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PortableSkills

Portable Skills

場所にも時代にも依存しない生きる力

ポータブルスキルとは、一般に特定の業種・職種・時代背景にとらわれない能力のことで、最近では、採用活動や人事考課に関わる言葉としてよく聞かれるようになりました。しかし、ここではそういう次元の話ではなく、そもそも「能力」とは何か・・という点からお話をはじめます。

CONTENTS




はじめに

スキル(能力)という言葉(幻想)について

現代の「学校」では、その大半の時間を「社会への適応訓練」・「職業訓練」に費やしています。しかし、その訓練の「賞味期限」は技術革新の加速によって、どんどん短くなっています。かつて「学校」や「職業訓練校」で学んだことは、生涯に渡って有効なスキルとなっていましたが、機械やAIによる自動化・インターネットによる自由な交換によって、次々にその知識や技術が収入には結びつかなくなっています。「生涯学習」や「リスキリング」が話題になるのもそうした背景があるからでしょう。「がんばって勉強(訓練)しないと、将来苦労しますよ」という説教は、「スキルをアップデートしないと生きていけませんよ」という説教に変化しました。

ただ、私はこの「スキル」とは何かについて、いくつかの疑問を感じています。

昨今、ネット上で話題の「スキル(能力)」は、人間存在を「労働力」とみなした場合の「能力」の話が大半で、歴史的には、優生思想を背景に人を選別する目的で生み出された知能テストにはじまり、今では、あらゆる能力を数値化する仕組みが横行していますが、私が考える「能力」とは「生きる力」のようなもので、試験のような方法で測れるものではありません。生きる力というのは様々な方向を向いた力の総体なので、一次元の尺度にならして得点化できるようなものではない・・と、私は考えています。能力を数値化する発想は、マイノリティーをその世界から排除してしまう点で、個人的には違和感を感じます。

それだけではありません。私たちは無意識のうちに、スキルというのものが個人に属するものだと思いがちですが、集団(共同体)に属するものもあるのではないでしょうか。例えば、コミュニケーション能力というのは、関係構成力なので、個人に帰する能力というより、集団の能力ではないかとも思います。いわゆる話下手な人でも、その人の語り口を理解できる人が集団の中にいれば、集団全体としてのパフォーマンスが下がることはありません。

簡単な思考実験でもわかります。「核戦争で地球上にあなた一人が生き残った」状況を想像してみて下さい。そのとき、昨今騒がれているような「コミュニケーション能力」というのは、生きる力になりますか。他者との「関係」が消滅したときに効力を失う能力というのは、個人に属する能力ではなく、集団に属する能力と位置付けた方が、問題の本質を捉えやすいのではないかと思います。

能力という概念を、必要以上に個人に結びつけない・・という視点も必要です。

AI が実装された社会で

テクノロジーは、私たちの生活を変革すると同時に、社会における人間の役割を移行させてきました。

物を作るスキルも、絵を描くスキルも、音楽を演奏するスキルも、それが「収入を得るためのスキル」だとすれば、「苦労して適応訓練したことが無駄になる」というのは歴史を見れば明らかです。そして、その「賞味期限」はますます短くなりつつあります。

面倒なことは自動化したい・・という人間の開発欲がある以上、そしてそこに価格競争がおこる以上、商品としての労働力の価値は短期間で 0 になります。そしてその期間もやがて 0 になることが想定されます。今すでに、人間のリスキリングのスピードよりも技術革新のスピードの方が速いのです。

しかし・・だからといって、芸術それ自体の楽しみ、人として生きる喜びそのものが奪われるわけではありません。奪われるのは代替可能な「職業能力」であって、あなたにしか築くことができないアーティストやデザイナーとしてのブレないアイデンティティ(自己同一性)は、未来永劫奪われることはありません。

これらは、いずれも太古の昔から人類とともにあったもので、場所や時代に左右されるものではありません。

つまり、労働者である前に人間であるという視点に立てば、世界の見え方は変わります。社会性のある生き物としての人間は、無意識のうちに集団・組織に対して自己家畜化(Self-Domestication)すべく、その適応訓練(職業能力の開発)にエネルギーを注いでしまう傾向があるのですが、人類が技術革新に手を染める以前の社会に遡れば、音楽、絵画、ものづくり・・いずれも人類に特有の生きる喜びでり、社会を動的に活性化する原動力であったはずです。

