#author("2025-10-26T12:07:24+09:00;2025-10-26T11:48:57+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko") #author("2025-10-26T12:13:02+09:00;2025-10-26T12:07:24+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko") *JOMON 縄文社会に関するメモ ~ 縄文文化(文明ではない)は、現在の日本列島を中心に1万6千年前(諸説あり)から1万年以上続いた暮らしの中で育まれた文化です。世界史の上では、新石器時代に相当する時代ですが、成熟した社会を長期間にわたって維持した点で、注目に値します。 縄文は、現在の日本列島を中心に1万6千年前(諸説あり)から1万年以上続いた生活様式・文化です。世界史の上では、新石器時代に相当する時代ですが、成熟した社会を長期間にわたって維持した点で、注目に値します。 日本列島はその後、大陸から渡来した農耕文化を持った民族と混交して、弥生時代を迎えることとなりますが、縄文の文化は、私たち日本人の精神の古層に残るかたちで、今日に至っています。 ~ ~ **縄文社会の特徴 ***農耕なき定住 一般に、霊長類も含めて大型哺乳類は遊動生活をするのが基本です。しかし人類はそれを放棄して「定住」という戦略を採用しました。世界史的には、農耕の起源が約1万年前(西アジアの肥沃な三日月地帯)で、定住の起源も農耕の起源と関連づけられるケースが多いのですが、縄文の定住はそれよりも数千年早く、農耕以外に、定住を促す原因があったと考えられます。 氷河期から後氷期へ、温暖化が進む中緯度の温帯では世界的にも「大型の道具を使う漁労」、「冬に備えて秋の収穫物を蓄える」など、定住を促す要因はいくつもあったと考えられます。しかし日本列島は今もそうであるように自然災害が多く、長期にわたる安定的な定住には向かない土地柄であるようにも思います。 それでもなお、早期に定住の道を選んだのはなぜか、個人的には、次の項に挙げる「祖霊を抱え込む」という発想、遺体を放置せずそれを集落の中心に据える、すなわち祖霊神という共同幻想を早期に持ったことが、定住を促した大きな要因のひとつではないかと考えています。 ~ ***狩猟採集 > 資源をシェアする社会 一般に狩猟最終社会は「収穫物をシェアする社会」で、それは現代の狩猟採集民にも共通した特徴です。獲物を見つけるのがうまい人、音を聞き分ける能力に長けた人、走るのが速い人、弓を射るのが上手い人、料理が上手い人・・あらゆる物事が、それぞれの特性を活かした共同作業で成り立っていて、そこには資源配分に関する格差がありません。 -狩猟の主な対象はシカやイノシシです。イヌは重要なパートナー動物で、狩猟を共にしたと考えられています。縄文の遺跡では、ヒトとイヌがともに埋葬された例もあります。ちなみに弥生時代には渡来人によってイヌを食べる文化がもたらされましたが、日本には定着しませんでした。 -ドングリ、クリ、クルミなどの木の実や山菜が重要な食料源で、特にクリに関しては植林(半栽培)をしていた可能性もあります。 -海や川で、食用に魚や貝を獲っていたようです。一般に「貝塚」と呼ばれる場所は、その廃棄物が積み重なって「塚」となった遺跡です。 ~ ***サスティナブル 世界史には世界四大文明というものがあって、いずれも数千年で滅んでいますが、縄文社会は1万年以上続いたにも関わらず、文明とは位置付けられていません。その違いは「直線的な成長」と「円環的な成熟」の差です。農耕に手を染めた文明人とは異なり、「限りある資源」を神の恵みと考える狩猟採集民は、もっと多く、もっと大きく・・といった発想をとりません。 成長ではなく成熟・・持続可能な社会とはそういうものだと思います。 成長は特定の方向へ向かうものです。みんなが同じ方向へ向かうと競争が生まれます。文字通り人同士が「争う」ということです。競争が目的化してしまうと、必要以上に資源を浪費し、環境を破壊する・・、そして心も病みます。 