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唯幻論 の変更点


#author("2020-04-29T15:54:04+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko")
*唯幻論
ものぐさ精神分析 / 続・ものぐさ精神分析 覚え書き 
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このページは、私の世界観を大きく変えた 岸田秀氏(1933-)の著述をのコレクションです。ソーシャルデザインを考える上で、いずれも示唆に富む文章です。
-希望の原理 朝日出版 1985
-ものぐさ精神分析 中公文庫 1982
-続・ものぐさ精神分析 中公文庫 1982
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***CONTENTS
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***はじめに
人類は進化の頂点にあって、動物のなかで最も優秀な存在である・・といった記述に違和感を感じない多くの人にとって、それを根本から覆えす岸田氏の「唯幻論」はとても刺激的だと思います。岸田氏の考え方を手に入れると、私たちの社会がなぜこんなことになっているのか、そのしくみがクリアに見えてくるのではないかと思います。学生時代に文化人類学や精神分析の講義を好んで聞いていた私自身、この「唯幻論」に出会ったことで、より人間社会の構図が見えやすくなったと感じています。

ここに集めた文章をよりスムーズに理解するには、「言語」や「文化」というものについて、少し踏み込んだ理解が必要になります。以下のページや文献をあわせて読むことをお勧めします。
-[[言語|Language>Language]]
-[[構造主義|Structuralism>Structuralism]]
-[[共同幻想]]
-丸山圭三郎 言葉とは何か ちくま学芸文庫 2008 
-鈴木孝夫 ことばと文化 岩波新書 1973 

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***人類は生物進化の畸形児である
>人類は生物進化の畸形児である。このことは、人類を他の高等ほ乳類とくらべてみればはっきりする。牛や馬の赤ちゃんは生まれて間もなく自分の足で立ち、自分で食物を探して自活できるようになるが、人間の赤ちゃんは、ほぼ完全に無力・無能な状態で生まれ、自活できるようになるまでには長年にわたって親またはその代理の世話と保護を受けなければならない。
&size(12){国家論 p.42|ものぐさ精神分析};

人間も生物の一種であるはずですが、他の生物と比較してみると明らかに異常なことがたくさんあります。
-個体の生命維持という生物の基本原理の無視=自殺する 
(自己イメージ、プライドの価値が生命の価値を上回る)
-種族保存の目的以外の性行為・性倒錯
-大型動物であるにも関わらず、狭い土地に「定住」している
(大型動物は移動生活が常である)
-同種のもの同士で殺し合う
(近縁のチンパンジーなどにもその傾向はみられますが・・)
-インセストタブー(近親相姦の禁忌)が民族をこえて共通に存在する
-ただの紙切れ(紙幣)を価値あるものとみなして交換している
//-「ねじり歩き(訓練された身体動作)」に縛られている ?
などなど・・
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***文化とは、そもそも幻想の産物である
>本能がこわれてしまった人類は、それまで本能によって保証されていた自然的現実との密接な関係を失い、幻想の世界に住むようになった。現実を見失ったのだから、幻想しかもち得ないわけである。人類の努力は、この幻想を、何とかして見失った現実に近づけることに傾けられた。幻想の共同化としての擬似現実の創設がこれである。この擬似現実は一般に文化と呼ばれる。文化とは、そもそも幻想の産物である。
&size(12){史的唯物論批判|続・ものぐさ精神分析};
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***共同幻想
>共同幻想は、かけ離れてしまった本来の現実と私的幻想との双方をいくらかずつ裏切った妥協の産物であり、本来の現実を裏切っている点において、決して現実への十分な適応には達し得ず、つねにいくらかの不適応を招かざるを得ず、私的幻想を裏切っている点において、各人の私的幻想をあますところなく吸収し、共同化するには決して至らない。共同幻想は、絶えずその双方からの挟み撃ちに会って動揺する。
> この不安定さを減らすためには、共同幻想に支えられている集団を絶えず空間的また時間的に拡大してゆかねばならない。
&size(12){国家論 p.47|ものぐさ精神分析};
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***文明とは伝染性の強い病気である
>文明とは病気である。しかもかなり伝染性の強い病気である。・・文明は人類が生物学的に畸形的な進化の方向にはまり込み、本来の自然的現実を見失ったことにはじまる。人類は、見失った自然的現実の代用品として人工的な擬似現実を築き上げた。この擬似現実が文明である。しかしながら、それはあくまで擬似的なものであるから、どうしても人類と文明のあいだにはしっくりこない齟齬があり、人類は文明のなかにあってどこか居心地がわるく、場違いな感じを逸れ得ない。この居心地のわるさを解消しようとして、人類はまた新たな擬似現実を築きあげる。ここに悪循環が起こる。新しい擬似現実はさらにいっそう自然的現実からかけ離れ、ずれているので、人類はますます居心地がわるくなり、さらに新しい擬似現実を築くよう駆り立てられる。この悪循環は、一般に、文明の進歩を呼ばれている。
&size(12){伝染病としての文明 p.10|続・ものぐさ精神分析};
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***狂った猿
>人類の祖先が猿であるとすれば、それはただのまともな猿ではなく、狂った猿である。人類のかなりの集団はこの時期に実際に滅亡したのではないか。そのなかで、いくつかの集団が、幻想の共同化によって共同幻想、擬似現実を構築し、その擬似現実に適応するというやり方をたまたま見つけ出し、かろうじて生き残った。つまり狂った猿の一部が生き残って人類となった。その共同幻想は集団によって異なっていた。比較的安定した共同幻想を構築することのできた集団は、そのあとたいして変化を必要とせず、いわゆる「未開」の状態をつづけることができたが、共同幻想が不安定だった集団は、一定の状態に落ち着くことができず、いわゆる「文明の進歩」という状態を呈するに至った。
&size(12){史的唯物論批判 p.34|続・ものぐさ精神分析};
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***いわゆる未開人
>「いわゆる」未開人の立場から見れば、いわゆる文明人が未開人である。我々は他の文化の未開の要素にはたやすく気づくことができるが、自分の文化の未開の要素はなかなか自覚し得ないので、自分の文化とかけ離れた文化は必然的に未開の文化と見えてくるわけである。
&size(12){思考と言語の発達 p.195|続・ものぐさ精神分析};

