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Bricolage

Bricolage


ブリコラージュ(Bricolage)は、日本語で「器用仕事」と訳されるもので、ものを寄せ集めて作る、修繕する・・といった意味の言葉です。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは「身の回りのものを寄せ集めて、本来の用途とは異なる新たな道具を作り出す行為」が世界各地に見られることを、この言葉を用いて紹介しています。太古の昔から人類に普遍的に見られるこの創造的な思考を「野生の思考(1962)」と呼ぶとともに、近代以降の思考を「栽培された思考」と呼んで対比させています。

概要

ブリコラージュは、創造性や問題解決能力を養い、生活を豊かにする楽しみの一つです。

あり合わせの材料・道具を使う

設計図や計画よりも、その場にある材料や道具を創意工夫しながら活用します。既製品を改造したり、廃材を新たな用途で利用するなど、柔軟な発想が求められます。

試行錯誤しながら作る

明確な設計図や完成イメージをもたずに、試行錯誤しながら作品を形作っていく過程を楽しむことも重要です。失敗を恐れず、様々なアイデアを試し、最適な方法を探っていく創造性が求められます。

目的や締め切りを設定する必要はない

ブリコラージュは、はじめに「目的ありき、設計図ありき」ではない活動です。よって「締め切り」のような条件が課されるものでもありません。それは「獲物が現れるまで待ち続ける」狩猟・採集的な活動と同じです。

独自性・個性的な作品

既製品では実現できない、独創的で個性的な作品を生み出すことができます。制約の中で工夫することで、新たな価値を生み出す創造性や問題解決能力が養われます。

多様な分野で活用

美術、工芸、ファッション、建築など、様々な分野でブリコラージュの精神が取り入れられています。近年では、環境問題への意識の高まりから、廃材をアップサイクルするサステナブルなブリコラージュも注目されています。



ブリコラージュの例

一般的事例

様々な領域に見られるブリコラージュ

はじめに予見・設計図ありきのトップダウン型の創造行為とは異なる、要素間の再構成・修繕からはじめるボトムアップ型の創造行為。

関連する概念

野生の思考

文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが提唱した概念。論理や計画よりも、直感や経験に基づいて思考する様式を指します。ブリコラージュは、野生の思考の典型的な例として挙げられます。

DIY(Do It Yourself)

自分で設計・製作を行う活動全般を指します。ブリコラージュは、DIY の重要な要素の一つです。

参考

APPENDIX

目的志向のデザインが抱える問題

デザイン行為の多くは、問題を解決すべく「目的」を設定して行われますが、この「目的」や「目標」の設定という一見何の問題もなさそうな概念にも、大きな落とし穴があります。それは最適化・効率化にともなう多様性の排除や、テクノロジーの利用に伴うリスクといった、新たな問題を生み出してしまうことです。

ちなみに日本は、縄文の長きにわたって文字を持たず、また農耕文化の浸透以後も独自の文字を(栽培的思考で)デザインすることはありませんでした。仮名文字は音を借用した漢字を書きくずしたものが、なんとなく共有されたもので、その成立年もはっきりしていません。日本語そのものも、さまざまな方言のクレオール(寄せ集めの進化系)のようなところがあって、言葉・思考回路自体に、野生の思考が強く効いているのではないか・・と個人的には感じています。


AI以後の人間の仕事

ブリコラージュは、人間特有の身体性を伴う持続可能な創造行為の原点です。

多くのテクノロジーは「・・だったらいいな」という、予見・ニーズから生まれました。しかし世の中には、基礎研究と同様に「何の役に立つかはわからないけれど、純粋に面白い」という好奇心から生まれたものもあります。

例えば、楽器というものは、その存在以前に、何ができるのかを予見して作られたものではありません。それは、身体性をともなう「あーでもない、こーでもない」という模索から進化的に生まれたもので、生成系AIのようなパターン認識機能の延長から生まれたものではありません。

予見的ニーズに対する「解」を見出す作業(一部の専門家にのみ託されていた仕事)は、やがてAIが担うでしょう。結果、近代以降の生産者と消費者の乖離は解消され、人類は再び、楽しみながら・遊びながら、新たなものをブリコラージュする喜びを取り戻すことができるのではないでしょうか。

教育現場を蝕む栽培思考

近代の教育(特に産業革命以後)は、国家・社会の発展に寄与すべきものとして「計画的に」行われています。学びは本来「それを身につけたら何ができるようになるのか」を本人が事前に理解することはできないはずです。しかし現状は「身につけるべき能力」を事前に設定して、その成績向上(収穫率向上)を目指すように計画されています。大半の教育がその自覚なしに行われていますが、その背後にあるのは「人を栽培する」という発想です。

人類が農耕に着手して以後、特に現代社会は、栽培されることに慣れた人間が好成績を得るような仕組みになっているので、そのことに疑問を感じない人たちがマジョリティを構成していますが(そういうタイプの人の意見が賛成多数になるのですが)、心の環境を破壊する栽培行為には限界があることに気づく必要があります。学校は「人を栽培する場」から「人が集まる知的な遊び場」へと変わるべきではないか。出席率や成績などという数字は、教育には不要なのではないか。不登校30万人という現実が、それを物語っているように思います。

教師も親も「大人の考えが正しくて、教えればその通りに育つ」という思い込んでいるようですが、「学び」の意欲というものは、その生き様を「真似」したくなるような先人との出会いから生まれるもの(感染動機)です。学びの歓びを知らない大人(「師」を持たない大人)が何を教えても響きません。

人生を蝕む栽培思考

生命保険会社などの宣伝に使われる、人生設計、ライフプランニングといった言葉、また、就職情報会社が使う、キャリアデザインといった言葉・・。設計・計画・デザインといった言葉は耳障りがいいので、そうしたビジネス用語が鵜呑みにされがちなのですが、人は、どんな人と出会うかによって、その人生が大きく左右されるもので、そんな計画どおりにいくものではありません。

「大きくなったら何になりたい?」という凡庸な質問をする大人が多いせいで、「目標を定められない人はダメな人」と思ってしまう人が多いようです。もちろん何らかの「欲望」が人を動かすことは確かなので、目標を持つこと自体は悪いことではありませんが、「何かにならなければいけないのか、目標のない生き方ではダメなのか」という素朴な疑問から出発してもいいのです。プランを立てなければならない、プラン通りに生きなければならない・・そういう強迫観念が人生を息苦しくしていませんか?

ひとつ言えることは「自分の目標達成のために人々を強引に巻き込んでプロジェクトを推し進める」というタイプが、最も迷惑な輩(環境破壊の元凶)であるということです。




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Last-modified: 2024-02-29 (木) 13:08:59