人類学者が気づいたことですが、狩猟採集社会には「うつ」がありません((アフリカの狩猟採集民「ハッザ」の人々も、うつと無縁であることが判明しています。うつの原因は、天敵から身を守るために備わった脳の扁桃体を中心とした防衛システムの過剰活動にあると言われていていますが、その過剰活動を抑制するのが「平等」という状況です。扁桃体の活動が「格差・不平等」によって過剰になるという事実は脳科学的にも検証されています。))現代人の多くが、知らず知らずのうちに、不毛な競争に駆り立てられている・・ということです。 ~ ***環状集落 縄文の集落((日本列島における環状集落は縄文以前、3万年以上前の遺跡からも発見されています。))は、先祖の眠る墓地を中心に同心円状に形成されていました。中心には石柱・柱など、神の存在を想像させるものが・・。神様の数を数える単位として「柱」を用いることと無関係ではないでしょう。 古いものが中心にあって、それを外にできる新しいものが包み込む・・というのは、樹木の年輪をつくる細胞の構成と同じです。つまり「柱」というものが象徴的な存在です。 ちなみに、弥生は集落の外に墓をつくりました。死者を外部として集落の外へ排除する考え方は、縄文とは明らかに異なる文化であると考えられます。 ~ ***竪穴住居 縄文人の住居は、地面を円形や方形に数十センチメートル掘り下げ、そこに柱を立てて屋根を架けた半地下の住居で、その中心に炉(火の場)が設けられていることが特徴です。現代の住宅は、床を高くするのが一般的ですが、地面より下に床があることには、以下のようなメリットがあります。 -高い保温性:土が断熱材となり外気の影響を受けにくくなります。地面温度が安定していることから冬は暖かく、夏は涼しく保てます。 -風雨への対策:屋根が低い構造であるため強風の影響を受けにくくなります。また、屋根に土をかぶせるなどの工夫で、雨水の侵入をより効果的に防ぐことができました。 -少ない労力: 穴の側面を壁として利用するため、壁を作る必要がありません。最小限の材料で、短時間で建てる(建て直す)ことができました。 住居の中心には炉がありました。現代人には想像がつきにくい事実ですが、当時の人々にとって、世界を照らすのは太陽と炎のみです。集落の中心に神を措定するのと同様に、住居の中心に火を置く・・・。古くから日本の家にある「大黒柱」も神の依代、あるいは神そのもので、縄文人(その後の日本人)の精神文化は「神を中心に包み込む」という特徴があると言えそうです。 ~ ***世界最古の土器 時代名の由来ともなった「縄目文様」を持つ土器が登場します。これは世界的に見ても最も古い土器です。 土器は煮炊き・貯蔵という実用的な役割もありましたが、縄文土器には、火焔土器のような装飾性の高いものや、土偶(広い意味での土器の一種)のような祭祀目的と思われるものも多くつくられていました。 ~ ***現代日本人との遺伝的関係 現代日本人のDNAには、農耕によって人口を飛躍的に増加させた弥生時代以降の渡来人の遺伝子が色濃く反映されていますが、縄文人のDNAに関して言うと、本土では 10〜20%、琉球列島で30%、北海道(アイヌ)で70%、縄文人のゲノムを受け継いでいると言われます。 -二重構造モデル 3万年ほど前から日本列島に住んでいた縄文人を基層集団として、そこへ渡来系弥生人が混交したのが現代日本人でとする説(人骨の形態研究) -3つの祖先系統説(二重構造モデルの修正) 日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高い(理化学研究所) -三重構造モデル 現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ(金沢大学) - 参考:古代DNA|日本人のきた道 https://ancientdna2025.jp/highlights ~ ~ **縄文社会にはないもの ***労働 農耕以後の文明社会では、全員が一つの目的のために「同じ作業」に従事するようになります。収穫を得るためには一定の「努力」が必要、つまり、本当はやりたくないけど収穫のために努めなければならないことあって、努力せずに分け前を得る人がいると「ずるい」という感情が生まれます。