LogoMark.png

Art-Design-Technology

Design の位相


アート / デザイン / テクノロジー

あくまで個人的な概念整理|常に迷い中

Art|0 → 1

言葉、音楽、絵画、建築・・。芸術は、人類が文明や国家を築く以前から我々と共にあって、社会の成熟に寄与してきました。

付記:アートは「作家の創造的な自己表現」であるというのが一般の解釈ですが、美術館のキュレーターが価値を認める作品というものは、単に表現力や想像的新規性というより、歴史的な文脈において、その作品を「現代」を象徴するものとして遺す必要があるのか・・という点、つまり文化的・社会的な価値に重点が置かれているような気がします。上手い、感動、面白い、美しい・・とは異なる「今なぜその作品を展示する意味があるのか」を見つめる視線は、商業的な成功とは別の世界を見ていると言えます。オークションでいくらの値がついたか・・とは次元の異なる話。少なくとも作品は「商品」とは異なる次元にあると思います。


Design|1 → 10

未来を想像して計画・設計する。ホモ・サピエンスの基本戦略

Technology|10 → 100

暮らしを豊かにする反面、破滅のリスクを増大させる。人類の原罪?

Fig.jpg
内部と外部.jpg




デザインの上流と下流

デザインにおける「創発」と「最適化」

創発デザイン

最適化デザイン

ちなみに「ソーシャルデザイン学科」は、「創発デザイン」によって誕生した学科です。大学進学希望者のニーズから生まれたのではなく、学部再編プロジェクトにおけるメンバーの対話の中で「面白いんじゃないの・・」を契機として開設されたものです。当時、日本のどこにも「ソーシャルデザイン学科 」は存在せず、進路選択に関して「ソーシャルデザイン」を検索する高校生も存在しませんでした。つまり、ニーズを調査して最適化したものではなく、創発によって誕生した学科です。



設計的思考と発生的思考

人間の思考が「設計的」になるのに対し、生命の構築原理は、発生>適応という「発生的」なものです。

生命は最初に過剰を用意し、環境がそれを彫琢する

福岡伸一, 新版 動的平衡3, 2023

脳のしくみ

脳は胎生期に過剰なネットワークをつくって待ち構え、その後、環境からの刺激によって必要なものは強化され、不要な回路は刈り落とされる*1。脳内ネットワークは、環境に適応すべく「強化と刈り落とし」によって形成されていきます。

免疫系の仕組み

免疫系 B細胞(抗体産生細胞)は、細胞ごとに千差万別の抗体をランダムに準備するという無駄なことをしています。可能な限り大きな網を張った状態で、ウイルスの侵入時にはその抗体を産生する B細胞が短時間に自己増殖して大量の抗体を作り出すのです。侵入した抗原ウイルスと戦った B細胞は、その経験を通して最終的に数百から数千の「小隊」を温存します(免疫学的記憶の形成)。

抗体をランダムに準備する仕組みは、発生当初、自らを攻撃する抗体もつくてしまいますが、自己を攻撃することに気づいた B細胞は、自らにアポトーシスの仕組みを適用して自死します*2。無駄に多く作っておいて、刈り落とす・・脳内ネットワークの仕組みと同じです。

デザインしない

こう考えると、持続可能な多様性のためには、あえて「デザインしない」という発想も必要なのかもしれません。特定の問題を解決すべく最適化されたデザインは、想定外の問題に適応できない。生産完成品ではなく、動的に変化できる編集可能な仕組み、多くの無駄を含んだ仕組み、デザインしないことも視野に入れたデザイン・・という意味で「デザイン」の定義を拡張する必要があるのではないかと思います。




APPENDIX

非言語脳と言語脳

様々な直方体の構造物があったとして、これを「机」と「椅子」に分類するには、「異なるものを同じものとみなす」という「カテゴリ化」が必要となるのですが、「ひとつひとつ全部違うだろ」と思う人と、「2つに分けた方が簡単だろ」と思う人、対象を捉える脳の反応は人によって異なるように思います。

で、言語を使うことをその特徴とする人間社会では、後者(言語脳タイプ)がマジョリティを構成しているので、学校教育の現場では「誰でも X(代数)を理解できるはずだ」という前提で授業が行われているようですが、生の現象・事物に関心があって、その違いを鋭敏に見分けるタイプの人(非言語脳タイプ)にとって、それはかなり苦痛なのではないかと思います。

そもそも、言語それ自体が「異なるものを一括命名して、その存在を喚起する*3」ものなので、言語に依存したコミュニケーションを行う以上、後者の方が社会への適応力は高くなるのかもしれませんが、「同じものは二つとなく、すべて異なるものである」という感覚を持った人がいなければ、言語というフィルタ越しの「擬似現実」としての世界は膠着状態(洗脳状態)を更新・活性化することができません。

昨今、芸術は「不要・不急のもの」として排除されがちですが、非言語的な脳活動が得意なアーティストという存在は、社会の膠着した状況に「ゆさぶり」をかける「外部性」を担うものとして、社会に欠かせない存在です。言語化、分類・整理、関係構造の理解が苦手であったとしても、ひたすら描き続けること、ひたすら歌い続けることが、社会を更新・活性化することに寄与している・・その存在価値をポジティブに捉えることが大切だと思います。

・・という私のこの話、脳を「非言語系」と「言語系」に分けているわけで、
こういう話をして、勝手に「わかった( = 分けることができた)」ような気になっている私自身は、やはりアーティストにはなれない人なかもしれません。





PAGES

GUIDE

DATA


*1 硬直した教育と受験に翻弄された若年層は、その環境に適応すべく、自由に発想する回路を刈り落としているように見えます。自由に体験させ、失敗を体験させ、レジリエントな脳に再構築する必要があると感じます。
*2 このとき排除ミスが生じると、自身の細胞を攻撃する「自己免疫疾患」が生じます。リウマチやアトピーがそれに該当します。
*3 池田清彦「バカの厄災」にも書かれていますが、こんなことをするのは人間だけで、これこそが「わかった気になっている(自分だけが正しいと思い込む)バカ」の源と言えるでしょう。
Last-modified: 2021-06-11 (金) 13:30:57