アマゾンの奥地に住む[[ヤノマミ族>GoogleImage:Yanomami]]は、一万年もの長きにわたって同じ暮らしを続けています。文明人の多くは彼らを「未開」と捉えますが、その持続可能性を考えれば、われわれよりよほど賢い存在に思えます。
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***人間は幻想のために働く
>人間は幻想のために働く。あるいは幻想にひきずられて働く。幻想のために働くのにもかかわらず、人間の労働がある程度は現実への適応を保証し得るのは、人びとの私的幻想を共同化して共同幻想をつくり、この共同幻想を(擬似)現実としているからである。すなわち、それは自分の属する集団の擬似現実への適応であって、この集団の外へ出れば、同じことをやっても適応となるとはかぎらない。
&size(12){史的唯物論批判 p.30|続・ものぐさ精神分析};
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***人間だけが奴隷になり得る
>動物に労働を強制することはできない。人間だけが奴隷になり得る。人間を奴隷にし、労働を強制すると言っても、物理的手段によるものではない。人間はみずから進んで強制に屈服し、奴隷になる。・・
> 奴隷とは自分の主体的、現実的目的以外のために働く者のことであるが、人間が奴隷となり得るのは、そもそも主体的、現実的目的からずれた幻想のために働く存在だからである。したがってこの幻想をうまく操作すれば、思うまま人間を当人の納得ずくでどのような疎外労働へでもかり立てることができる。
&size(12){史的唯物論批判 p.31|続・ものぐさ精神分析};
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***心像は失った現実の代用品である
>動物の叫び声と人間の言語とは異質のものであって、そのあいだには断絶がある。言語は、人類が進化のいたずらによって現実との接触を失い、本能的にそなわっているコミュニケーションの能力を失った結果、その代用品として発明したものである。動物の発生や身振りは、同種の他の個体に通じる一定の意味と結びついているが、人類においてはこの結びつきが壊れてしまい、その発生は無意味な混乱したものとなった。人類が心像をもち、内的な心の世界をもつに至ったことも、現実との直接的接触を失ったことに起因しており、心像は失った現実の代用品である。本能的に決定された結びつきを正しい結びつきとするなら、この結びつきは錯誤であると言える。言語とは、このばらばらで恣意的な錯誤から、ある集団のなかで共同化したものである。言語とは、いわば共同錯誤である。だからこそ、各部族、各民族においてあれほど異なったたくさんの言語が成立したのである。言語は、そもそものはじめから、内的な自閉的世界に発するものであって、共同化の作業を経たのちはじめてコミュニケーションに役立つものとなる。
&size(12){思考と言語の発達 p.192|続・ものぐさ精神分析};
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***自我
>人間の自我は、種子から芽が出てくるように、人間が成長するにつれて自然ともつようになる何らかの実体ではなく、他者との人間関係のなかで構築される共同幻想であり、他者によって支えられている。個人は、自分一人だけでは、一つの肉体はもっているかもしれないが、自我はもち得ない。個人は人間関係の網の目のなかの一つの結び目のようなものである。個人は、他の誰かにとって何かであるということによってはじめて、世界のなかにおけるおのれの位置を獲得する。個人は、箱のなかに石が存在しているような意味で世界のなかに実体として存在しているわけではないから、彼の位置を規定してくれる他者が一人もいなくなれば、何者でもなくなり、無に転落する。・・我々は親にとって子であり、妹にとって兄であり、女にとって男であり、患者にとって医者であり、家主にとって借家人である。これらの「子」とか「兄」とか「男」とか「医者」とか「借家人」とかの属性の綜合がすなわち自我なのであって、自我という芯が別のところに存在していて、これらの属性を付加的にもっているというのではない。・・患者が一人もこなくなれば医者は医者でなくなるのと同じように・・
> われわれの自我のもっとも根源的な基盤は、親にとっての「子」という属性である。・・生れたとき、われわれは、自己と他者の区別のない渾然一体のカオスの中に住んでいる。・・われわれは、われわれに対して最初に出現した他者を母親とおき、その母親にとって「子」であるということを基盤として、はじめて自我を構築する。・・母親とは自我の起源である。
&size(12){近親相姦のタブーの起源 p.164|続・ものぐさ精神分析};

