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大学での学び のバックアップ差分(No.1)


#author("2020-11-02T22:18:25+09:00;2020-09-15T18:08:00+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko")
*University / Academy
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**学位「学士」について

学士とは、学校教育法第68条の2第1項及び学位規則第2条により定められた学位のひとつで、大学を卒業した者、あるいは独立行政法人大学評価・学位授与機構に学位授与申請を行い審査に合格した者に授与されるものです(学位には他に大学院修了で与えられる「修士」、「博士」等があります)。
[[&small(参考:国際標準教育分類);>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%95%99%E8%82%B2%E5%88%86%E9%A1%9E]]

学士には、以下のような知識、技能、態度、創造的思考力が求められます。

-知識
--異文化の理解:外国などの文化を理解する
--社会情勢や自然、文化への理解:人類の文化や社会情勢などを理解
-技能
--コミュニケーション能力 :日本語、特定の外国語で読み、書き、聞き、話すことが出来る
--情報活用力:インターネットなどの多様な情報を適切に使い、活用できる
--論理的思考力:情報や知識を分析、表現できる
-態度
--チームワーク、リーダーシップ:他者と協力して行動したり、目標実現のために方向性を示せる
--倫理観:自分の良心や社会のルールに従って、行動できる
--生涯学習力:卒業後も自ら学習できる
-創造的思考力
--知識、技能、態度を総合的し、問題を解決することができる
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この中で特に私が強調したいのは、「自ら学習できる」、「知識、技能、態度を総合的に活用し、問題を解決することができる」という部分です。

大学での学びには「学修」という言葉が使われていいます(大学設置基準)。「学習」と「学修」は違います。「学習」は「学問を習う」、「学修」は「学問を修める」ことで「授業だけでなく事前の準備、事後などを自ら行うことにより、深く学問を理解し身につけること」を意味します。小・中・高で体験してきた「習う」という感覚から早く卒業して下さい。

大学は、単純に「物事を教わる」ところではありません。「問題には正しい答えが一つだけあるはずだ。その答えを教えて欲しい」と思っている学生さんが多いようですが、いわゆる試験問題のような人が作った問題、模範解答を見れば答えがわかる問題・・・つまり「答えがわかっている問題」というのは大学生が精力を注ぐべき問題ではありません。

この世の中には、未だ「問題」として認識されていない問題も含めて、解決方法がわからない問題が山積してます。自分で問題を発見し、自分なりの方法でそれを解決する。それが大学生に求められる資質です。

大学では「卒業式」とは言わず「学位授与式」と言います。皆さんは芸術学部に所属しますので、卒業時には「学士(芸術)」が与えられます。芸術学部はどこにでもあるものではありません。つまり「学士(芸術)」も貴重な存在となりますので、良い意味でプライドを持ってがんばって下さい。
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**大学略史

-古代 
紀元前387年、プラトンのアカデメイア( 算術、幾何、天文等+哲学 )
-中世 「自由な学」と「有用な学」
--自由七科:文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、音楽
これがいわゆるリベラルアーツといわれるものの起源
学芸学部:Faculty of Liberal Arts &small(中世後半には、学芸学部 は 哲学部へ);
//参考 哲学部:Faculty of Philosophy);
--有用な学:神学、法学、医学
--参考:ヨーロッパ最古の総合大学は、イタリア ボローニャ大学
サラマンカ大学、パリ大学、トゥールーズ大学、モンペリエ大学、オックスブリッジと共に12〜13世紀頃までに設立されたヨーロッパ最古の大学群。近代型大学の原点、母なる大学(Alma Mater Studiorum) ともいわれます。
-産業革命以後 「文学部」と「理学部」への分離
科学技術と資本主義の結びつきから「理工系」の重要性が拡大
-19世紀はじめ アメリカで一般教育(人文、社会、自然)の概念の誕生
戦後、日本もこの考え方を導入。専門科目と対峙させるかたちで位置付け
--人文科学 哲学、心理学、宗教学、文学、言語学など
--社会科学    政治、経済、 社会、人類、歴史、考古、地理など
--自然科学 物理、生物、化学、地球科学、宇宙科学、天文学など
-現在 
専門性(実用性)に重点がおかれ、教養系では、人文社会が一括され、共通教育が大きなウエイトを占めるようになる
--人文社会科学:私たち自身に問いかける学問
例えば、言葉、身体、心、風景
--自然科学:観察の対象として客観的にとらえる学問
例えば、情報、人体、脳、環境
--共通教育:コンピテンス(活用能力)の育成
例えば、英語、コンピュータ

