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Feeling

感情

面白い・楽しい・幸せ・・に関する覚書

感情について

感情には大きく以下の2つがあるといわれます。

感情はヒトだけのものか・・
ヒト以外の生物においても、大脳辺縁系に発生した情動反応というレベルでは、感情には共通する部分があるようです。しかし、意識・言語情報処理が介在する複雑な感情現象は人間に特有のものといえます。極端な例でいうと「憎悪の感情によって同一種の生物を殺す、追いかけてでも殺す」というのは人間だけに見られる現象です。人間は「共同幻想」に生きる存在ですから、人間存在について考える際には、身体感覚に関連した情動の問題よりも、言語によって共同化された幻想に関わる精神のメカニズムの問題の方が、より重要な研究課題となります。
参考:感情

感情の分類

一般によく知られる言葉に「喜・怒・哀・楽」の4つの分類がみられますが、これに愛と憎しみを加えた六情「喜・怒・哀・楽・愛・憎」また中国の五情「喜・怒・哀・楽・怨」といった分類もあります。私たち日本人の文化についていえば、部首に「心」をもつ漢字は豊富にあるので、その数だけ異なる感情がある・・ということもできるかもしれません。

「面白い!」について

あらゆる感情現象に言えることですが、どんなことに対して「面白い!」と感じるかは、人により、また状況により様々です。感情はそれを享受する人の脳内で起こる現象なので、作り手が100%その状況をデザインできるものではありません。しかし、作家、お笑いタレント、クリエイター等々と呼ばれる人たちの創造行為をみれば明らかなように、世の中には高い確率で「面白い!」状況を作り出すコツが存在することも確かです。
 ちなみに脳内現象の操作に必要なのは主に「情報」としての刺激です。「面白い!」をデザインするのに、資源やエネルギーつまり「お金」は不要です。

さて、ここでは少し範囲を拡大して、「面白い!」「楽しい!」「幸せ!」といった感情がどんな場合に生じるのかを考えてみたいと思います。つまり、内外からくる刺激に対して「脳がよろこぶ」のはどんな場合か・・ということです。
以下、あくまでも私見ですが、分類を試みてみました。いずれも「脳内の神経細胞同士の結合に劇的な組み換えが生じて、脳内に快感物質が走る状況」と考えることができます。

以下、それぞれについて考察してみます。

知の体制化(感動する面白さ)

「大人になる」というプロセスも含め、「知」の獲得とは、生まれたてのぐちゃぐちゃな脳内結線を、あるところは強固につなぎ、あるところは切る・・というかたちで秩序立てていくことを意味します。「分かった!」というときに感じる「面白さ」はその典型的なもので、複雑に絡んだ脳内結線が、文字どおりいくつかの*1グループに分かれて信号の流れがクリアになる状況・・と説明できます。解けなかった問題が解けるようになる・・このときの喜びは、脳内現象でいうと、結線回路が分化・体制化することに由来するものです。
 ただし注意が必要です。ひとつの知の体制化がおこるということは、「別の体制化の可能性を捨てる」ということを同時に意味します。「大人になる」ということは、分かると同時に回路が固定する・・つまり頭が固くなって、新規性のあるアイデアが出にくくなる・・ということを意味します。生物学的な「成長」は必然的なものですが、「常識を身につけていく」という意味での「成長」はいいことばかりではありません。「子供の方がクリエイティブである」というのは、その意味では当然ともいえます。
 知の体制・脳内回路は組み替えが可能です。一旦できた体制を破壊して、別の可能性で再構築する・・という思考方法を身につければ、「面白い!」は再生産可能です。

知の崩壊と再体制化(笑える面白さ)

岸田秀によれば、笑いとは「共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放」です。既成の概念、常識、我々を縛り付ける思考の回路が寸断されると同時に、それまで異質なものとして位置づけられていたものが新たな関係を結ぶ瞬間、人は「笑える」面白さを感じます。例えば「解剖台の上でミシンと雨傘が出会う(ロートレアモン「マルドロールの詩」)」状況とか、「公道を走ってはいけない車が公道を走る(良い子はマネしてはいけません)シーン」などは「面白い」わけです。

自我(自己像・自尊心)の体制化(充足感)

これは感動する面白さや笑える面白さと違うもので、「人生は面白い」というときの充足感のようなものです。そもそも人が物事の面白さを感じるためには、それを享受する側の精神的な安定が必要なわけで、自我の体制化はその重要な前提といえます。周囲との関係において「私」という自我が安定的に体制化するとき、人は充足感や幸せを感じることができます。

