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Diversity

多様性

Diversity

多様性(Diversity)とは、性質の異なる「群」が様々に存在することで、その対義語は「画一性」です。ちなみに「多様」の対義語は「一様」。各所で話題になっているダイバーシティという言葉は、マジョリティとは異なる様々なタイプのマイノリティを集団に包摂(インクルーシブ)できる社会を目指すという意味で用いられています。

ただし「多様性を認める=区分を解消する」という意味で捉えてしまうと、それ自体が「区分の解消=一様化(画一化)」につながる危険を孕んでいます。科学技術の発展を見れば明らかなように、グローバル化は区分を解消して一元化する方向(仕様を標準化する方向)に作用するので、あらゆる物事の多様性がグローバルに強制されれば、個々の文化の多様性がなくなってしまう・・ということになりかねません。

例えば、暑がりの人と寒がりの人、マスクで安心する人とマスクに不快感を感じる人、こうした感じ方の違う人同士を同居させるのが難しいのと同じで、文化の視点では、価値観の異なる者同士の同居はうまくいきません。タイプの異なる者同士を無理に同じ空間に包括するのではなく、棲み分けるかたちで、互いの存在を認め合う・・という視点が必要であると思います。



生物多義性

生物は様々な環境の変化に適応して進化してきました。そのために必要だったのが多様性です。環境に何らかの変化が生じた際、既存の環境に適応した画一的な集団は変化に対応できなくなりますが、多様性をもった集団は、その一部が新たな環境に適応できる可能性があります。

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である

チャールズ・ダーウィン*1

生物多様性には、以下の2つの枠組みがあります。

ちなみに、有性生殖(オスとメスの存在)という多くの生物が採用した戦略も、多様性を作り出すことに寄与するものです。「オス・メス」という生物学の概念や「男・女」というジェンダー概念は、世界中の言語に共通する区分概念ですが、これらは視覚中心に物事を認識する人間が勝手にクラスタリングした概念で、本来は連続分布する2つの分布のピークに過ぎません。

単性生殖する生物もいるし、必要に応じて短時間でメスがオス化(ホンソメワケベラ)したり、オスがメス化(カクレクマノミ)したりする生物もいます。人間の場合でも生まれて後の成長過程で自然に性転換するケースもあります。

神経多様性

神経多様性(Neurodiversity)は1990年代にオーストラリアの社会学者 Judy Singer 氏によって提唱された概念で、脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉える考え方です。日本語に「発達障害」という言葉がありますが、それも神経や脳の多様性がもたらす「個性」と捉えるのが神経多様性の考え方です。

神経学的少数派であるニューロマイノリティも、ジェンダー・人種などと同様に、連続分布におけるクラスターのひとつとして尊重されるべきで、皆が脳の多様性を理解し、当事者の特性が生きる社会の実現を目指す考え方です。




人類社会の多様性

生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、
文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。
この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、
現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、
主張されるべきものである。

ユネスコ「文化的多様性に関する世界宣言」第一条 2001.11



集団規模と多様性

現代社会は境界の消失と均一化を同根として、グローバル化と孤立化に2極化しているように見えます。世界(グローバル社会)、国民国家、地域社会、小集団、個人と段階的に分けて、多様性の実現可能性を考えてみましょう。

世界(グローバル社会)

科学技術の発展にともなう世界の動向を見れば明らかなように、グローバル化は区分を解消して一元化する方向(仕様を標準化する方向)に作用します。あらゆる物事の多様性がグローバルに強制されれば、個々の文化の多様性がなくなってしまう・・ということになりかねません。

世界全体が同一仕様になれば、それによって排除されるマイノリティも増えます。Think Globally, Act Locally という言葉があるように、グローバル化というのは、全体を俯瞰する視点で多様性を承認するというところまでが重要で、それを個々の地域社会に強制するのはやり過ぎと言えるでしょう。生物の世界を見れば明らかなように、「画一化」は絶滅への道を加速させてしまいます。

