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Idea

発想法


人が何かを創造するとき、そこにはどのような心の動きがあるのでしょうか。作品が生まれる際の作者の心の動きを、単に「センス」とか「才能」とかいった言葉で片付けてしまったのでは仕方がありません。創造的な意識活動とは何か。ここでは、我々の頭の中でほとんど無自覚的に起こっていることを、でき得る限り意識化して整理してみたいと思います。


混沌から秩序へ

人は世界を「秩序立てて」捉えようとする生き物であり、また自ら「秩序」をつくる生き物でもあります。多くの神話が物語るように、世界のはじめは混沌としていて、境界・区分・目印といったものが存在していません。それが神々の力によって、天と地・昼と夜・善と悪といった2項対立的な区分を与えられ、秩序立ったものになっていくのです。

しかしそれはユクスキュル(1973)の言う環境世界、すなわち生物が本能のプログラムによって対応・生成する秩序ある世界とは異なるもので、人の意識の中で「恣意的な」ものとして秩序立っているに過ぎない、一種の幻想世界です(現代人が科学的に把握している物理世界とて、それが言語という恣意的記号による一つの世界観であることにはかわりはありません)。
人間の創造行為を考える場合、まずこの点の理解から始める必要があります。なぜなら、人間が行う、「過剰な」秩序の創造行為は他の生物に無縁のものであり、逆にそのことが人間の創造行為の根底にあるものを知る手がかりとなるからです。

誰にでも経験があるでしょう「コレクション」という行為を例にとってみます。今ここに1950 年の年号が刻まれた一つのコインがあるとします。そこへ1951年製のコインが偶然ころがり込むと、その規則性の拡大のために1952 年製のものが欲しくなります。そしていつのまにか引き出しの中には年代順という「基準」で秩序づけられたコインの幾何学的配列ができあがる・・・。

しかしこの秩序は、蜜蜂がつくる巣の幾何学的秩序とは違います。蜜蜂の巣をつくるためのプログラムは、すべての蜜蜂のDNAに記述されていますが、コインのコレクションのための分類プログラムは、コレクターの脳の中にしか保存されていません。年代順という「基準」を知らない人には、ただ「コインがいっぱいある」ようにしか見えないのです。人が何らかのコレクションにのめりこむ場合、まずこのような基準となる「視点・視軸」なり「知識ベース」なりが存在するもので、それを共有し得る人(いわゆるマニア)が集えば、胸躍るような秩序ある(意味のある)世界ができるのです。

一方、その道の専門的知識を持たない門外漢には、ただ物が並んでいるようにしか見えません。切り分け方が理解できなければ、意味も見えてこない。コレクションを秩序ある一つの世界として他者に理解させる(コミュニケーションを成立させる)には、その世界を見るための「視点・視軸」や「知識ベース」を共有しなければならないのです。他者とのコミュニケーションが成立し得る世界をつくるには、その世界が何らかの基準で恣意的に秩序立てられていることと、その基準に関わる知識を集団の成員全員が共有する必要があるのです。どのようなタイプのものであれ、人間のつくる秩序というものには、この前提がつきまとっています。音楽も絵画も、そして広く「文化」というものも、本能のプログラムではなく、後付けで被せたプログラムが構造化した秩序であって、したがってその「仕様」を集団の成員が何らかの方法で共有しなければコミュニケーションは成立しないものなのです。

人間の芸術的な活動の大半も実用性・機能性を離れて、純粋に「秩序」そのものを指向します。ということは、「作品」を発想するという場合も、それが何ら かの仕様に基づいて秩序立てられていて、同時にそれが他者(鑑賞者)にも共有される必要があるわけです。コミュニケーションを前提とした創造行為というも のは、この事抜きには考えにくいものです。すべては、生命維持や種族保存といった本能的必然性に止まらない精神の過剰な働きによるものです。今日、人間の このような過剰な行為が地球の環境にとってはマイナスに作用する(無ければ無いで済むものを「便利」を理由に開発し、結果的に多くの問題を抱え込む)もの であることは誰もが認めることですが、この過剰な精神活動こそが人を人たらしめるものであり、この点を抜きにしては「創造」は語れません。