人間の赤ちゃんは、生まれたてのときは全能の存在として世界を感じていますが、やがて思うようにいかない不快感から母親という他者の存在に気づきます。最も身近にいる母親を他者として、母親に対峙する何者かであると措定することが自我の芽生えといえるでしょう。
 自分が発する音声に対して、母親が音声で応答する、そのやりとりが言語という共同幻想の獲得につながることからも、母親の存在は子にとって非常に大きなものであるといえます。
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***自我を支えるために発明された「家族」そして「神」
>人類の家族は、ある種の動物に見られるような一見家族的な集団の延長上にあるものではなく、人類独自の発明である。家族は生物学によっては説明できない。人類が家族という集団を形成し、家族制度をつくったのは、世界のなかにおける各人の位置を定め、各人の自我に基盤を与える必要があったからである(生存効率に良さから個人が集まって家族をつくったのではない)。そして、この家族制度の成立のためには、近親相姦のタブーが不可欠である。・・
> 個人は家族という一段上の全体の一部であり、家族は共同社会というさらにもう一段上の全体の一部である。部分は全体の一部としてしか存在し得ず、その全体はさらに大きな全体の一部としてしか存在し得ず、これはどこまでいってもきりがない。どこまでいってもきりがないので、人類は、たとえば神のような、もうそれより上の全体の一部ではあり得ないような絶対者を発明したのであろう。
&size(12){近親相姦のタブーの起源 pp.166-168|続・ものぐさ精神分析};

>この(神の)幻想が必要であったのは、人間が自我というものを築いたため、この不安定な自我の最終的支えとして絶対者を必要としたからである。
&size(12){ユングの元型について p.91|続・ものぐさ精神分析};