国民国家

国民国家*2とは、領域内の構成員を国民として統合した国家のことで、国民は一般に、文字や言語の標準化、また国旗、国歌といったシンボリックなものを通じて、国民的アイデンティティを形成しています。特に日本という国は、地図上での国境が見えやすいことと、この領域内でのみ独自の言語を使用しているので、私たちはその存在に違和感を覚えることは稀ですが、歴史を遡れば明らかなとおり、国境というものは流動的です。物理的・生物学的な根拠のある集団ではなく、虚構の共有にもとづく「共同幻想」のひとつに過ぎません。

様々な価値観を持った多くの人々が共存するので、その秩序を維持するために「法」による統制が必要になります。で、問題はこの「法」というものの存在です。法というものは一般にマジョリティに最適化されるので、次々に規定をつくると、その都度、居心地が悪くなるマイノリティが増える・・ということになります。国家の内部でマイノリティを包摂し多様性を実現するには、既存の法の見直しが必要ですが、(時限立法を除いて)法というものには「死」がプログラムされていないので、社会はどんどん息苦しくなっているのです。

生物世界の多様性は、生物にプログラムされた「死(細胞死、寿命)」が駆動する自動的な更新(アップデート)によって、その持続可能性が担保されています。その意味では「死なない法」の存在は、集団にとっての諸悪の根源とも言えるのではないでしょうか*3。把握不能な量にまで膨れ上がって国民の自由を奪う法律、国家間での富の奪い合いに端を発する戦争、そうした「国家」の存在が生み出す問題の数々を見ていると、国民国家という規模の集団に未来があるのか、極めて深刻な状況であると感じます。
 国家というのは恐ろしいものですからね。手が付けられませんよ。梅棹 忠夫
「世界都市関西」シンポジウム特別講演録 帝国と国家の解体

地域社会

国家よりも規模は小さいけれど、そこには様々な価値観を持った人が共存しています。地域社会におけるマジョリティが自分達に最適化した条例*4・制度をつくれば、マイノリティは居心地が悪くなります。ここでも揉め事は絶えません。地域社会規模の集団においても、その中で棲み分けられる仕組みが必要です。


小集団(BAND)

人類はかつて 50人以下のバンドで移動生活をしていました。経験的にもわかると思いますが、お互いの顔を識別するとともに、それぞれの個性を把握できるのは150人(ダンバー数)程度が限度です。一般に社会性のある動物の脳のサイズは集団規模と比例するといわれ、他の霊長類との比較からも、人間の脳のサイズはこの数字に一致します。生物的な相関を超えて集団規模を拡大できたのは、文字や画像といった外部記憶装置を持ったためかもしれません。

個々に異なる楽器をもちつつ、全体が「共感原理」でまとまって機能する。それぞれ異なって凸凹の状態ではあるが、凸と凹が相互に協働することで助け合う社会。そして、同時に他のBANDの存在を認め尊敬することで、BAND内部に常に異質な(新しい)価値観を取り込んで更新しつづける集団・・。個人的には、このサイズの集団を基礎とした自律分散協調社会が理想形ではないかと・・。

個人

グローバル化による境界の消失と拡散は、小集団の壁をも取り払い、結果、個人のレベルにまで価値観を違いを解体しています。多様性もここまでくると、エントロピーの法則がもたらす「熱平衡(拡散)」と同じで、人々を孤立させてしまいます。

人は社会性のある生物として最適化されているので、孤立は身体症状を含む様々な問題を引き起こします。個々人が他者との関わりの中で、共感しあえるとともに、自分自身の存在感を確認できるような小さな集団の存在が必要です。




APPENDIX

ホモ・サピエンスと集団

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社会性のある動物には、家族集団を基本とするもの(例えば一夫多妻のゴリラ)と、共同体を基本とするもの(例えばチンパンジー)とがありますが、我々ホモ・サピエンスは、家族という集団と、それが複数集まった共同体という集団の二重構造を採用した生き物です。

しかし近代になって、核化した家族が大都市に集合することで、共同体の機能(例えば、子供の面倒をご近所全体でみる)が失われ、メディアの発達によって家族集団の存在意義も希薄な状況になっています。個々人がバラバラに情報にアクセスできるようになったことで、集団における共有情報が希薄になり、結果として、人が孤立した状況になっているのです。

