JOMON
縄文文化に関するメモ
縄文文化(文明ではない)は、現在の日本列島を中心に1万6千年前(諸説あり)から1万年以上続いた暮らしの中で育まれた文化です。世界史の上では、新石器時代に相当する時代ですが、成熟した社会を長期間にわたって維持した点で、注目に値します。
日本列島はその後、大陸から渡来した農耕文化を持った民族と混交して、弥生時代を迎えることとなりますが、縄文の文化は、私たち日本人の精神の古層に残るかたちで、今日に至っています。
特徴
農耕なき定住
一般に、霊長類も含めて大型哺乳類は遊動生活をするのが基本です。しかし人類はそれを放棄して「定住」という戦略を採用しました。世界史的には、農耕の起源は約1万年前(西アジアの肥沃な三日月地帯)で、定住の起源も農耕の起源と関連づけられるケースが多いのですが、縄文の定住はそれよりも数千年早く、農耕以外に、定住を促す原因があったと考えられます。
氷河期から後氷期へ、温暖化が進む中緯度の温帯では「大型の道具を使う漁労」、「冬に備えて秋の収穫物を蓄える」など、定住を促す諸事情が発生したと考えられ、縄文だけが例外的・・というわけではありません。
環状集落
縄文の集落は、先祖の眠る墓地を中心に同心円状に形成されていました。中心には石柱・柱など、神の存在を想像させるものが・・。神様の数を数える単位として「柱」を用いることと無関係ではないでしょう。
ちなみに、弥生は集落の外に墓をつくりました。死者を外部として集落の外へ排除する考え方は、縄文とは明らかに異なるタイプのものと思われます。
竪穴住居
縄文人の住居は、地面を円形や方形に数十センチメートル掘り下げ、そこに柱を立てて屋根を架けた半地下の住居で、その中心に炉(火の場)が設けられていることが特徴です。現代人には想像がつきにくい事実ですが、当時の人々にとって、世界を照らすのは太陽と炎のみ。集落の中心に神を措定するのと同様に、住居の中心に火を置く・・・。古くから日本の家にある「大黒柱」も神の依代、あるいは神そのもので、縄文人(その後の日本人)の精神文化は「神を中心に包み込む」という特徴があると言えそうです。
世界最古の土器
時代名の由来ともなった「縄目文様」を持つ土器が登場します。これは世界的に見ても最も古い土器です。
土器は煮炊き・貯蔵という実用的な役割もありましたが、縄文土器には、火焔土器のような装飾性の高いものや、土偶(広い意味での土器の一種)のような祭祀目的と思われるものも多くつくられていました。
狩猟・採集・漁労
- 主に弓矢を用いた狩猟が行われていました。その対象はシカやイノシシです。
- ドングリ、クリ、クルミなどの木の実や山菜が重要な食料源で、特にクリに関しては植林(半栽培)をしていた可能性もあります。
- 海や川で、食用に魚や貝を獲っていたようです。一般に「貝塚」と呼ばれる場所は、その廃棄物が積み重なって「塚」となった遺跡です。
- イヌは重要なパートナー動物で、狩猟を共にしたと考えられています。縄文の遺跡からは人間と同様に大切に埋葬された遺骨が発見されています。
現代日本人との遺伝的関係
現代日本人のDNAには、農耕によって人口を飛躍的に増加させた弥生時代以降の渡来人の遺伝子が色濃く反映されていますが、縄文人のDNAに関して言うと、本土では 10〜20%、琉球列島で30%、北海道(アイヌ)で70%、縄文人のゲノムを受け継いでいると言われます。
- 二重構造モデル
3万年ほど前から日本列島に住んでいた縄文人を基層集団として、そこへ渡来系弥生人が混交したのが現代日本人でとする説(人骨の形態研究)
- 3つの祖先系統説(二重構造モデルの修正)
日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高い(理化学研究所)
- 三重構造モデル
現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ(金沢大学)
MEMO
人類史のなかの定住革命 西田正規
- 移動生活では
- 環境の汚染に悩まされることがない(逃げればいい)
- 疫病が流行れば、逃げればいい
- 墓地ができない・必要ない(その都度、しるしを付ける程度)
- 定住生活では
- 狭い空間に大型動物がひしめき合うためのルールが必要
- 排泄物の管理が最重要課題。 ゴミから逃げることができない。
- 息苦しさを爆発させるための、文化的しくみが必要(価値の逆転する祝祭)
- 不運を何者かのせいであるとして封じ込める必要がある(呪いと宗教)
※日本の政治を左右してきたのは、闇(怨霊)の力
- 手型動物と口型動物
- 口型魚類から手型哺乳類へ、口から手(前足)への優先度の移動は、
ほぼ、水中から陸上へ、そして樹上への生活環境の変化に対応する。
- 手型動物は四肢に比べて首が短い
- 手型動物は、手がよく見えるように口吻が短い
- 例:犬(口型)は、猫(手型)より口吻が長く、また泳ぎがうまい。
先住民族に学ぶ(月尾嘉男)
- 獲物が現れるのをじっと待ち続ける習慣がある我々にとって、重要なのは物事が達成されることであって、いつ達成されるかは問題ではない(イヌイットの環境大臣)。現代のプロジェクトは「締め切り」を重視しすぎる。本来、暮らしを豊かにするためのプロジェクトに「締め切り」など必要ない。「時間」が金に置き換えられてしまっているのが、そもそもの間違い。