過剰な脳が「後付けで被せた」秩序は、自然・必然といったことからは自由なもので、何度でも「組み換える」ことができる可能性をもちます。秩序という枠組みが変われば、その中にある要素の役割も変わります。同じ素材でも枠組みを変えれば、違った生かし方ができるのです。そう考えれば、人間の過剰が成せる「秩序」というものも、創造の基本原理として、非常に重要なものであると感じられるのではないでしょうか。「無駄」なものこそが大切なのです。

人間の社会では「集団Aにとってはゴミにしか見えないものが、集団Bにとっては宝の山である」というようなことがたくさんあります。人間はそういうもので楽しむことができる。もともと「過剰」に生み出された「生命レベルでは必要のないもの」なのですから、その意味では、新しい価値・秩序は無限に生み出すことができるといえるでしょう。

さて、楽器を前にして、あるいは白いキャンバスを前にして何かを創ろうとする場合、具体的にはどのように発想すればよいのでしょうか。それは「混沌から 秩序へ」と意識を働かせることであり、H・リード(1966)『芸術の意味』の言葉を借りれば「心楽しい形式をつくる試み」なのですが、それには様々な具 体化の方法が考えられます。以下にその発想法について整理してみよう。

発想の前提・表現の限界(制約)

どのようなものに対してであれ、そこに何らかの「秩序」が見い出せれば、人はそれを「何者かの創造物である」と理解します。そして確かに、蜂の巣のような自然界の幾何形態も含めて、人間がそれを「秩序」あるものとして見聞きすることのできるものは、ある意味で美しいと言うことができるでしょう。つまり、何かを発想するときにまず考えるべきことは、とりあえず、「何らかの基準に沿って秩序ある状態をつくる」ということです。そのアイデアに賛同が得られるかどうかは別として、それが人特有の創造行為であり、できあがるものに何らかの意味なり価値なり芸術性なりが与えられることは確かでしょう。

しかし作品の制作を考えるとき、何の制約もなく自由に「秩序」をつくることができるかと言うと、事はそれほど単純ではありません。作品づくりの自由度にも様々な制限があるのです。具体的な「秩序」構成の話に入るまえにその点を述べておきましょう。

スケール

第一に、人間の視聴覚に関わる空間的なスケールと時間的なスケールの限界があります。速すぎて聞き取れない、遅すぎて旋律がつかめない、音階のステップが細かすぎて(12音階音楽など)つかめない、小さすぎてよく見えない、大きすぎて全体の構図がつかめない、あるいはまた長時間すぎて疲れてしまう、など、時間や空間に関して的外れなスケールでは作品になりにくいといえます。

バランス

第二に、人間の体の運動バランスと空間的なバランスとに関わる制約が挙げられます。音楽では「拍子」が大きな問題で、原則2・3・4拍子を基本としてその倍数であればリズムもとりやすいのですが、5拍子まではともかく("Take Five"は有名)、7拍子のような変拍子となると、一般的には「ついていけない」ということになってしまいます。本来、時間軸上の秩序という意味では4 拍子も7拍子も同等であるはずなのですが、相手は機械でなく人間であり、体がついてこないものは成功しにくいというのが現実です。

垂直・水平

空間芸術では、あらゆるものの基軸としての垂直・水平線が作品の配置に大きく作用しています。我々の体は重力とバランスをとっていて、視覚は重力方向に重さを感じるかたちで世界を捉えています。身のまわりのものはすべて建築空間の床面を基準とする垂直・水平の格子におさまっていて、絵画もポスターもテレビの画面もそこに収まらざるをえないのです。したがって大半の画像・映像は垂直・水平で枠取りされた長方形の空間内にレイアウトされなければならず、またその中では本来同等の意味をもつはずの1本の線も、斜めになっていることで「不安」・「緊張」といった役割を必然的にもたされてしまうのです。見ているのは正立した人間です。この方向は絶対的なものとしてあらゆる空間的な造形に制約を与えています。