そこで、揉め事が生じないように分け前の前提となる「何か」を量的に測ることが必要になります。例えば、どれだけの面積を耕したのか、どれだけの量を運んだのか・・それが「労働力)」という量的な概念です。分け前は「労働の対価」として与えられる・・。 それに対して、それぞれが異なる役割をもって助け合い、収穫を均等にシェアする狩猟採集の社会では、「ずるい」という感情は生まれにくく、揉め事もありません。狩猟採集はもともとワクワクする行為であって(現代人にとってそれは趣味の範疇に入ります)、報酬の条件としての労働という感覚はありません。 「働かざる者食うべからず((この言葉は、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節 に初期の出典があります。))」というご意見は、狩猟採集社会とは無縁の発想かもしれません。 ~ ***排他的所有 土地の面積というものが食料生産量に比例するようになった農耕以後、特に16世紀のイギリスでおこった地主による農地の「囲い込み」 以後の社会では、あらゆる空間が排他的に所有されて、「そこを利用するなら金払え」という感覚が一般的になってきます。それまで食料調達の場として自由に使っていた土地を追われた人々は「賃金労働者」となるしかありません。 それに対して、農耕以前の狩猟採集の社会では、あらゆる空間は「__[[共有地(コモンズ)>Commons]]__」であり、それは誰のものでもなく、いわば神に与えられた場所でした。空も大地も海も、所有欲の対象ではなく、感謝の対象であったのです。 排他的所有があたりまえの現代人が忘れてしまったこと・・それは、自然(神)に対する感謝の気持ちです。 ~ ***競争 現代では、学校でも職場でも、みんなが同じことをします。その成果は「試験の点数」や「労働時間」といった、同じものさしで測ることができるので、自分の利益を最大化すべく、人々は競争に駆り立てられることになります。おそらくこれが諸悪の根源です。 競争を前提とする社会では「サボるウサギはコツコツ努力する亀に負ける」みたいな話がもっともらしく語られるようですが、そもそもウサギと亀では、特性が異なるわけですから、ウサギは山で、亀は海に潜って、それぞれが幸を持ち寄ればいいのではないでしょうか。 ゴールの意味を見定めることもなく、とにかく他者よりも多く・・という競争は、縄文の社会にはなかったのではないかと思います。 労働も勉強も、本音としては「やりたくないこと」です。だからそれを自動化する「機械(AIはその究極)」が次々に生まれるのです。競争を目的とした努力は、それを自動化する技術によって無に帰される。歴史を見れば明らかです。 ~ ***成長 縄文時代は1万年以上続きました。成長の概念がなかったからです。 私たちは、常に成長しつづける社会に生きているので、「時間」というものが直線的に進行する・・というイメージを持っていますが、何世代にも渡って変わらない暮らしを続けていた人々にとって、成長という概念はなく、時間も円を描いて繰り返すものとして認識されていたものと思われます。もちろん農耕社会でも1年周期という感覚はあったかもしれませんが、技術革新による収穫量の増大は、過去よりも現在・・という成長を意識させたものと考えられます。 資源が有限である以上、成長には限界があって、このまま成長を続ければ人類はいつか破綻します。しかし残念ながら、成長のループにハマってしまった私たちの社会は、それを止めれば、別の意味で破綻します。自転車と同様、止めたら倒れる・・今更後戻りはできない・・という状況にあると言えるでしょう。 しかし、少なくとも「成長があたりまえ」というわけではない・・という視点は、現代社会を相対化するのに必要なものだと思います。 ~ ***戦争(争い) 縄文の遺跡からは、人間同士が殺し合った痕跡がほとんど見つかりません。これは農耕をベースとした弥生時代とは大きく異なる特徴です。労働の対価としての富の格差、土地を支配する者と労働者として働く者の格差、どれだけ多くの土地を支配できるか・・、それらが様々なレベルでの争いの起源です。 争いというのは、資源の奪い合いから起こるものです。