EXPO'70でつくられた太陽の塔が撤去されずに残った理由に関する一考察

提供: JSSD5th2022
Jump to navigation Jump to search


竹中 ゆき奈/ 九州大学 大学院統合新領域学府  
Yukina Takenaka / Kyushu University 

Keywords: 岡本太郎, 太陽の塔, 保存, 心のはたらき 


Abstract
The Tower of the Sun was built by the artist Taro Okamoto (1911-96) for the 1970 Japan World Exposition. Why did the Tower of the Sun remain when most of the facilities were removed after the Expo ended?In this study, from the perspective of stakeholders, including the operator, we focus on the process leading up to the preservation of the tower, and on the mental processes of the people who made the decision to preserve it. The purpose of this study is to examine the reasons why the project did not take place from a multifaceted perspective.



背景と目的

 高度経済成長の真只中にあった1970年に、日本では第一回目の万国博覧会(以下、万国博)が大阪で開催された。「人類の進歩と調和」というテーマのもと、77の国と地域の参加に加え、日本を代表する企業が出展し、近未来的な展示内容やパビリオンが人々を魅了した。来場者数は6,400万人を超えた。会場のほぼ中央に、シンボルゾーンが位置し、「人類の進歩と調和」を表現するテーマ館として、太陽の塔、大屋根、調和の広場、お祭り広場が配置された。太陽の塔は、芸術家岡本太郎(1911-96年)によって建造されたものである。万国博に建造された施設は、終了後に撤去することが定められているにも関わらず、太陽の塔はなぜ残ったのか。

 先行研究「岡本太郎《太陽の塔》の保存をめぐって」(春原2002)では、太陽の塔が残った理由として、大衆や海外からの評価が太陽の塔の保存に深く影響していることや、その背景には、レジャーブームや、野外彫刻の盛り上がりが関連していると論じている。しかしながら、最終的に保存を決定する立場にある万国博関係者が、なぜ塔を保存することにしたのか、その局面での会議で何があったのかという、運営者側の視点や人の心の働きという側面からは、まだ議論がなされていない。

 よって、本研究では、運営者側を含むステークホルダーの視点から、塔の保存に至るまでの経緯、および、保存の決定に至った人の心のはたらきに着目し、太陽の塔が万国博終了後も撤去されずに残った理由について、多面的に考察することを目的とする。

研究の方法

文献による調査

 当時の議事録および関係記録資料、さらに映像や関係者による言説などの一次資料を網羅的に調査し、その分析に基づいて各ステークホルダーの視点から塔が残った理由について考察する。


 ステークホルダーについては、次の万国博関係者に着目した。

  ① 万国博の運営者側

    日本万国博覧会協会(日本万国博覧会記念協会)役員・専門委員

    政府

    大阪府

    大阪市

    吹田市


  ② 制作者側

    岡本太郎(テーマ展示プロデューサー)

    丹下健三(建築家。1913-2005年)(基幹施設プロデューサー)

    高山英華(都市計画家、建築家。1910-1999年)(建設顧問)


  ③ 市民(万国博の参加者)

結果と考察

 万国博の建造物は、本来、万国博終了後に撤去することが前提であった。会場跡地や施設に関する会議が行われる中、1970年8月17日に行われた日本万国博覧会後処理委員会の幹事会および、二日後の8月19日に行われた第二回日本万国博覧会後処理委員会において、太陽の塔(大屋根、お祭り広場、エキスポランド含む)は撤去でも存置でもない検討対象外という位置付けになった。理由は、撤去か保存かの意見がまとまらなかったためである(朝日新聞朝刊1970年8月19日)。その論点の一つが、万国博終了後においても利用価値があるかどうかや、撤去費や維持費に関する内容であった。 しかしながら、1971年3月3日に行われた第7回万国博覧会跡地利用懇談会では、その議事録から、岡本太郎や丹下健三(岡本太郎の発言に付け加える形で発言)の発言により、太陽の塔(大屋根含む)は何とかして残そうという方向になったことが分かる。それにも関わらず、その後、1972年に報告された高山英華らによる万国博覧会記念公園基本計画報告書では、太陽の塔と大屋根は撤去する方向で計画されていた。しかし、1974年12月4日に発足した、撤去か保存かを決める最終会合である万国博施設処理委員会における、第三回目の会合(1975年1月23日)では、太陽の塔は永久保存の決定がなされた。大屋根は、劣化が進んでいること、改修に莫大な費用がかかること、技術上の都合から撤去されることになった。