もともと学問には「文系」も「理系」もなかったのですが、大学の入試がそうした偏った試験を課すようになったことで、現在では多くの若者が自分の可能性を「文系」か「理系」かに限定するようになってしまいました。

 自分を「系」で括ってしまうと人生がつまらなくなってしまいます。総合的な視点でものを考えるためにも、「そもそもそういう区分けは必要ない」と考えて下さい。九州産業大学 芸術学部では、一般科目の選択科目に「数学」を加えることで、「文系・理系の別を無化する」というスタンスを明確にしています。

参考:[[Wikipedia:学問の一覧]]
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***参考:Liberal Arts
-リベラル・アーツという表現の原義は「人を自由にする学問」
-こうした考え方の定義としての起源は古代ギリシアにまで遡る。
-日本語の「藝術」という言葉は、リベラル・アートの訳語(西周)
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***参考:学校教育
学校での教育が制度としてスタートするのは産業革命以後。当時の発想は、工場労働者として必要な素養を身につけさせる・・という国策としての側面もあるし、子供を奴隷的な労働から解放し、学ぶ権利を与えるため・・という側面もありました。「教育」には、その背景に様々な思惑があります。
//日本政府は1872年(明治五年)、新しい学制をつくり義務教育を開始。

-世界人権宣言
 すべて人は、教育を受ける権利を有する。
 教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、
 無償でなければならない。
 初等教育は、義務的でなければならない。
 — 世界人権宣言 第26条1

-国際規約
 初等教育は義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
 — 経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第13条第2項(a)

-日本の義務教育
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を
 受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
 —  日本国憲法第26条第2項

-''付記'':義務教育の背景「子供を親(大人)から守る」
日本国憲法第26条をよく読んでみて下さい。これは子供本人に義務があるのではなく、親に対して「子供には教育を受けさせなさい」と言っています。
 続く27条第3項には「児童はこれを酷使してはならない」とあります。つまり子供を奴隷のように働かせてはいけない・・ということです。今のこの国では「え?わざわざ書くことか?」と思う方が多いと思いますが、かつては(現在も)子供を労働力として奴隷的に扱う親(大人)が世界中にいたのです。法律として明文化することで「親から子を守る必要がある」という時代背景があったことは銘記すべきでしょう。以下、参考までに・・
 誤:子供は学校に行く義務がある
 誤:親はいかなる場合も子供を学校に行かせる義務がある
 正:国・自治体・保護者は、子供に教育環境を整える義務がある
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**「常識」を疑うこと

世間の風潮のせいか、多くの学生さんが大学というものを「就職のためのスキルを修得する場」と捉えていますが、大学は学問の場であり、その究極の目的は「人間とは何か」を問うことです。あらゆる分野の学問がその研究対象を通して迫ろうとしているのは、「人間」であると言っても過言ではありません。

人間とは何か?この問いに迫るには、まず私たちが置かれている時(時代)と場所(国・地域)というものについて、それが非常に限定的なものであることを認識すること、そして、自分自身を相対化しつつ全体を俯瞰する視点を手にいれるということが必要です。そのためにはまず、我々の「常識」というものがいかに脆いものであるかに気付かなければなりません。「何かおかしくないですか?」という素直な問いが必要なのです。
 私たちを洗脳している「常識」を疑うことからはじめてください。以下、時代を遡りながら、それぞれの事項について、講義の中で疑問を投げかけます。

-戦後日本
--先進国? 人類のすべてが同様の文明社会へ進もうとしているわけではない
//先進国という言い方には、自分たちのあり方が正しいという自惚れがある
//文化の多様性を考えれば、先進も後進もない
--市場原理・競争原理の先に何があるのか
--ソーシャル・キャピタル(社会資本)に市場原理(競争原理)は通用するのか
--私たちは「消費者」なのか
--私たちは「人材」なのか
--教育とは、教科書とは
---「哲学」はどこへいった?
---「勉強」と"study" 
---「大きくなったら何になりたいか」という問いかけに違和感はないか
---「魚釣り」や「米作り」、教科書にはなぜ載っていないのか
//--大麻はいけないと誰が決めたのか
--「コミュニケーション力」とは何か 
・そもそもコミュニケーションとは何か
・外国語の「翻訳」は可能なのか
--マスメディアは何を伝え、何を伝えていないのか


