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Art-Design-Technology の変更点


#author("2024-11-11T18:49:51+09:00;2021-06-11T13:30:57+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko")
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* Design の位相

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**アート / デザイン / テクノロジー
あくまで個人的な概念整理|常に迷い中
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***Art|0  → 1 
言葉、音楽、絵画、建築・・。芸術は、人類が文明や国家を築く以前から我々と共にあって、社会の成熟に寄与してきました。

-世界(意識の内外、社会の内外)において「動機」が生まれる
作家自身にも動機が自覚できない場合がある(手が勝手に動く)
// 勝手に芽生える「恋」/ 対面で落ちる「恋」
-日常を挑発する自由な表現(法や常識による拘束を受けない''外部性'')
歌、音曲、絵、舞・・芸術には「神への捧げ物」としての起源がある
//資本主義社会の中で生まれた映画は「商品」として誕生した経緯があって、その点では、神に捧げるものとしての印象が薄い
-文化的成熟の契機となる
-アウトプットは世界にひとつだけの「作品」
特別にゾーニングされた時空間(美術館)に展示される

&small(付記:アートは「作家の創造的な自己表現」であるというのが一般の解釈ですが、美術館のキュレーターが価値を認める作品というものは、単に表現力や想像的新規性というより、歴史的な文脈において、その作品を「現代」を象徴するものとして遺す必要があるのか・・という点、つまり文化的・社会的な価値に重点が置かれているような気がします。上手い、感動、面白い、美しい・・とは異なる「今なぜその作品を展示する意味があるのか」を見つめる視線は、商業的な成功とは別の世界を見ていると言えます。オークションでいくらの値がついたか・・とは次元の異なる話。少なくとも作品は「商品」とは異なる次元にあると思います。);

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***Design|1  → 10 
未来を想像して計画・設計する。__[[ホモ・サピエンス>HomoSapiens]]__の基本戦略

-世界に潜む可能性や問題をボトムアップ的に発見する(上流・創発)
-社会のニーズに基づきトップダウン的に課題を設定する(下流・最適化)
// 関わりの中で育まれる「愛」/ 遠隔でも育める「愛」
-新たなアイデアによって暮らしを快適にする(''外部 ⇆ 内部'')
-文化の成熟と文明の成長に寄与する
-アウトプットは「設計図」
一部の受益者あるいは、広く社会に公開される
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***Technology|10  → 100
暮らしを豊かにする反面、破滅のリスクを増大させる。人類の原罪?

-社会・組織のニーズにもとづき「課題」が与えられる
-社会への導入は法の下に行われる(''内部性'')
-文明の成長に寄与する
-文明の成長に寄与する(利便性を上回るリスクを伴う)
-アウトプットは設計図にもとづく「製品」
私的に所有される財として、あるいは社会的共通資本として実装される
// この作業はやがて AI・ロボットに代替される(24時間365日稼働)
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|49|2|49|C
|#image(CivilizationAndCulture/Fig.jpg)| |#image(images/内部と外部.jpg)|
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**デザインの上流と下流
デザインにおける「創発」と「最適化」
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***創発デザイン
-自由な体験・思考を契機としたデザイン行為
-ミッション・目標は定めない(あいまい)。「面白い!」かどうかが重要
-外部からのボトムアップ的(自律分散的)なプロセスを採用
-誰も見たことがないものを生み出す(ニーズは存在してない)
-先行事例や既存のデータに依拠しない(先人の話は聞かない)
-デザインの上流工程
-事例:Walkman, iPhone,・・・
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***最適化デザイン
-プロジェクト型のデザイン行為
-ミッション・目標が明確。ビジネスとして成立することが必要
-内部におけるトップダウン的(中央集権的)プロセスを採用
-社会のニーズにもとづいて最適化する
-先行事例や既存のデータを参考にする(先人の話を聞く)
-デザインの下流工程


ちなみに「ソーシャルデザイン学科」は、「創発デザイン」によって誕生した学科です。大学進学希望者のニーズから生まれたのではなく、学部再編プロジェクトにおけるメンバーの対話の中で「面白いんじゃないの・・」を契機として開設されたものです。当時、日本のどこにも「ソーシャルデザイン学科 」は存在せず、進路選択に関して「ソーシャルデザイン」を検索する高校生も存在しませんでした。つまり、ニーズを調査して最適化したものではなく、創発によって誕生した学科です。
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**設計的思考と発生的思考
人間の思考が「設計的」になるのに対し、生命の構築原理は、発生>適応という「発生的」なものです。

 生命は最初に過剰を用意し、環境がそれを彫琢する
&small(福岡伸一, 新版 動的平衡3, 2023);
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***脳のしくみ
脳は胎生期に過剰なネットワークをつくって待ち構え、その後、環境からの刺激によって必要なものは強化され、不要な回路は刈り落とされる((硬直した教育と受験に翻弄された若年層は、その環境に適応すべく、自由に発想する回路を刈り落としているように見えます。自由に体験させ、失敗を体験させ、レジリエントな脳に再構築する必要があると感じます。))。脳内ネットワークは、環境に適応すべく「強化と刈り落とし」によって形成されていきます。
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***免疫系の仕組み
免疫系 B細胞(抗体産生細胞)は、細胞ごとに千差万別の抗体をランダムに準備するという無駄なことをしています。可能な限り大きな網を張った状態で、ウイルスの侵入時にはその抗体を産生する B細胞が短時間に自己増殖して大量の抗体を作り出すのです。侵入した抗原ウイルスと戦った B細胞は、その経験を通して最終的に数百から数千の「小隊」を温存します(免疫学的記憶の形成)。