わずか 100年程度で、ヒトはその社会性における大きな環境の変化を体験しています。私たちはこの問題の大きさに気づき、社会のあり方をリ・デザインする必要があります。


寛容のパラドックス

自由を認めないのも自由だ。

のように、論理破綻してしまう現象を「寛容のパラドックス」といいます。

「多様性を認めない人々」を承認するという多様性

これも、多様性の主目的を否定するもので、論理破綻してるように見えるのですが、「」の内側と外側をそれぞれ部分集団と母集団として考えれば、この考え方は可能になります。

すべての地域社会に「◯◯に関する多様性の承認」を強制すると、世界中が当該事項に関する多様性を失って「一様」になってしまいます。これは宗教観の違いを否定することや、場合によっては、個々の社会から「言葉」を奪うことにつながりかねません。

例えば、同性婚に関して「多様性を認めない人々を承認する多様性」というものが話題になることがあります。私自身は日本が同性婚を認める社会になることに賛成ですが*5、これを他の国や民族にまで強要するのは、ちょっと違うのではないかと思います。

「国連が言っているから」*6とか 「先進国の大半がそうだから」*7といった理由で、それを人類のあらゆる集団に押し付けるのは、マジョリティがマイノリティを排除する思考と同じではないかと・・・。

多様性とは、生物の世界と同様、性質の異なるもの同士が「棲み分け」るとともに、集団の内部では一定の同質性を維持し、外部にある集団の異質性に対してはその違いを認めつつそれを適度に取り込みながら自らを更新するということ。「◯◯に関して、多様性を認めるか否か」は、個々の集団内部の問題であって、様々な集団が存在するという意味での多様性が重要なのだと、私は考えます。

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DATA


*1 この言葉は、IBMのCEO ルイス・ガースナー氏が「種の起源」の一節として引用した・・という話があるようですが、実際にダーウインの著作にはこのフレーズは無いようです。ダーウィンの考えでは、変化できるものというより、多産の結果、多くのバリエーションを生み出したのものが生き残る・・というもののようです。
*2 国民国家は、18世紀から19世紀にかけて、オランダ・イギリス・フランスにつづいてヨーロッパの他地域で起こった市民革命と近代化によって成立したものとされています。
*3 政治家の最大の関心ごとは「次の選挙に勝つこと」です。もちろんそれぞれが理想を掲げていることは確かですが、選挙に勝たなければ何もはじまりません。そのような状況では、見栄えのよい場当たり的な法が量産されるのは必然、もっと言えば、戦争の動向にも「次の選挙」が関係しているわけで、国民国家という規模の集団に未来があるのか、極めて深刻な状況であると感じます。
*4 最近キャンプで「焚き火」がブームになっていますが、かつてはどこの家でも焚き火ができました。集合住宅が増え「洗濯物に匂いがつく」とか火災の危険があるなどの理由で私たちの日常からそれが消えました。今では葉っぱ1枚(タバコ)すら燃やせない状況です。人間が密に集まることが、様々な自由を奪うということがこんな事例からもわかります。
*5 異性婚・同棲婚以前に「婚姻制度」自体の人類学的意味と現代社会の有り様について、時間をかけた議論が必要であると感じています。
*6 国際連合(United Nations)の目的は、1) 国際平和・安全の維持、2) 諸国間の友好関係の発展、3) 経済的・社会的・文化的・人道的な国際問題の解決のため、および人権・基本的自由の助長のための国際協力・・ということになっていて、加盟国は196か国と世界のほとんどの地域を網羅していますが、安保理常任理事国は第二次世界大戦の戦勝国に基づいて、アメリカ・フランス・イギリス・中華人民共和国・ロシアの5ヶ国です。その目的がまともに機能しているのか・・国連の言うことを鵜呑みにせず、少し引きで見る方が賢明かと思います。
*7 先進国という言葉は、一見洗練された人たち・・をイメージさせますが、どこに向かって先進なのかということを引きで考える必要を感じます。文明には先進と後進がありますが、文化には優劣はありません。
Last-modified: 2023-02-10 (金) 19:58:01