それを「資源」としてではなく「神の恵み」として享受していた縄文社会には、今日のような争いはなかったし、その恵みを必要以上に「捕りすぎる」こともなかった。1万年に渡って社会を持続できた理由がそこにあるように思います。 ~ ***文字 狩猟採集社会は、一般に文字を持ちません。文字が登場するのは、農耕文明以後、富の管理に数字や文字が必要になったことが大きな要因です。 ちなみに、日本人は独自の文字をつくりませんでした。漢字は借り物で、ひらがな、カタカナも、その部分、あるいは簡素化によるもの。 仏教には経典があり、寺院には文字があふれていますが、神道には経典のような文書は存在せず、神社には文字の存在が見当たりません(鳥居の社名と「おみくじ」ぐらい)。 日本では、多くの伝統行事を口伝で継承しています。秘匿性の高い情報(奥義など)は頭の中にだけ・・の方が安全。また、聞き手に直接語る方が、文字解釈のずれが生じることがなく、考えや技術を正確に伝えることができる・・というメリットもあります。さらに言えば、文字で記録を残してしまうと時代に合わないことでも従わなければならない・・的な感覚になりますが、口伝であれば、時代に合わないことは、長老が忘れたふりをすれば柔軟に変えていくことができます。いちいち文書に残さない方がいいこともある・・。 ~ ~ **縄文遺跡 以下のとおり、日本列島全域に、山のように存在します・・ -__[[Wikipedia:縄文時代の遺跡一覧]]__ ちなみに、最終氷期の最寒冷期(1万9000年前)には、地球の平均気温が約6℃低く、海水面は約120〜130メートル低い位置にありました。その後の温暖化(縄文海進)で、約5500年前の縄文前期中葉の海進頂期は、海水面は現在よりも4.4m高い状態。縄文時代は1万年以上続いているので、その間の海水面(海岸線)には大きな変動があることを視野に入れる必要があります。 以下、4大遺跡と呼ばれるもの+α ~ ***__[[三内丸山遺跡>Wikipedia:三内丸山遺跡]]__ -所在:青森県青森市三内丸山 -時代:紀元前3900年~紀元前2200年(中心は紀元前3000年~紀元前2200年) 定住の発展期に誕生した拠点集落で、高さ14.7mの大型掘立柱建物、長さ32mの大型竪穴住居などが復元されています。大規模な盛土からは、日本最多の2,000点を超える土偶が出土しています。 竪穴住居、成人用土抗墓、小児用甕棺墓、掘立柱建物、盛り土、捨て場、粘土採掘穴、貯蔵穴、道路などが計画的に配置されています。 ~ ***__[[加曽利貝塚>Wikipedia:加曽利貝塚]]__ -所在:千葉市若葉区桜木8-33-1 -時代:紀元前 3000年前 〜 紀元前 2000年前(縄文時代中頃〜縄文時代末期) 集落を伴う「ムラ貝塚」としては日本最大級の遺跡で、総面積も 15.1haと世界最大規模の遺跡です。ドーナツ形で直径約140mの北貝塚と、馬のひづめ形で長径約170mでの南貝塚が8の字型に連結する構成になっています。 ~ ***__[[尖石石器時代遺跡>Wikipedia:尖石石器時代遺跡]]__ -所在:長野県茅野市豊平 -時代:紀元前 3000年前 〜 紀元前 2000年前(縄文時代中期) 日本で最初に「縄文のムラ」の存在が確認された地。八ヶ岳山麓、標高1050m〜1070mほどの高原地帯、尖石遺跡と隣接する与助尾根遺跡、与助尾根南遺跡からは、縄文時代中期の竪穴住居が200軒余り発見されています。 ~ ***__[[大湯環状列石>Wikipedia:大湯環状列石]]__ -所在:秋田県鹿角市十和田大湯万座 -時代:紀元前2000年~紀元前1500年(共同の祭祀場と墓地の進出時代) 国内最大のストーンサークルをもつ縄文時代後期の遺跡で、万座環状列石(最大径 52m)と野中堂環状列石(最大径 44m)の2つの環状列石と、それを取り囲むように掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが、同心円状に配置されています。つまり、環状集落が環状列石を取り囲むというパターンの遺跡です。 ~ ***梅之木遺跡 -所在:山梨県北杜市明野町 -時代:紀元前 3000年前(縄文時代中期) 縄文時代中期の環状集落跡で、150軒ほどからなる住居跡のエリアに加え、隣接する湯沢川沿いの生活痕跡、居住域から湯沢川へ通じる「縄文の道」が発見されています。 ~ ~ **MEMO ***参考文献等 -[[上田篤「縄文人に学ぶ」>Amazon:上田篤 縄文人に学ぶ]] -[[小林達雄「縄文の思考」>Amazon:小林達雄 縄文の思考]] -[[コリン・タッジ「農業は人類の原罪である」>Amazon:コリン・タッジ 農業は人類の原罪である]] -[[西田正規「人類史のなかの定住革命」>Amazon:西田正規 人類史のなかの定住革命]] -[[藤森照信「人類と建築の歴史」>Amazon:藤森照信 人類と建築の歴史]] -五木寛之「風の王国」 http://1000ya.isis.ne.jp/0801.html -福田アジオ[[「大地が語りかけるもの―宿る大地とさえぎる大地」>http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/forum/forum7/fo7003.htm]] 〈神奈川大学外国語学部教授・民俗学〉 -縄文と古代文明 http://web.joumon.jp.net/blog/2012/08/1430.html -過去7万年の植生分析を可能にしたのは、水月湖の湖底土(年縞)である ~ ***人類史のなかの定住革命 西田正規 -移動生活では --環境の汚染に悩まされることがない(逃げればいい) --疫病が流行れば、逃げればいい --墓地ができない・必要ない(その都度、しるしを付ける程度) -定住生活では --狭い空間に大型動物がひしめき合うためのルールが必要 --排泄物の管理が最重要課題。 ゴミから逃げることができない。 --息苦しさを爆発させるための、文化的しくみが必要(価値の逆転する祝祭) --不運を何者かのせいであるとして封じ込める必要がある(呪いと宗教) ※日本の政治を左右してきたのは、闇(怨霊)の力 -手型動物と口型動物 --口型魚類から手型哺乳類へ、口から手(前足)への優先度の移動は、 ほぼ、水中から陸上へ、そして樹上への生活環境の変化に対応する。 --手型動物は四肢に比べて首が短い --手型動物は、手がよく見えるように口吻が短い --例:犬(口型)は、猫(手型)より口吻が長く、また泳ぎがうまい。 ~ ***先住民族に学ぶ(月尾嘉男) -獲物が現れるのをじっと待ち続ける習慣がある我々にとって、重要なのは物事が達成されることであって、いつ達成されるかは問題ではない(イヌイットの環境大臣)。現代のプロジェクトは「締め切り」を重視しすぎる。本来、暮らしを豊かにするためのプロジェクトに「締め切り」など必要ない。「時間」が金に置き換えられてしまっているのが、そもそもの間違い。 -多様性の維持(ペルー原住民の作物栽培)。 ~ ***縄文と炭水化物 -そもそもホモサピエンスは炭水化物を主食とはしていなかった。 人間だけが太る、食欲が止まらない。つまりそれは、何かに依存症になっていることを意味する。炭水化物は「嗜好品」あるいは「コカイン」と同質なのだ。霊長類の食生活をお手本にして、依存物質を減らせば、人は肥満にはならない。 -農耕と経済。炭水化物は人類破綻のスタートとともに登場した。 -移動・狩猟採集の時代から、やがて定住・農耕社会へ・・と簡単に言うが、そもそも、その変化が生じるには、よほど大きなきっかけがあったにちがいない。 -霊長類は巣を作って定住する動物ではない、犬猫のような巣をつくって子を育てる生き物は、排泄を一定の場所に定めるが、サルは寝床を定めずに垂れ流す。猫の排泄訓練は簡単だが、人間の子供はなかなかできない。我々人間も本来排泄を制御することが得意ではない。また定住に対して、本質的な息苦しさを感じているのかもしれない。 ~ ***雑記 -持続する文化(文明?)は「大きなもの」はつくらない。自然と共生し、集団間での贈与交換を行う(商品交換(等価交換)は好まない)。 -狩猟採集民族は「目に見えないものに対する畏敬の念」を持ち、常に自然に対する感謝を忘れない。一方、現代の文明社会において、自然への感謝の気持ちを持ち続けている人がどれほどいるだろうか。水も空気もタダで手に入る。