環境

第三に、気候・風土の違いも見逃せません。例えば欧米と日本を比べた場合、気温はほぼ同じでも湿度の違いは大きく、これが「楽器の鳴り」や「絵の具の乾き具合」といった物理的な違いとなって、表現の可能性に制限を加えてしまいます(気候・風土が異なれば、絵筆の使い方にも必然的な差が生じるものです)。また気候・風土の違いは、当然「快適さ」や「美しさ」に対する意識の違い、すなわち文化の違いも生むもので、それは当然無視できない問題として作家の創作意識を左右しています。気温・湿度・気圧といった自然界のパラメータが創作活動に無関係でないことは厳然たる事実でしょう。

文化

第四に、年齢差・性差、そして様々なレベルで人間の意識に食い込んでいる「文化」の差異の問題があります。年齢や性の違いで、作品のもつ秩序が見えない、誤解が生じる、あるいは呼び覚まされる感覚が異なるということは当然あることで、さらに、社会の中での立場や役割、生活環境、その民族に特有の「音階」や「色彩嗜好」、そして世界認識の根底にある「言語体系」、そういった諸々の文化的基盤というものも、情報の捉え方に決定的な差異を生じさせるのです(むしろこの「文化」の問題が一番大きい)。

その意味では作品を享受できる、言い替えれば、作者と同様の世界観に基づいて作品を共有できる人というのはある程度限られてしまうと言えるでしょう。老若男女問わず楽しめるものというものはそう多くはありません。作家は創作の過程で、出来上がった「情報」の受け手が誰であるかを無視するわけにはいかないのです。

制作の現実

最後に、これは議論の本筋からは逸れるかもしれませんが、創作物に関する物理的・経済的・法的制約が挙げられます。純粋な「芸術」の世界では問題にはなりにくいのですが、企業活動に位置付けられて、経済的に成功することが前提となる音楽プロデューサーやグラフィックデザイナーなどにとって、この問題は避けようのない制約です。

情報の表現媒体・記録媒体また伝送媒体に関する物理的制約、制作費という経済的制約(素材の妥協・技術の妥協が強いられる)、印刷コストの問題から生じるサイズや色数や解像度の制限、さらに(著作権法は当然としても)広告表現などでは、効能書きの文字サイズに関する制約など一般には知られていない法的制約もかかります。 そして「大衆受け」・「スポンサー受け」せねばならないという最大の検討項目があって、プロと呼ばれる作り手の大半はこれら数々の制約をトータルに計算したうえで、作品を発想せねばならないのです。我々をとりまく大部分の音楽や映像がこうした制約と計算の上に成り立っていることを忘れてはならないでしょう。



選択的制約

制作の過程で「あれもしたい、これもしたい」と、いろいろな可能性が見えてきて、収集がつかなくなることがあります。「あれもこれも」を秩序化する発想で攻める場合は別として、素材やそれを扱う技術に無限の可能性があると、かえって首尾一貫しなくなって「濁った」ものが出来上がるものです。

そこで逆に、自ら素材や技術に制限を加えることで骨格を見えやすくする、という発想も大切です。小学校低学年で習う言葉だけを使ってみる(作詩)。楽器の数や音域を制限し、重複する音は省いてみる(作曲)。色数を数種類に制限する(絵画)。文字のフォント・スタイル・サイズを限定する(ポスター)。モノクロにする(写真)。撮影に使うカメラやレンズを一本にしぼってしまう(映画)。特殊効果のパターンを数種類に限定する(テレビ)。生成アルゴリズムやパラメータに制限を加える(CG)。そうした制限をかけると、自分が取り組みたい主たる骨組みに意識を集中することができ、結果的に「要素間の関係がわかりやすい」すなわち「伝わりやすい」ものができることになります。

特にコンピュータによるデジタル加工処理が一般的になった今日、何でもできてしまう道具を前にすると「あれもできる、これもできる」と発想の鍵がしぼり込めなくなることも多くあります。そこで逆に自ら利用する技術を制限し、作品に一貫性をもたせるという発想は必須のものとなるでしょう。



