に増大している*2。時代との不整合、解釈の混乱、ローカル ルールをグローバル化させる全体主義。「法令遵守」などという当然のことを声高に謳う思考停止した社会では、「何故」を問うことよりも、盲目的な管理に莫大な時間と労力が費やされている。そもそも法制度は、拡大・成長によって収拾がつ かなくなった社会が止むなく定めたものと言える。すぐれた 製品がそうであるように、マニュアルを必要としないような 社会をつくることが、ソーシャルデザインの理想であろう。
3) ブラックボックス化
情報セキュリティの強化で、必要以上に情報がブロックされる。アクセスに必要な ID・パスワードの数は管理限界を 超え、結果的に共有できない情報が増えている。人とモノと の関係も同様、製品のブラックボックス化によってモノとの 情報交換に大きな壁ができた。現行製品の多くは、故障に際 して「修理」ではなく「交換」が行われる。モノと関わる楽 しさは激減し、産業廃棄物が大量放出される。また、その廃 棄物の行方が「見えない」ことも問題である。多くは山や海、 南半球といった外部へ、そして手に負えないものは「技術の 進化がやがて解決するだろう」という希望的観測のもとで、「未来」という「時間軸上の外部」へと廃棄されている。
3.神と社会
ここでは、「神」というものを「言葉の発生と同時期に超 越的な能力を持つ存在として発明・共有された*3 幻想」と定義した上で、その可能性とリスクについて考えてみたい。
1) 狩猟採集社会
人類が農耕(文明)に手を染める前、私たちの暮らしには、いたるところに精霊がいて、「それに背けば良くないことがおこる」という感覚が共有されていた。文字を持たない社会、バンド規模の小集団の社会では、ルールや掟といったものは 口伝で共有可能な情報量しかなく、それでも秩序は保たれていたのである。現代まで続く狩猟採集民族の社会でも彼らなりの社会秩序が保たれている。
2) 八百万の神・付喪神
日本における八百万の神や付喪神という概念は、原初的な自然崇拝に由来するもので、「自然(神)との共生」を重んじる思考は、様々な行動規範の元となって、効率的な社会の 秩序維持に寄与してきた。ここで注目すべき点は、原初的な 信仰が「文字に依存しない」ということである。その証拠に、起源の古い神道は経典を持たず、また神社の境内には文字の 姿がない。文字は遠隔・非同期コミュニケーションを実現し た画期的な発明ではあったが、同時に情報の氾濫やフェイクといった情報災害を生んだ。文字による情報の固定は社会を 錆び付かせるのだ。その意味では、国家として最長の歴史を 持ちながらも独自の文字を作らなかった日本人(仮名も漢字 に由来)の思考には「情報を固定せずにアップデートを容易 にする」賢明さがあるように思う。
3) 一元的に組織化された神
「神」を一元化し、教義を明文化し、拡大共有しようとす る思考は、多くの争いと侵略の契機となる。異なる神を信仰 する者同志の争いが絶えないことは、今も変わらない。日本が犯した侵略戦争も同じく、神の一元化と洗脳がもたらした ことは周知のとおりである。標準化、一元化、グローバル化、 いずれも同様の傾向を持つ。社会システムを一元化して拡大 する発想と、思考停止がもたらす同調圧力は「凡庸な悪」を 生むことを自覚すべきだ。
4) 科学という名のグローバル新興宗教
科学は、その検証可能性と技術への応用という点において神を超えたかに見えるが、それも言語というフィルタに依存 した共同幻想にすぎない点では宗教と同じである。それは今、経済戦争の勝敗に関わるグローバルな信仰の対象となって、 教育という名の国家主導の布教活動を通してマジョリティを構成している。その暴走を止める手立てはおそらくない。
情報過多な状況下で思考停止した大衆は、救世主・独裁者を求めるようになる。原初的な自然崇拝ならともかく、混乱 を救済するかに見える「現人神」や「AI 神」の登場を期待 してはならない。一元化した神をグローバルに共有しようと する企みは大きなリスクを伴うと言えよう。
4.情報共有に関わる意識改革
「神」は科学技術と同様に人間社会にとっての双刃の剣となる。神との良い関係を築くには、文明化によって錆びついた我々の意識を変革する必要がある。
1) 小さな社会を優先する
家族という小さな社会を見れば明らかなように、そこでは、 食糧や物財が個別に占有(囲い込み)されることなく共有される。共有は小さな社会との相性が良いのだ。自然と共生す る里山社会では、小さな共同体ごとに「神」が祀られている。 地域住民が相互に支えあう情報共有の場として、今も身近に ある小さな神社の存在価値を見直すべきではないだろうか。 それはおそらく、基礎集団の規模の指標となるであろう。
UNIX の哲学のひとつに "Small is Beautiful" がある*4。 小さなプログラムがうまく動くことを優先し、その組み合わ せとして全体を協調させるということである。逆に、全体を 制御するような変数の利用は「グローバル汚染」と呼んで、 それは避けるべきものとされる。そのような存在は結果的にシステムを硬直させ、アップデートの足枷となるからである。 小さな共同体(モジュール)の完成度を優先し、それらが共生する大枠の組織は「随時更新するもの」として下位に置く。 中央集権的な階層における上下関係の逆転を提案したい。
2) 法・マニュアルの簡素化
役目を終えた資源(メモリ)は解放するのがプログラミングの基本であるが、法・マニュアルには有効期限の明記のない ものが多く、これが社会のアップデートの足枷となっている。 生物の細胞が持つアポトーシスの仕組み同様、不要な情報が 自然に廃棄・アーカイブ化されるような仕組みが必要である。
3) ホワイトボックス化
情報が氾濫する状況下ではオープンな情報とクローズドな 情報をクリアに分離するとともに、それらがどのように分け られているかをホワイトボックス化することが重要である。 人とモノとの関係においても、分解しやすい製品にしたり、 製品仕様を公開したりすれば(メーカーの収益は下がるが)、 人とモノとの信頼関係を長期継続させることができる。例え ば、機械式カメラなどの分解可能なモノは、Web 上の動画 やブログの恩恵によって、個人レベルでも修理ができるよう になった(そこには愛着と付喪神が宿る)。インターネットはグローバルな科学技術であり、様々な情報災害を加速させた罪は重いが、中央制御とは異なる自律分散型のシステムであるとともに、ホワイトボックス化されたオープンソースが その基盤を支えている。そこで育まれる自律分散的な思考は 人々の意識改革に寄与する可能性を秘めている。
5. 最後に
共有される情報としての「神」は、物質・エネルギーのよ うな占有(囲い込み)の対象ではない。「神」は常に外部性 を帯びた存在として、惰性化・一元化しようとするする社会 の秩序をゆさぶり、更新する存在である。万物の占有と制御 を指向するのではなく、万物に「神」が宿ることを措定して、 それらを多様なかたちで「お迎え」することが、社会の活性 化に寄与するのではないだろうか。富を蓄積することよりも、 定常開放系としての社会を更新しつづけることの方に希望が ある。貧乏神も神であることに変わりはない。