能力(スキル)などという幻想に振り回されることなく、学ぶことの意味を根本から問い直し、この社会で生きる力を、生きる楽しみを取り戻しましょう。




ポータブルスキルの一般論

以下、就職情報サイト等にある「ポータブルスキル」の一般論です。これは人間というものを「労働力」とみなした話で、一般に スタンス > ポータブルスキル > テクニカルスキル のような区分で説明されるようです。

スタンス

スタンスとは、物事に対峙する際の立場や姿勢のことで、例えば「自身がキャリアを築く際に抱く感覚や意識」という意味合いが含まれています。


ポータブルスキル

ポータブル(=持ち出し可能)スキルとは、特定の業種・職種・時代背景にとらわれない能力のことで、積極性、協調性など、性格や人柄など、明確な基準がないのが特徴です。


テクニカルスキル

テクニカルスキルとは、特定の業界や職種において専門的な業務の遂行に必要となる知識や資格のことです。テクニカルスキルを有することは、就職や転職を有利にします。


参考

私的ポータブルスキル論

ここでは 個人の感想にもとづく私的分類 を紹介します。以下、当該学科・専攻の方への説明なので、事例は偏った内容になることをご了承ください。
生きる力 > ポータブルスキル > グローバルスキル > ローカルスキル
と4段階に分けてみました。

ヒト特有の生きる力

ホモ・サピエンスという生物種に普遍的な「生きる力」。
AI には真似できそうもない汎用能力

付記:これらの能力を発揮するのに、現代人が常備すべき必須アイテム

ナイフ、ライター、筆記具(鉛筆)

極限的な状況では、犬を連れていると心強い

ポータブルスキル

社会的な存在としてのヒトにが身につけることを欲する能力で、その習得には一定の「努力」が必要ですが、それは、楽しい・嬉しい・面白い・・といった感情を伴うと同時に、他者をもシアワセにすることができる能力です。世界中どこでも、また人類の過去においても未来においても有効に機能するスキルです。
・アウトドア、災害時の避難所など、電源・ツールの無い非日常的な場面でも有効
・AIによる代替の可能性は低く、むしろ AIとの協働により能力が拡張される可能性が高い

ポータブルスキルは「集団の存在を前提に効力を発揮する」社会的なものと言えます。先述したように「核戦争で地球上にあなた一人が生き残った」というような絶望的な状況では、その能力に価値を見出すのは難しいでしょう。ただし「どこかに誰かが生きているかもしれない」、「いつか船が来るかもしれない」という希望がある場合、あるいは、パートナー動物(犬など)が存在する場合は、ポータブルスキルはワタシを勇気付けてくれる能力として、価値を発揮するものだと考えられます。

付記:これらの能力を発揮するのに、現代人が常備すべき必須アイテム

哲学、紙とペン


グローバルスキル(テクニカルスキル / セミ・ポータブル)

現代社会(グローバル化する情報社会)において有効な能力で、その習得には「努力」が必要ですが、それに見合う充実感・達成感は得られます。ただし、それが有効となるエリアは限定的で、過去あるいは未来においても有効であるとは言えません。また一歩間違うと自己満足的なものにもなりがちな能力です。
・アウトドア、災害時の避難所など、非日常の場面では「?」となる能力
・徐々に AI・ロボットに代替されることが予想される

付記:これらの能力を発揮するのに、現代人が常備すべき必須アイテム

デジタルデバイス(PC・スマホ)、ソーラー充電器


ローカルスキル(ノン・ポータブル)

限定的な場面(例えば「社内」)で、短期間(例えば当該バージョンが有効な期間)にのみ必要な知識・スキルで、その習得には苦痛・不快感を伴うことが多い。やがて AI・ロボットに代替されるスキル。

ぜひ考えて下さい。
そのスキル、50年先の未来でも必要ですか?
大人に騙されないようにして下さい。




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GUIDE

DATA


*1 一人で生きていけることを「自立」と定義してしまうと、身体に障害のある人は自立していないことになってしまいます。「頼れる人」がいることをもって、人間の自立を定義すれば、すべての人に自立の可能性が見えてきます。
*2 犬との共生関係は、約三万年前のヨーロッパ、大型動物の狩猟のパートナーとして
*3 言語は、ヒトという種に最も特徴的なものです。自然環境との(本能的な)関わり方を見失ったヒトは、言語が生み出す「共同幻想(擬似現実)」に生きる存在となりました。地球上の他の生物種の視点に立てば、地球上で最も迷惑な行為を生み出す能力でもあります。
Last-modified: 2024-02-01 (木) 18:09:59