 議事録の岡本太郎の発言におけるページの多さや、会議後の新聞による報道(毎日新聞朝刊1975年1月24日)から、発言には強い熱意がこもっていたことが分かる。その熱意や発言は、その内容から岡本太郎の一貫した思想や人生哲学、生き方そのものが影響している。

 岡本太郎の熱意と発言によって、会議に参加していた関係が心を動かされたことにより、太陽の塔は保存されることが決定したのではないか。

 さらに、太陽の塔の保存の決定に、直接的なつながりはないものの、最終決定に至る過程の中で、塔が撤去されなかったことに影響していると考えられる要素がある。毎日新聞夕刊1974年12月17日の記事には、太陽の塔や大屋根など、いわゆるお祭り広場一帯の処理は、撤去費が膨大なこと、芸術作品であることなどから敬遠されてきたという内容が記されている。このことからも、太陽の塔は、経済的な理由だけでなく、壊しにくい要素があったのではないか。その要素について、次の3点を挙げる。

 ①太陽の塔は祭神としてつくられたものである点

 ②太陽の塔はよく分からないものである点

 ③原始的なものに対するコンプレックス


 ①および②は岡本自身が語っている(テーマ委員会および関係記録資料)。③については、お祭り広場を手がけた建築家の磯崎新(1931年-)が当時のことを振り返り、「僕はあのときまで、モダニズムしかないと思っていましたからね。太郎さんの塔は、パンドラの箱じゃないけれど、日本の昔の、本当は見たくないものがふたを開けたら現れた(笑)。僕なんかは最初の印象はそうでしたよ。」2と語っている。

結論

 本研究の目的は、岡本太郎の太陽の塔が、撤去されずに残った理由を明らかにすることであった。上記の調査結果と考察に基づき、太陽の塔は、万国博覧会跡地利用懇談会(小委員会を含む)および、万国博施設処理委員会における、岡本太郎の熱意や発言に、会議の関係者が心を動かされたことにより保存することになったことが明らかにできた。さらに、太陽の塔は祭神としてつくられたものである点、太陽の塔はよく分からないものである点、原始的なものに対する人コンプレックスという3つの要素から、塔の壊しにくさも影響していたことがいえる。

脚注

1 春原史寛「岡本太郎《太陽の塔》の保存をめぐって」眞保亨先生古希記念論文集 芸術学の視座 2002年6月5日 勉誠出版株式会社

2 椹木野衣「黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本」p199、2003、中央公論新社

参考文献・参考サイト

  • 日本万国博覧会 公式ガイド(1970)日本万国博覧会協会
  • EXPO’70 世紀の祭典 日本万国博覧会50周年記念公式ガイド(2021) 大阪府日本万国博覧会記念公園事務所
  • 「岡本太郎・EXPO’70・太陽の塔からのメッセージ」展(2000) 川崎市岡本太郎美術館
  • News クローズアップ:「太陽の塔」が3月公開(2018) 日経アーキテクチュア
  • 前田昭夫「千里への道―日本万国博7年の歩みー」 (1970) 万国博グラフ社
  • 岡本太郎「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」(2011) 光文社
  • 岡本太郎「 日本の伝統 」(2011) 光文社
  • 岡本太郎「岡本太郎の本 5 宇宙を翔ぶ眼」(2010) みすず書房