鍵(Key)を意識する

何をつくるにせよ、「秩序」を貫く鍵が必要である。それは「視点・視軸」・「準拠枠」・「方向性」・「順番」・「階層」・「規則」・「法則」・「テーマ」・「コンセプト」など、様々なレベルのものが考えられるのですが、要は「何がしたいのか」・「何を基準にまとめるか」を明確に意識化することが重要だと言えるでしょう。

単に文字を並べるという行為にも、「画数で並べる」・「音(あいうえお順)で並べる」・「形で分類する」・「文章になるようにならべる」など様々な基準が 考えられます。また「現在の並びに対して、ある一定の演算を行って新しい並びをつくる」ということをすれば、新旧の間に歴史的な法則ができるし、「とりあ えずコンピュータでランダムに並べることを繰り返し、面白い並びのものを採用しよう」というオートマティスムもいいでしょう。とにかく「秩序のつくりかた」にはいろいろな鍵があり、その発想の可能性は無限にあるのです。

もちろん、場合によっては法則もテーマもなしにその場の勢いで作って成功する(この場合、あとから法則やテーマが発見される)ということもありますが、我々の身の回りにあるテキスト・音楽・映像、さらには工業製品・建築物・都市空間まで、勢いで偶然的にできたというものはほとんどありません。ものづくりに携わる大半の人間が、何らかのかたちで自分なりのあるいは企業なりの発想の鍵を定め、それに従って秩序ある構築作業に関わっていくのです。

そして当然のことですが、そうしたものづくりの鍵とは「自分は何がつくりたいのか、もともと何が好きなのか、そして何故それが好きなのか」といったことを 自問自答することでしか見えてこないものといえるでしょう。



加算型の発想と減算型の発想

さて、ここから具体的な「秩序をつくる」ための手順の話になるのですが、まず源初の「混沌とした状態」(すなわち何もない状態や素材が山積みされた状態)をどのように攻めるかについて、二つのタイプの攻め方が考えられます。一つは何もないところに何かを加えていきながら次第に秩序ある状態に組み立てていく方法で、もうひとつは逆に山積みの状態から何かを削除していくことで次第に秩序ある状態に整理していくという方法です。前者は「加算型」の発想、後者は「減算型」の発想といえるものですが、人間が何か事を起こすときは大体このいずれかの発想をとるものです。

例えば、「話をする」という身近な行為でも、頭の中では、テーマにそった話題を集めながら、テーマにそぐわない部分は削除するということをしているし、「写真を撮る」というときも、ファインダーを見ながら足りないものを視野の中に加えたり、またじゃまなものをどかしたりしている。また例えば、都市計画という大きな事業を例にとっても、「現状の景観をそのままに、そこへ当てはめ得る建造物を次々に加えていく」という加算型の性格のもの(一般にアジアに多い)もあれば、「沼地を埋め立て、小高い土地を削り、まがった河川をまっすぐに矯正してすっきりさせていく」という減算型の性格のもの(一般に西欧に多い)もあります。

一般的なことで言えば「選択」という日常的な行為も、加えることと引くことの両方で成り立っているわけで、その意味では人間の意識的な行動はすべて加算と減算で成り立っていると言ってもいいでしょう。我々が日常あたりまえに行っていることを意識して見直せば、アイデアはいくらでもころがっているのです。




リフレイン

リフレインすなわち反復という行為は、あらゆる素材を秩序あるものへと構成する基本的かつ重要なテクニックです。ノックの音は2回であることで、それが人の行為であるとわかるし(秩序あるもの・意味のあるものとして聞こえる)、単なるインクのしみも折り畳んで複写すれば、左右対称な模様になり様々なイメージを喚起します(ロールシャッハ・テスト)。ひとつのリズムパターンも、音程を変化させながら繰り返せば楽曲になり、簡単な図形も並べればタイルパターンになり、また全体を部分へと再帰的に反復すれば雲や海岸線の美しい輪郭となります。