- 多様性の維持(ペルー原住民の作物栽培)。
縄文と炭水化物
- そもそもホモサピエンスは炭水化物を主食とはしていなかった。
人間だけが太る、食欲が止まらない。つまりそれは、何かに依存症になっていることを意味する。炭水化物は「嗜好品」あるいは「コカイン」と同質なのだ。霊長類の食生活をお手本にして、依存物質を減らせば、人は肥満にはならない。
- 農耕と経済。炭水化物は人類破綻のスタートとともに登場した。
- 移動・狩猟採集の時代から、やがて定住・農耕社会へ・・と簡単に言うが、そもそも、その変化が生じるには、よほど大きなきっかけがあったにちがいない。
- 霊長類は巣を作って定住する動物ではない、犬猫のような巣をつくって子を育てる生き物は、排泄を一定の場所に定めるが、サルは寝床を定めずに垂れ流す。猫の排泄訓練は簡単だが、人間の子供はなかなかできない。我々人間も本来排泄を制御することが得意ではない。また定住に対して、本質的な息苦しさを感じているのかもしれない。
雑記
- 持続する文化(文明?)は「大きなもの」はつくらない。自然と共生し、集団間での贈与交換を行う(商品交換(等価交換)は好まない)。
- 狩猟採集民族は「目に見えないものに対する畏敬の念」を持ち、常に自然に対する感謝を忘れない。一方、現代の文明社会において、自然への感謝の気持ちを持ち続けている人がどれほどいるだろうか。水も空気もタダで手に入る。しかしそれは地球の生態系がバランスを保っていれば・・である。人間の都合で行う「除菌」の拡大は止めるべきだろう。
- 縄文時代、イヌは重要なパートナーであったと考えられる(縄文の遺跡にはヒトとイヌがともに埋葬された例あり)。ちなみに弥生時代には渡来人によってイヌを食べる文化がもたらされたが、日本では結果的にそれは定着しなかった。
- 母系社会 妻問婚は奈良・飛鳥以前は一般的。平安時代まで継承された。
- 神さま
- 氏神・ 鎮守の神・・ムラの神様 (田の神がいるのは鹿児島だけ・・?)
- 野神・・ノラの神様 滋賀県などで典型 樹木がそれにあてられている
- 山の神
- 世界に共通する原始信仰(自然信仰)
日本には「神社」のかたちをとってこれが残っているが、世界の宗教はいずれもこれを否定し、かわりに「言葉」でつづった「経典」をもった。
- 地母信仰 旧石器時代以降 ヴィーナス(土偶)
- 太陽信仰 新石器(1万5000年前〜)石柱、御柱(依代?)
山内丸山縄文遺跡には6本のクリの巨木
- 精霊崇拝
- 祖霊信仰
- 旧石器人も火を使った。しかしそれは「道具」としてである。縄文人は火を「神」として扱った。そこに大きな違いがある。火を道具として使った文明は滅んだ。一方「火とは何か」を考えたギリシア文明は永らえた。つまり、そこに哲学があったのだ。
- 建物が「ない」のが日本の神社の原型。本殿のない神社(三輪)は多い
- 日本の神道は「経典」という「文書情報」を持たない。
- 日本最古の道「山辺の道」は奈良盆地の東、三輪山の裾野を通っており、その三輪山には日本最古の神社「大神神社」がある。ちなみに弥生時代まで遡ると、奈良盆地は巨大な湖(大和湖)であった。
- 土地は自然からの借り物。田畑をつくって切り開く発想は、縄文の人々の考え方にしっくりとはこなかったのかもしれない。縄文の暮らしは、まず狩猟採集空間である「原」があって、やがて定住とともに居住圏である「村」ができた。「ノラ」の発生は弥生になってから。
- ヤマトとヒノモト
- ヤマト → 山と共に暮らす→地母神信仰→狩猟採集社会→ 縄文時代
- ヒノモト → 日照により稲が育つ→太陽信仰→農耕社会→ 弥生時代
- 実りの秋、日本は台風の通り道で、稲作はリスクが大きい。ひとつの作物に依存するより、多種多様な資源に依存することでリスクを分散する発想。
- ムラ、ノラ、ハラ。ある空間を指す言葉が「ラ」なのか?「空(ソラ)」も。ゆるやかな管理境界の設定。これが借景という発想にも関係している。
- 日本のムラには 広場がない。 広場という言葉自体は古いが、日常化したのは 戦後になって。寺の境内、 神社の境内、それに加えて「村堺」が重要であった。
- ノラが村に含まれるようになったのは近世の検地・課税管理以降。
ノラには用水が必要で、それはみんなのもの。
ノラ犬、ノラ猫は、誰のものでもない・・という意味。
- 贈与交換:人が求めたのは物資ではなく、他者に認められること。
結果、物資は拡散し、争いは最小限のものとなっていた。
- アイヌには縄文の特徴が残る。またアメリカ先住民族についても「1万3000年前、ロシアからベーリングジア(ベーリング陸橋)を渡っていった」という従来説に対し、「1万4000年前、縄文系の人々が海岸(ケルプハイウエー)づたいに北米に入った」という可能性も提起されている。
- アイヌは、人間の能力を超えたものをカムイ(神)といった。山や川、雨、風、さらに、お椀(水を安定的にためることができる)やしゃもじ(熱いごはんをすくうことができる)も、人間を超えた能力を持ったカムイであると考えた。
アイヌのカムイの発音は、カムィ・・きわめて「カミ」に近いような・・
アイヌの文化は基本的に口承、文字はもたない。
参考
- 過去7万年の植生分析を可能にしたのは、水月湖の湖底土(年縞)である