-産業革命
--「理系と文系」という分け方
--「知的財産」という発想
--「作者=想像主」という発想
//バルト「作者の死/物語の構造分析」
--「成長」を手放しで良しとする発想

-新石器革命(農耕のはじまり)
--「貯め込み」と「成長」
--「米、小麦、とうもろこし(すべてイネ科)」を主食とする発想
--「文字」の発明
--「経典」を持つ宗教

-定住革命
--「定住」というライフスタイル
人間の世界にのみ存在する「境界」。「土地」はヒトのものか 
大地はすべての生物の暮らしの場である
--「住まい」は人のものか? 
日本の住まいは、神の住まいであった(上田篤)
快適さの追求にはきりがない
--「埋葬」はなぜ行われるのか

-人類(Homo sapiens)の誕生
--別称:ホモ・ファーベル、アニマル・シンボリクム、ホモ・ルーデンス
--「言語」(二重文節)
--「贈与」と「交換」
--「神」の発明

多くの人は、考える自由を奪われていることに気づいていません(奴隷の最大の特徴は、自らが奴隷であることに気づいていないこと)。母国語でものを考えているという点で、すべての人類はその思考回路に洗脳されているといえます。したがって、自らを相対化して全体を俯瞰するというのは非常に困難な作業です。でもそのことに気づいているか否かで、思考の深さは大きくかわります。