しかしそれは地球の生態系がバランスを保っていれば・・である。人間の都合で行う「除菌」の拡大は止めるべきだろう。 -母系社会 妻問婚は奈良・飛鳥以前は一般的。平安時代まで継承された。 -神さま --氏神・ 鎮守の神・・ムラの神様 (田の神がいるのは鹿児島だけ・・?) --野神・・ノラの神様 滋賀県などで典型 樹木がそれにあてられている --山の神 -世界に共通する原始信仰(自然信仰) 日本には「神社」のかたちをとってこれが残っているが、世界の宗教はいずれもこれを否定し、かわりに「言葉」でつづった「経典」をもった。 --地母信仰 旧石器時代以降 ヴィーナス(土偶) --太陽信仰 新石器(1万5000年前〜)石柱、御柱(依代?) 山内丸山縄文遺跡には6本のクリの巨木 --精霊崇拝 --祖霊信仰 -旧石器人も火を使った。しかしそれは「道具」としてである。縄文人は火を「神」として扱った。そこに大きな違いがある。火を道具として使った文明は滅んだ。一方「火とは何か」を考えたギリシア文明は永らえた。つまり、そこに哲学があったのだ。 -建物が「ない」のが日本の神社の原型。本殿のない神社(三輪)は多い -日本最古の道「山辺の道」は奈良盆地の東、三輪山の裾野を通っており、その三輪山には日本最古の神社「大神神社」がある。ちなみに弥生時代まで遡ると、奈良盆地は巨大な湖(大和湖)であった。 -土地は自然からの借り物。田畑をつくって切り開く発想は、縄文の人々の考え方にしっくりとはこなかったのかもしれない。縄文の暮らしは、まず狩猟採集空間である「原」があって、やがて定住とともに居住圏である「村」ができた。「ノラ」の発生は弥生になってから。 -ヤマトとヒノモト --ヤマト → 山と共に暮らす→地母神信仰→狩猟採集社会→ 縄文時代 --ヒノモト → 日照により稲が育つ→太陽信仰→農耕社会→ 弥生時代 -実りの秋、日本は台風の通り道で、稲作はリスクが大きい。ひとつの作物に依存するより、多種多様な資源に依存することでリスクを分散する発想。 //-麻は縄文以来、日本人にとって重要な植物。縄文土器の縄目は麻縄。縄文の衣(麻)。麻のつく地名・人名。大麻神社(神道にも深い関係)。 //GHQ占領下の昭和20年に日本産の大麻が法的取り締まりの対象になり、それ以後、大麻の生産は限定的になりましたが、かつての日本では、大麻は、米に次ぐ農産物として全国どこでも普通に生産され、衣服、油、漁網、鼻緒、食料など多様に利用されていたようです。ちなみに、日本に自生した大麻(サッティバ種)は、印度大麻草(インディカ種)とは異なり、精神作用物質「テトラ・ヒドロ・カンナビノール」(THC)はほとんど含まれません。 -ムラ、ノラ、ハラ。ある空間を指す言葉が「ラ」なのか?「空(ソラ)」も。ゆるやかな管理境界の設定。これが借景という発想にも関係している。 -日本のムラには 広場がない。 広場という言葉自体は古いが、日常化したのは 戦後になって。寺の境内、 神社の境内、それに加えて「村堺」が重要であった。 -ノラが村に含まれるようになったのは近世の検地・課税管理以降。 ノラには用水が必要で、それはみんなのもの。 ノラ犬、ノラ猫は、誰のものでもない・・という意味。 -贈与交換:人が求めたのは物資ではなく、他者に認められること。 結果、物資は拡散し、争いは最小限のものとなっていた。 -アイヌには縄文の特徴が残る。またアメリカ先住民族についても「1万3000年前、ロシアからベーリングジア(ベーリング陸橋)を渡っていった」という従来説に対し、「1万4000年前、縄文系の人々が海岸(ケルプハイウエー)づたいに北米に入った」という可能性も提起されている。 //アイヌ、イヌイット、エスキモー、インディアン・・考古学上の説の再編 //アリゾナ州に居住区をもつナバホ族の文化は、アイヌに通じるものがある。 -アイヌは、人間の能力を超えたものをカムイ(神)といった。山や川、雨、風、さらに、お椀(水を安定的にためることができる)やしゃもじ(熱いごはんをすくうことができる)も、人間を超えた能力を持ったカムイであると考えた。 アイヌのカムイの発音は、カムィ・・きわめて「カミ」に近いような・・ アイヌの文化は基本的に口承、文字はもたない。 ~ ~