反復すること・複製をつくること・まねること、それは未知の生々しいもの・名付けようのないものにひとつの「基準」を付与して意識化します。我々の意識の中では、何らかの観点で同様とみなされるものが二つ以上あってはじめてイメージが一般化され名付けられるのです。混沌としたものが秩序化されるということは、このようなイメージ・概念の生産をも意味しています。

まねる
「まねる」は「まねぶ」すなわち「学ぶ」の語源とも言われ、人間が何かを秩序づ けながら意識化するというときの基本です。



対称性を破る(未完の美)

我々は、創造的思考において確かに「秩序」を指向するものなのですが、いわゆる「シンメトリー(対称)」という完全なる秩序に対しては、それを忌避する傾向があることも事実です(シントロフォビアと呼ばれるシンメトリーに対する忌避症もある)。古代ギリシアの伝統をひく文化圏では非対称なものは美的によくないものとして退けられる傾向にありますが、特に我々日本人の文化について言えば、あえて非対称とするような造形が多いようです。造園や建築空間の構成を見ても完全なるシンメトリーは少なく、むしろ対称を意識しながらわざとそれを破るというつくり方をしたものが多く見られます。もともと自然界に存在する樹木も動物の体も、基本的なかたちはシンメトリーで力学的にバランスをたもってはいますが、ディテールは左右異なっていて、それがそれぞれの表情を豊かなものにしています(例えばもし人の顔が中央を軸に完全に左右対称な「ウルトラマン顔」であったとすると、それはなんとなく気持ち悪いものになるでしょう)。

対称ではない、どちらかが優位であるということは、実は人間社会でも大切なことです。もし拮抗する二つのものが、どちらも同等という状況であれば、結論が出せずに話が先に進まなくなってしまいます。どちらかに優位な部分があるからこそ、物事スムーズなのです(実際には、理論的に差がない場合でも、人間の判断には「感情」というものがあって、最終的にはそれが決着をつけています)。

「利き手」もそうです。優位な方が決まっていることで、我々は、必要な瞬間に手が出遅れることなく対応できるのです。

情報量という観点から言っても、非対称なもののほうが豊かな情報をもつことが説明できます。完全なる左右対称なものは、例えばそれが画像だとすると、送信側が左半分の情報を転送するだけで受信側では全体を復元できます(単純に1/2に圧縮可能)。すなわち半分だけですべてが表現されているわけで、情報量は半分しかないのです。一方非対称なものはある程度の秩序感・バランスを保ちながらも半分に圧縮することは不可能で、その分大きな情報量をもつと言えます。

これは冗長度という言葉で言えば、シンメトリックなものは冗長度が高く、アン・シンメトリックなものは冗長度が低いということです。一般的に「冗長度が高い・伝わりやすい・情報量が小さい・つまらない」ということに対して、「冗長度が低い・伝わりにくい・情報量が多い・驚きが大きい」ということは、情報の観点から対置できるものですが、創造された秩序というものを美的なる情報と考えれば、冗長度の高すぎるものは、相手に通じやすいけれども、驚きがない、それ以上の関心を呼ばない、つまらない、というものになってしまいます。秩序はそれがあまりにも単純な言葉で説明できてしまうようであると、意識を素通りしてしまうのです。例えば、先に述べた「反復」によって形成された「秩序」も、それがあまりにも簡単な規則性で成り立っていると意識を素通りしてしまいます。したがって、逆に反復の過程に若干のズレが与えられれば、「反復」という秩序構成の「基準」はより生き々きと意識化されるのです。

情報はそれがわかりやすいだけでは退屈します。かといって驚きの連続では疲れてしまいます。対称性を破るという発想には、創造物の秩序とそれを破壊する力との微妙なバランスを考えることが重要なのです。