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**大学で学びはじめるまえに
以下、大学での学びについて、入学したての学生さんによくあるカン違いについてお話します。これらのことを早期に認識するか否かでで、今後の大学生活の充実度が変わります。是非、ご一読下さい。
 ただし、ここに書くことは、あくまでも私個人の見解です。教員によって、異なる考え方もありますので、単純に私の話だけを鵜呑みにしないよう注意して下さい。
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***大学ではいろいろ''教えて''もらえる?
残念ながらその期待は裏切られます。もちろん、講義や演習で基本的な知識・技術の確認はありますが、大学生は「自ら学ぶ」ということが前提です。
 よって、大学の教員がすることは、学生さんの好奇心を刺激すること、学びのきっかけをつくること、学び方(研究の仕方)についてアドバイスすること・・・などが中心になります。
 「授業で習ってからはじめよう」とか「3年の授業で習うから1年のうちはいいか…」などと思っていると、「自ら学ぶ学生」との差が大きく開く結果となります。
 「習っていないのでわかりません」と言えるのは義務教育まで…と考えて、早く大学生としての学びの姿勢を身につけて下さい。
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***大学の先生は学生よりも知識が豊富 ?
これは(少なくとも私に関しては)ちがいます。私の脳から取り出せる情報量と皆さんの脳内の情報量は大差ないと思います。差があるように見えるのは、皆さんがこれから学ぼうとしている分野に関して、多少私の方が知識が整理されていて、経験的にそれをスムーズに取り出して話すことができる・・・というだけのことです。もし皆さんが、皆さん自身の得意分野について話をするとすれば、立場は逆転します。
 私は、いつもゼミの学生さんからいろんなことを教わっています。研究室は、メンバー全員で話し合って新しい何かを生み出す場所です。「教える人」と「習う人」という関係ではなく、「共同研究者」として対話しましょう。
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***先生によって言うことが違う?
大学では(一般社会でも)これは当然です。大学には、義務教育にあるような「学習指導要領」や「標準(検定)教科書」のようなものはありませんし、授業のシラバスも、最終的には、担当教員がそれぞれの考え方で構築します(もちろん学部、学科の教育ポリシーを共有した上でですが・・)。
 ですから、授業の進め方の違いや、問題への対処の仕方についての見解の相違というものは当然表面に出てきます。
 どちらが正しいのか? もちろんそれを判断するのは「あなた」自身です。「言う事がそれぞれ違うからわからない…」と言って「思考停止」してしまったらそれで終わりです。双方の話を聞き、また他の人の意見や、他の資料にも目を通し、最終的には、自らの見解を持つことが必要です。
 大学の試験では、教員の見解をそのまま答案に書く必要はありません。異なる見解であっても、それが論理的で説得力のある記述、またユニークな記述であれば、高い評価となります。わたしたしも学生さんの答案の中に、新たな視点を発見することを楽しみにしながら答案を読んでいます。
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***学費がもったいないから授業はできるだけ多く取った方がいい ?
これは程度の問題です。忙しすぎて「余裕がない」、「考える暇がない」という状況は、大学生にとって望ましいとは言えません。自分の人生について、じっくり考えるだけの時間が必要です。根本的な哲学抜きに数だけこなしてもきりがありません。おそらく充実感も得られないでしょう。
 他の学生よりも単位をたくさん取ろうとか、コストパフォーマンス(費用対効果)を上げようとか、そうした市場原理的な発想は、本来学問・教育の現場には馴染まないものだと思います。現に勉強=競争という受験優先の教育環境の中で日本の大半の若者が研究心や向学心を失い、疲れきってしまっています。これは私も含めて教育に携わる日本の大人たちの反省すべき点だと感じています。
 すばらしい発見、面白いもの、良いデザイン、それらは競争心というより、純粋な好奇心や、問題意識、あるいは人や社会のために何かしたい・・・といった精神から生まれます。この世の中には金勘定抜きに提供されるモノやコトもたくさんあるのです。市場の競争原理をそのまま自分の人生(学問の世界)にまで持ち込まない方がいい・・・と私は感じています。
 大学生にとって価値のあることとは何か?それを一度冷静に考えてみて下さい。単位がたくさん取れないとしたら、あなたは大学を辞めますか? おそらくNOでしょう。何が得られなくなったら、あるいは何ができなくなったら、大学を辞めるか? この問いに自問自答することから、自ずと「学生時代に何をすべきか」が見えてくると思います。
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***勉強は面白くないけど努力して取り組むべきものだ・・
とんでもありません。非常に面白いものですし、苦痛などありません。それに専念できる「大学生」という身分であることをシアワセだと思います。
 勉強は面白くない、苦痛だ・・・というのは、受験勉強の話です。大学での学びは好奇心を契機にはじめるもので、まったく質が異なります。
 おそらく「勉強」という字面がよくないのでしょう。日本語で「強いる」とか「勉める」といった言葉の組あわせになっていることがいけません。英語で ''Study'' といえば「研究」という意味が濃厚になります。つまり「自分で発見した問題や関心ごとについて自ら関心をもって取り組む」ということです。
 study も student も元はラテン語の ''studium'' に由来します。それは「情熱、熱意」という意味で、I am a student. というのは「私は情熱をもって真理を求めています。」ということ。単に肩書きの問題として「私は生徒です」というのとは意味が違います。日本では、高校までを生徒、大学になると学生。別の肩書きで区別しますが、student の文化圏では、中学生も大学生も同じ I am a student. です。つまり彼らは、ずっと情熱をもって真理を探究しているのです。ということで、日本の「勉強」につきまとっている義務的なイメージは払拭してしまいましょう。
 大学は強制されて「勉強」するところではありませんし、偏差値のような一元的な''ものさし''の上で競争を強いられることもありません。もっと自由に ''Study'' ができる場であると考えて下さい。「競争に勝つため」というような動機ではなく、純粋に「面白い」と感じること、純粋に「この問題を解決したい」と思う気持ちを学びのきっかけにして下さい。
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***最後に
大学の歴史は古く、本来は、国家や民族をこえて普遍的な知の成熟に貢献する存在であったはずです。ところが今では「国益」のために「企業」が求める「人材」を養成する場である・・という理解が幅を効かせている状況です。
//大学入学者の関心ごとの中心が「就職内定率」という「どのようにでも操作できる数字」である・・悲しい現実です。
 大学本来の意義を、学生さん自身がしっかり把握しておかないと、大切な4年間を政治に翻弄されて終える…という悲しい結果になりかねません。大学とは何か?。学問とは何か?。もちろん「就職のため」という現実的な目的もあるかもしれませんが、あなたの人生を根っこから豊かにするための「知」の発見の場として捉え直すと、日々の講義や演習も、一味違ったものに見えてくるはずです。

21世紀、世界はネットでつながり、すでに地球上のすべての人類が情報を共有できる状況にあります。国家は「国益」のために争っていますが、私たちは音楽や映像を通して国境を越え、自由につながっています。よくいわれるように「芸術」は国境を越えて、すべての人たちに「知的な豊かさ」をもたらすのです。リベラルアーツの言葉どおり「Arts」は本来「学問」の概念なのです。大学で学ぶことは「Arts」を学ぶこと。「学問の頂点は芸術である」((九州産業大学創設者、中村治四郎の言葉です。))という言葉は、それを語っているのだと思っています。
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