LogoMark.png

SocialDesign/Identity

アイデンティティについて

SocialDesign|Identity

アイデンティティ(identity)とは「身元・自我同一性・独自性・主体性・本人であること」といった意味を担う言葉ですが、日本人としてのアイデンティティ、企業のアイデンティティーなど、「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」を意味する言葉としても用いられます。

「私」のアイデンティティ

アイデンティティ(自己同一性)とは「自分は何者なのか」「本当の自分は何か」など、他者や社会との関わりの中で、自分が自分であるという感覚を持つことを意味するもので、その自分が、過去・現在・未来とブレない感覚を持つことを、アイデンティティの確立と言います。

これに近いイメージにものとして「キャラ(キャラクタ)」という言葉がありますが、似て非なるものなので、合わせてお話します。

若年層の会話の中に登場する「キャラ」には「いじられキャラ」「天然キャラ」「毒舌キャラ」「ボスキャラ」など、カテゴリ名がつくのが一般的です。英語で Character と言えば「文字」の意味もあるように、キャラとは「構成要素」、つまり「区分け」とポジショニングによる秩序の構成要素と言えるでしょう。

しかし、私見を先に述べれば、関係構造というのは、動的にしか安定しないので、このポジション争いに加わると不幸なことが起こります。キャラとアイデンティティの違いを認識し、キャラの確立ではなく、アイデンティティの確立を考えることを推奨します。

現代社会では多くの人が、スクールカーストのような集団の関係制度の中で、キャラのポジション争いをしている・・。自分の興味関心に嘘をついてでも、キャラが被らないように調整し、結果「キャラづくりに疲れた」となる。

人間にとって「承認欲求(マズローの欲求5段階説の上から2つめ目)」は自然なもので、人間関係における「私のポジション」は、できるだけ安定させたい・・というものかもしれませんが、会社で、家庭で、趣味のサークルで、あらゆる人間関係ごとに自分の「キャラ」を調整していると、私は何者か・・というアイデンティティに乖離が生じて、心を病む結果となるような気がします。

以下、アイデンティティとキャラの決定的な違いです。どちらを確立すべきか、答えは明らかであるように思います。

ついでに補足すると、「能力」という実体のない幻想を追いかけるのも同じ。「◯◯能力検定」のように、数値的な尺度で優劣が測れるもの(競争できるもの)については、あなたの替わりはいくらでもいる・・と言えます。現代社会は、能力主義(メリトクラシー)に洗脳されているので、「◯◯能力を高めましょう」的な話が違和感なく聞こえてしまいますが、そもそも「能力」とは何なのか、それは個人に属するものなのか・・というところから考える必要があるのではないかと思います。

例えば、就活で必ず話題になる「コミュニケーション能力」って何でしょう。そんなものが本当にあるのでしょうか。業者が使い始めた言葉を何も考えずに流布させるから、多くの人が「私はコミュ障」と思い込み、自己肯定感を損ねてしまったのではないかと思えてなりません。はじめに実体があってそれを「コミュニケーション能力」と呼んだのではなく、「コミュニケーション能力」という言葉が、そんなものが存在するかのような幻想を喚起したのです。

確かに「話題が豊富で話のうまい人」というのは存在するし、それが「知識の習得と技術的な訓練」によって高まることは事実でしょう。しかし、その結果出来上がるのは、どれも似たような「プレゼン上手いキャラ」です。そして(2023年時点での)その代表は ChatGPT ・・これが現実です。

歌唱力がある人が「歌うたい」になるのでしょうか。歌が上手い人は五万といます。歌が上手いことではなく、その人にしか歌えない歌があること(アイデンティティがあること)が「歌うたい」の本質ではないかと思います。

代替可能なキャラを目指すのではなく、ブレないアイデンティティを確立することにコツコツと時間をかける方が、単純に楽しいのではないかと思います。

集団のアイデンティティ

集団への帰属意識を意味するものとしてのアイデンティティは、集団秩序の安定と、そこに所属する個人の自我の安定に重要な役割を果たしていて、例えば、国旗、ユニフォーム、CI(ロゴマーク)などは、それを視覚的に見える化するものと言えます。

アイデンティティを生み出すアイテムのデザインはソーシャルデザインの重要なテーマと一つとなります。

しかしそうしたアイテムも活用の仕方によっては、集団間の対立を助長したり、個人のアイデンティティを侵害するなど、負の側面を持つことも事実です。

GroupIdentity.jpg

集団組織は、大きくツリー型(中央集権型)とセミラティス型(自律分散協調型)に分けることができますが、負の側面が出てくるのは、ツリー型組織がアイデンティティ強化のために、ユニフォーム等のツールの利用をメンバーに強制する場合です。集団のアイデンティティに関わるアイテムをデザインする際は、集団をセミラティスとして捉え、個々のメンバーが自信のアイデンティティーを保ちつつ、同時に集団の一員としてのアイデンティティを持てるような発想が望まれます。

主語(私)のない表現が可能な日本語文化圏(日本社会)では、個人よりも集団の方が上位にあって、アイデンティティ強化のためのツールが受け入れられやすく、それを受け入れない個人を排除することで対向的(ネガティブ)に組織を強化する傾向があるのですが、そのような体質は、無意識のうちに集団の暴走(他の集団との争い)や、マイノリティーの排除を助長してしまう危険があります。過去の失敗を反省し、問題を生まないデザインの方法が求められます。

アイデンティティを活性化するためのアイテムデザインは、メンバーへの強制を前提とするのではなく、メンバーが自発的に「それを利用したい」と感じるようになされるべきだと思います。

参考:大衆人(mass-man)

オルテガ・イ・ガセットはその著書『大衆の反逆』の中で、烏合の衆と化した人々(マジョリティ)を痛烈に批判しました。

みずからを、特別な理由によって − よいとも悪いとも − 評価しようとせず、
自分が「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を感じることもなく、
むしろ、他人と自分が同一であると感じていい気持ちになっている・・
凡俗な魂が、その権利を大胆に主張し、それを相手構わず押し付ける

そんな烏合の衆の「同調圧力」が現代社会には蔓延しています。

参考:自己家畜化(Self Domestication)

ヒトは「自己家畜化」する生き物である・・と言われることがあります。日本語の「家畜」という言葉は、「社畜」と同様にあまり良い意味では用いられないものですが、本来の Domesitication は「グループに馴染ませる」といった柔らかい意味で、協調・協働・共生といった社会に必要なことでもあります。
 ただ、これが強制的に行われたり、極端な「選択と集中」につながると「多様性が失われる」という問題に発展します。
 社会の拡大とその効率化のために、生活様式や価値観は一元的になりがちで、現在の人類は、一元化された安全な環境のもとでしか生きられなくなっています。拡大一元化する文明という人工的な環境へのヒト自身の「自己家畜化(Self Domestication)」は、人類を絶滅の危機にさらします。つまり、特定の環境に適応しすぎた生物は(多様性を欠いた生物は)、環境変動やウイルスによって絶滅する可能性があるのです。
 グローバル化は文明の必然として進行していますが、だからこそ「多様性」は尊重されなくてはならないと思います。





PAGES

GUIDE

DATA

Last-modified: 2023-04-27 (木) 19:15:50