参考




欠如をつくる

欠如・不完全は、「完結させようとする」モチベーションを喚起します。

変換する

異なる文脈に置く

既成概念から自由になる

発想を逆転する




手続き記述の発想法

コンピュータ・グラフィックスには、何らかの造形的規則と生成パラメータを与えて、あとは機械に描き出してもらうという発想のものがあります。数学者の(美的)実験から発見されたジュリア集合やマンデルブロ集合といったフラクタル図形もその典型で、単純なプログラムで生成されているにも関わらず、無限の奥行きをもったディテールで美しい秩序を表出させています。同様の発想で、剰余や三角関数のもつ周期性を利用した幾何学的な造形も、そのプログラムに何らかの工夫をこらすことで思いがけない変化を生むことがあり、このような数式という生成規則による造形も、その応用は無限の可能性をもっていると言えます。これはもちろん音楽の領域でも応用されており、語の生成(作詞)や旋律・和声の生成(作曲)に規則を与えたうえでランダムに複数のサンプルを自動生成し、その中から気に入ったものを選ぶという発想はコンピュータの登場以来一つの作曲の手法として現実に利用されています。

さて、こうした手続記述型の発想法には大きく二つのタイプがあります。ひとつは「全体を統一的な生成規則で描く」もので、もうひとつは「要素の相互関係にのみ規則を与えて、複数の要素から成る全体を描く」というものです。

前者の典型的な例は数理曲線や再帰図形などですが、これらは一般に「いかにも機械的で表情に欠ける」という性格をもつため、生成の過程で若干の乱数を加えることで表情を豊かにするという方法をとることも多いようです。この乱数は先の話で言うと対称性を破る存在で、例えば単純な2分木の再帰図形でも、適度な乱数で十分豊かな表情を醸し出します。

後者は、いわゆる複雑系の現象のシミュレーション、例えばフォン・ノイマン(1957)のセル・オートマトン、クレイク・レイノルズ(1989)のボイド(鳥もどきのアニメーション)などにその典型を見ることができます。多くの要素が絡みあう複雑な系(Complex System)において、我々の目に面白く見える部分というのは、秩序の領域と混沌の領域がせめぎあう「カオスの縁」と呼ばれる領域です。たばこの煙に例えて言えば、たばこの先から一直線に上昇している部分が(決定論的に記述される)秩序の領域で、天井に拡散した部分が(確率論的に記述される)混沌の領域。そして、その中間にある煙の「乱れそめ」の部分が(カオス理論の対象となる)見ていて面白い領域です。コンピュータで要素間の関係に規則を与えて、そのふるまいを観察した場合も同様で、安定した秩序に落ち着くか、あるいは無秩序な撹乱になるか、あるいはその中間的状況として複雑で有機的な形を次々に展開するかになるのですが、もちろん最後の状態が見ていて面白いものであり、造形的にも応用が効きやすいものです。ただしこの場合の条件の与えかたは難しく、その試行錯誤はゲーム感覚ですらあります。

いずれにせよ、こうした発想法の最大の特徴は、「何ができるかは、結果を待つしかない」という点と「数多く生産させて、美的に良いとおもわれるものを選択する」という作品に対する姿勢(進化論的な発想)で、これは機械(特にコンピュータ)が登場する以前にはできなかった発想です。もちろん自然界にある偶然の産物のなかから面白い部分を抽出するという発想は古くからあるものかもしれませんが、偶然を機械的に制御しながら面白い形が出来るまでひたすら作らせるというのはまったく新しい発想といえるでしょう。



物語の発想法

中心と周縁

境界線上のトリックスター

物語の構造

記事は以下のページに独立させました。

補足:関連用語

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*1 水鏡、すなわち、鏡を床に置けば上下反転します。鏡において対称性をもつのは、実は奥行き方向です。文字が左右逆に写るのは、わたしたちがそれを無意識に水平方向に180度回転したらからで、垂直方向に回転して写した場合は上下が反転します。私たちは重力による制約を受けているために、「鏡は垂直に立てる」「回転は水平に行う」ということ自体が無意識のうちに条件付けられていることに気づかないのです。
*2 人間がすることは、表向きは無為であったり破壊であったりしても、結果的には何らかの「秩序」を志向しているように思われます。それは言って見れば「無秩序なネットワークが枝を落としながら秩序化していく」という人の脳の宿命なのかもしれません。
Last-modified: 2019-07-05 (金) 20:51:14