神は人類最初の「発明品」といえるかもしれません。放っておけば殺し合いをはじめる人間集団を安定させる最も効率のいい方法は、人間を超える存在を措定してそれに制御権を渡すということ。「悪いことをすればバチが当たる」という幻想が完全に共同化できれば、複雑怪奇な法律や警察組織、裁判・・みな必要なくなります。ただこの「良いこと/悪いこと」自体が共同幻想であって、集団によってその構造が異なるので、より大きな集団へとそれを拡大するには、神の存在をさらに一段上へ、つまり「布教」などによる共同幻想の拡大が必要になるのですが、現状を見るかぎりこの戦略には限界があるようです。
//また、現在世界で最も多くの信者を集めているのは「科学という名の宗教」で、それは自然的現実をかなりうまく捉えて再現性や実践的応用力の点ですぐれてはいるのですが、「進歩」を前提としている点で常に不安定な状況にある幻想の一種といえます。
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***欲望はつくられる / 欲望とは他者の欲望である
>「欲望」とは何らかの規範に照らして自分に欠けているものを欲することである。そして、その規範とは一種の幻想であって、個人の内側に実体的裏付けのあるものではない。いうなれば、恣意的な幻想が欲望をつくり出すのだから、欲望とは恣意的なものである。・・要するに、(人々の欲望を喚起するには)新しい規範をつくり出せばよい。(様々な広報戦略でそれがあたかも広く一般的なものであるという幻想を抱かせればいい。・・)幻想が一般化すれば常識となるのだから。
&size(12){流行について|続・ものぐさ精神分析};
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***時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する
>すべての欲望が満たされ続ける(いくらでもやり直しができる)のであれば「時間」の概念は必要ない。われわれは、満たされなかった欲望を「過去」として引き離すために、欲望を満たすチャンスを失った時点としての現在との間に「時間」を構成したのである。一方、空間についてはどうか。全能の存在として自己=全宇宙を感じている幼児にとって、自他の区分すなわち「空間」の概念は必要ない。しかし、やがて思うようにならない自己ならざるものの存在に気付く。自己の領域を徐々に狭めていく過程(つまり大人になる過程)における屈辱が、自己ならざる「空間」の起源である。
&size(12){時間と空間の起源 (の個人的解釈です)|ものぐさ精神分析};
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***笑いとは
>笑うのは人間だけである。犬や猫は笑わない。・・ということは、笑いが人間に特有な条件に起因することを示している。・・人間のみが幻想のなかに住んでおり、したがって人間のみが緊張する存在であり、したがって人間のみに緊張からの解放があり、したがって人間のみが笑うのである。・・挨拶としての笑い(つくられた笑い)は、「私は緊張していません。あなたを信頼して安心しています」という意味であり、自発的な笑いが緊張からの解放という意味をもっているからこそ、笑いをそのように用いることができるのである。
> ひとことで言えば、笑いとは、「共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放」の表現である。
&size(12){笑いについて p.235|続・ものぐさ精神分析};
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***価値について
>多くの人間は「生きるための価値」を欲しがったり、「人生には生きるに値する何らかの価値がある」と考えていたりする。人間は自然体で環境に適応することができない弱い存在であるから、他者と共有できる「価値」を作り出すことで落ち着ける場所をつくろうとする。そして、その社会をより安定した場所とするために、それを体系化し、拡大してきた。
> 価値体系ができあがると、価値の高いものと低いものが序列化される。しかし、その価値はもともと根拠のない幻想で、恣意的なものであるから、何種類もの価値体系をつくることができる。結果、価値体系の異なるもの同士の間には争いが絶えない・・ということになる。幻想を相対化する視点を持たず「自分の属する価値体系のみが正しい」と考えている人間がいかに多いことか。
> 「価値」は幻想であるから、こころの底から納得できるような確かなものは得られるはずがない。そこに「価値」があると思っているうちは、人生の「居心地の悪さ」は、どうあがいても解消されないし、争いも無くせないだろう。
&size(12){価値について(の個人的要約です)|続・ものぐさ精神分析};
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***気になること
>わたし(岸田)は歴史を幻想過程と見る史的唯幻論を唱えているわけであるが、ここで一つ気になることがある。・・(それは)歴史を何ら必然性のない「春の夜の夢(平家物語)」や、「よどみに浮かぶうたかた(方丈記)」と見る日本の伝統的歴史感の延長線上にあるような気がしてならない。結局、われわれは、伝統的思考形式から脱し得ないのであろうか。
&size(12){史的唯物論批判 p.36|続・ものぐさ精神分析};

わたしたちがものを考えるのに使っているのは日本語という日本民族の共同幻想の産物であり、そこから生まれる言葉の配列は、必然的に日本語としておさまりのいい状態へと向かうのではないでしょうか。日本語それ自体のなかに、人類というものを日本人なりに理解するための思考形式が構造化されている。「理解すること」それ自体が幻想なのだから・・。
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***関連ページ
-[[構造主義>Structuralism]]
-[[言語>Language]]
//-[[唯幻論]]
-[[共同幻想]]
-[[存在と科学]]
-[[正規分布>note/NormalDistribution]]
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