生き延びるための創造
栽培思考と野生の思考
芸術工学会(デザイン関連学会)2024.06.14 寄稿エッセイ
絵を描くこと、音曲を奏でること、そしてモノづくり。現代に生きる我々は、それらを一部のクリエイティブな人間に特有の行為であると考えてはいないだろうか。はじめに確認しておきたいことは、創造行為はすべての人(あるいは集団)が自由に行える行為だということである。
現代社会では、生産者と消費者という二極化が進むあまり、多くの人たちが創造行為を楽しむことを忘れて、ひたすら消費に精を出しているように見える。
デッサンの基礎を知らない。楽譜が読めない。設計図が描けない。だから創造行為に参加することができない。そうした勘違いが生じるのは、今日の経済システムと、そこに人々を参入させるべく行われている教育の弊害ではないだろうか。
身近にあるモノを寄せ集めて、何か別のモノをつくる。既存のモノを改修して、自分だけのモノをつくる。そうしたブリコラージュ(野生の思考)は、本来誰もが楽しめるはずのものであるが、「専門的に学んでいない」あるいは「他の人より成績が悪かった」という「自己否定感」を植え付けられた多くの現代人は、その自由を自ら放棄しているように見える。
動画共有に代表されるインターネットの文化が広がったことで、人々は少しづつ自由な創造行為を楽しめるようにはなっているようだが、年齢が同じであるという理由だけで、異なる資質をもった人間を一箇所に集めて、同じものさしで競争させるという悪しき教育制度による洗脳状態から解放されるには、社会全体を時間的にも空間的にも相対化する視点が必要である。
言うまでもなく、創造の起源は文明以前に遡る。現代を生きる狩猟採集民も、自然に創造行為を楽しんでいる。それは予見と設計図によるデザインとは異なり、身の回りにある事物を、あーでもない、こーでもないと、編集を繰り返す中で、理想的なカタチに収斂するような創造行為である。
デザインの基本は「予見と計画」であり、生活を豊かにすべく大量生産される製品には、はじめに「設計図」が必要である。しかし、人が生きる楽しみを感じる創造行為はそればかりではない。獲物を獲るための弓矢をつくること、果実を入れる籠をつくること、神との交感のために神聖な場をつくること。狩猟採集民は身近な事物の寄せ集めから試行錯誤とアップデートを繰り返しながらそれらをつくりあげる。元になる事物が異なれば、すなわち環境が異なれば、その「解」は当然異なる結果に収斂する。解はひとつではなく多様になるのだ。
さらに言えば、人類の創造的思考の契機となった「言葉」それ自体も、予見と計画によってつくり出されたものではない。言葉は、「天と地」、「良いものと悪いもの」、「煮たものと焼いたもの」、あるいは「対象自体を指すもの(名詞)と対象の状態変化を指すもの(動詞)」といった区別を音声の違いとして共有すべく集団ごとに異なるものとして誕生し、やがて、他の集団との意思疎通をはかるべく、共有域を拡大させたものと言える。
多細胞生物の進化のプロセスにも似た要素間の自律分散協調、言い換えれば、ボトムアップ的な創造行為は、それぞれに異なる多様な集団とその文化の成熟に寄与してきたのである。それは自然との共生を前提として、持続可能なかたちで、人々の暮らしを豊かにするものであった。付け加えれば、そこには「目標」、「締切」、「評価」などという「誰も幸せにしない数字」は存在しない。
人間から創造の楽しみを奪う契機となったのは「農耕」への着手、すなわち「富の貯め込みと成長」をもくろむ「文明」に手を染めたことにあると筆者は考えている。農耕は「予見と計画」を必要とする。「野生の思考」とは異なる「栽培思考」の登場である。富を管理する必要性から、文字という外部記憶による情報共有がはじまり、ここに「文字が読める人と読めない人」という、人類史上初の「格差」が誕生する。集団内部の上下関係が生むストレス、集団間の争い、いずれも農耕文明とともにはじまったと言っても過言ではないだろう。
現代における創造活動の多くは、この「栽培思考」にもとづき、トップダウン的な管理のもとで計画的に実践されているが(インターネット上で進むオブジェクト指向のソフトウエア開発は例外)、競争を是とする経済社会では、より早く、より安くを実現すべく、効率を上げるための「優秀な人材」を求める。結果、他よりも優秀になるべく、人は競争の場に駆り出され、その勝者が「経済的自立」を体現した理想像となる。
しかし、今社会が結果的に人々に強いているのは「自立」ではなく「孤立」である。セーフティネットが保険などという経済的保障制度に依存する社会で、人は本当に安心できるのだろうか。人間という生物は孤立系でも閉鎖系でもなく、定常開放系である。つまり本質的には、「私」の存在を独立なものとする空間的な境界などどこにもなく、また時間軸上の生と死の境界も存在しない(そういう言葉の存在が概念を喚起しているだけである)。定常開放系にとって孤立は死を意味する。経済的に自立することを否定はしないが、「自立=ひとりで生きていけること」というのは違うだろう。
文明以後の人類は、予見と計画にもとづいて自然をコントロールできるという「栽培思考」を創造活動の前提としたことで、結果的に「個人の能力」というものを過大評価しているのではないだろうか。
創造性を個人の能力として位置付けるのはほどほどにした方がいい。育む必要があるのは、一個人の能力ではなく、人が生きる場としての集団(バンド)の能力である。バンドに指揮者は不要。それぞれが持つ楽器が異なっていても、全体は、個々の相互作用によって調和のとれた音楽を生み出すのだ。