さて、「私」とは何かについて、確認しておきましょう。岸田秀(精神分析)によれば、「私」あるいは「自我」というものは「他者との人間関係において成立する幻想である」と考えられます。「私」という精神的な実体があって、それが世界と関わっているのではなく、他者との関わりにおいて「私」という幻想がつくられる・・ということです。
 一般に「私」というものには一定の人格構造なり性格なりが存在すると思うのが普通ですが、「私はこういう人間である」という当人の認識は、他者が「あの人はこういう人である」と思うこととはズレがあるもので、自己像は必ずしも普遍的に成立するものではありません。教室にいるとき、放課後部室にいるとき、家庭で・・。時と場所が変わるとまったく別人のよう見える・・というのはよくあることで、「私」はそれが今属している集団の人間関係によって様々に変化する。すなわち他者との関係によってどのようにでも体制化され得るものなのです。いわゆる「いいひと」はいません。人と人との「いい関係」があるだけです。ここでは「私」「自己像」「自我」といったものを、ざっくりとそのようなものとしてお話ししています。

自我(自己像・自尊心)の解体と再体制化(逃走・変身)

現実に居心地の悪さを強く感じる場合、つまり自我が崩壊の危機にさらされる場合、人は「逃げ場」を求めます。日常とは異なる人間関係の中で、安定した自我を構築することができれば、それを自我の中心に据えることができます。競争が激化する現代社会では、「職場」は最も自我が危機にさらされる場所。「朝活」や「夕活」といった職場以外の交流の場が流行るのは、多くの現代人が「自尊心を攻撃されることなく人間関係を維持できる場」を持つことで、自我の再構築を試みているからかもしれません。

また、仮面と異装、ハンドルネーム、アバターなど、時限つきで別人格を獲得するという行為にも、危機に瀕した日常的な自我をリフレッシュする効果が期待できます。その瞬間だけを見て「異常?」と思われることもありますが、そもそも「人格」自体が幻想ですから、人はそれを仮面のように着けたり外したりできるわけです。仮面舞踏会、演劇、ネットゲームの中のアバター・・・、非日常の世界で「日常の仮面」をはずして異なる人格を演じる、というのは誰もが「面白い」と感じる行為だといえます。
 ただ、注意を要するのは、現実の社会で体制化された自我よりも、アバターとしての自我の方が存在感が大きくなってしまう場合。現実の社会で崩壊の危機にさらされた自尊心が、ネット上ではヒーロー、皆に慕われる存在として安定的に体制化すると、その居心地の良さから脱することができなくなってしまいます。もちろん「現実の社会」といわれているこの世界自体が「共同幻想」ですから、どちらの人格も「バーチャルな世界に構築された幻想」である点では同じなのですが、その家族や、社会全体から見れば、良い状況とはいえません。アバターやハンドルネームを使った活動は時間を限って楽しむ・・というのが賢いやり方です。



「面白くない!」とはどういうことか

「○○とは何か?」という問いは、逆から考えるとわかりやすくなることもあります。つまり「○○とは何でないか?」を考えるということです。

知の冗長感(退屈・窮屈)

自我(自己像・自尊心)の崩壊、あるいは否定的自我感の固着

いずれも「私」が拠ってたつ安定的な「関係」を失うことを意味しますが、これらは状況によって、悲しみ、憎しみ、怒りなど、様々な感情を生むものです。また、その修復が困難な状態が続くと、解離性同一性障害などの精神の崩壊につながることもあります。「自我の崩壊」は「面白くない」という程度では済まない、人間にとって重大な問題だと言えるでしょう。
 人間は物理的な「肉体」の痛みで怒り狂うことはありません。「自我・自己像・自尊心」という「幻想」を傷つけられたときに怒り狂うのです。人以外の生物の「感情」とは、メカニズムが大きく異なります。



参考分野

脳と精神について、また人間社会の原理を考えるには、
以下の学問分野が参考になります。知的に「面白い!」です。

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DATA


*1 概念の分類は一般に、善と悪、天と地など、2項対立形式をとります。シナプスの結合には興奮と抑制があって、一方の回路が興奮したときは別の回路が抑制される・・まさに2項対立的なふるまいをします。
Last-modified: 2019-07-05 (金) 20:51:13