Discovery and Creation
現代人は自身のアイデアや創作物を「私が創造したもの」として排他的にその権利を主張することに違和感を感じていないようですが、それは文明化以後、しかも「囲い込み」以後の比較的最近の「常識」で、本来、物質・エネルギー・情報・・あらゆるものは Commons として共有されていました。
そもそも、知見や技術といったものは人間の「創造」なのか。創造という言葉には非常にポジティブなイメージがあって、そのこと自体には問題はないのですが、それを「排他的に所有」すべく権利を主張する発想には、個人的には共感できません。理由はいたって簡単です。先人が権利を主張することで、次世代の自由なものづくりの権利を奪うという事実があるためです。生物は、次世代にバトンを渡すことで生き延びるものです。自分の権利のために、次世代の自由を奪うというのはいかがなものか・・
新たな知見や技術には、それなりの労力と経費がかかるので、それを他人が利用することに対して、対価を要求するのは当然のことかと思いますが、現代でも、知識・技術を Commons としてシェアする発想はあって、インターネット(管理者のいない自律分散協調系)の文化圏には OpenSource に代表される「自由な」存在があります。ちなみに HTMLという技術も、特許の申請がなされなかったことで、一気に利用が拡大した経緯があります。
現代に神はいませんが、創造は「神」*1のなせる技であって、人間はたかだかそれを「発見」しているに過ぎない。そういう謙虚な姿勢、足るを知るという感覚・・現代人が失ってしまったこの感覚を取り戻すことが必要ではないかと思います。
(書きかけです)
テクノロジーには特許のような排他的所有権が設定されますが、数学の公式や物理の法則は、一般に創造ではなく発見と位置付けられ、それに特許のような排他的所有権を設定することはありません。もちろん、それらに特許権を主張したところで、それを利用するものが多すぎて、回収のしようがない・・ということもありますが、数学者も物理学者も、儲けるために研究をしているわけではなく、純粋に世界の謎を解き明かしたいという情熱が、その主な動機です。
音階や和声には物理的必然があるので、作曲には、偶然でもパクリでもない、「必然的にそこに収斂する」という可能性があります。作曲は一般に創造とされますが、過去につくられた楽曲と被ってはいけないとすると、もはや何もできない・・というのが現状でしょう。結果、リズムを変則的にする、頻繁に転調する、スケールそのものを別のものにする・・といった、物理的な理想から遠ざかることを考えなくてなならなくなる。要するに、先に生まれた人間だけが金儲けをして、次世代には作る自由が残されていない・・というのが今の音楽の世界です。
(書きかけです)