抗体をランダムに準備する仕組みは、発生当初、自らを攻撃する抗体もつくてしまいますが、自己を攻撃することに気づいた B細胞は、自らにアポトーシスの仕組みを適用して自死します((このとき排除ミスが生じると、自身の細胞を攻撃する「自己免疫疾患」が生じます。リウマチやアトピーがそれに該当します。))。無駄に多く作っておいて、刈り落とす・・脳内ネットワークの仕組みと同じです。
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***デザインしない
こう考えると、持続可能な多様性のためには、あえて「デザインしない」という発想も必要なのかもしれません。特定の問題を解決すべく最適化されたデザインは、想定外の問題に適応できない。生産完成品ではなく、動的に変化できる編集可能な仕組み、多くの無駄を含んだ仕組み、デザインしないことも視野に入れたデザイン・・という意味で「デザイン」の定義を拡張する必要があるのではないかと思います。

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**APPENDIX
***非言語脳と言語脳
様々な直方体の構造物があったとして、これを「机」と「椅子」に分類するには、「異なるものを同じものとみなす」という「カテゴリ化」が必要となるのですが、「ひとつひとつ全部違うだろ」と思う人と、「2つに分けた方が簡単だろ」と思う人、対象を捉える脳の反応は人によって異なるように思います。

-''非言語脳・・個々の対象を異なるものとして見極める''
--色や形の微妙な違いを見極めるセンサーが鋭敏
--デッサン(ひたすら見て、ひたすら描く)を楽しいと感じる
--同じことを繰り返す作業に苦痛を感じない
--1, 10, 25.3 など、異なるものを「X(代数)とおく」ことに違和感を感じる
--関係構造よりも個々の存在(の違い)に好奇心がそそられる
--HTMLのコードとWeb画面の対応関係を理解するのが苦手
--物事をカテゴリに分けることが苦手(あるいは関心がない)
--言語化(=カテゴリ化して命名する)しない。ありのままを汲み取る
--思考停止することがなく、問題を鋭敏に感じ取る
--トップダウン < ボトムアップ

-''言語脳・・異なるものを同じものとみなす''
--色や形の微妙な違いを見極めるのが苦手(あるいは関心がない)
--デッサンを面倒くさいと感じる(手間を省略すべく理屈で描く)
--同じことの繰り返しを不快と感じ、自動化(プログラム化)したがる
--1, 10, 25.3 など、異なるものを「X とおく」ことを便利だと感じる
--要素間の「関係性」に興味がある。関係構造が同じものを同一とみなす
&small(例えば「東西・南北 と X・Y は同じ」、「入力・処理・出力 と 目・脳・手」は同じ);
--HTMLのコードとWeb画面の対応関係は、見ればわかる
--物事をカテゴリに分けたがる(分類・整理を快感と感じる)
--言語化する(=カテゴリ化して命名する)。抽象的にパターン化する
--パターンに安心することで、思考停止しやすい
--トップダウン > ボトムアップ

で、言語を使うことをその特徴とする人間社会では、後者(言語脳タイプ)がマジョリティを構成しているので、学校教育の現場では「誰でも X(代数)を理解できるはずだ」という前提で授業が行われているようですが、生の現象・事物に関心があって、その違いを鋭敏に見分けるタイプの人(非言語脳タイプ)にとって、それはかなり苦痛なのではないかと思います。

そもそも、言語それ自体が「異なるものを一括命名して、その存在を喚起する((池田清彦「バカの厄災」にも書かれていますが、こんなことをするのは人間だけで、これこそが「わかった気になっている(自分だけが正しいと思い込む)バカ」の源と言えるでしょう。))」ものなので、言語に依存したコミュニケーションを行う以上、後者の方が社会への適応力は高くなるのかもしれませんが、「同じものは二つとなく、すべて異なるものである」という感覚を持った人がいなければ、言語というフィルタ越しの「擬似現実」としての世界は膠着状態(洗脳状態)を更新・活性化することができません。

昨今、芸術は「不要・不急のもの」として排除されがちですが、非言語的な脳活動が得意なアーティストという存在は、社会の膠着した状況に「ゆさぶり」をかける「外部性」を担うものとして、社会に欠かせない存在です。言語化、分類・整理、関係構造の理解が苦手であったとしても、ひたすら描き続けること、ひたすら歌い続けることが、社会を更新・活性化することに寄与している・・その存在価値をポジティブに捉えることが大切だと思います。

・・という私のこの話、脳を「非言語系」と「言語系」に分けているわけで、
こういう話をして、勝手に「わかった( = 分けることができた)」ような気になっている私自身は、やはりアーティストにはなれない人なかもしれません。
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