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縄文社会 のバックアップ(No.5)


JOMON

縄文社会に関するメモ

縄文文化(文明ではない)は、現在の日本列島を中心に1万6千年前(諸説あり)から1万年以上続いた暮らしの中で育まれた文化です。世界史の上では、新石器時代に相当する時代ですが、成熟した社会を長期間にわたって維持した点で、注目に値します。

日本列島はその後、大陸から渡来した農耕文化を持った民族と混交して、弥生時代を迎えることとなりますが、縄文の文化は、私たち日本人の精神の古層に残るかたちで、今日に至っています。



縄文社会の特徴

農耕なき定住

一般に、霊長類も含めて大型哺乳類は遊動生活をするのが基本です。しかし人類はそれを放棄して「定住」という戦略を採用しました。世界史的には、農耕の起源が約1万年前(西アジアの肥沃な三日月地帯)で、定住の起源も農耕の起源と関連づけられるケースが多いのですが、縄文の定住はそれよりも数千年早く、農耕以外に、定住を促す原因があったと考えられます。

氷河期から後氷期へ、温暖化が進む中緯度の温帯では世界的にも「大型の道具を使う漁労」、「冬に備えて秋の収穫物を蓄える」など、定住を促す要因はいくつもあったと考えられます。しかし日本列島は今もそうであるように自然災害が多く、長期にわたる安定的な定住には向かない土地柄であるようにも思います。

それでもなお、早期に定住の道を選んだのはなぜか、個人的には、次の項に挙げる「祖霊を抱え込む」という発想、遺体を放置せずそれを集落の中心に据える、すなわち祖霊神という共同幻想を早期に持ったことが、定住を促した大きな要因のひとつではないかと考えています。

環状集落

縄文の集落は、先祖の眠る墓地を中心に同心円状に形成されていました。中心には石柱・柱など、神の存在を想像させるものが・・。神様の数を数える単位として「柱」を用いることと無関係ではないでしょう。

古いものが中心にあって、それを外にできる新しいものが包み込む・・というのは、樹木の年輪をつくる細胞の構成と同じです。つまり「柱」というものが象徴的な存在です。

ちなみに、弥生は集落の外に墓をつくりました。死者を外部として集落の外へ排除する考え方は、縄文とは明らかに異なる文化であると考えられます。

竪穴住居

縄文人の住居は、地面を円形や方形に数十センチメートル掘り下げ、そこに柱を立てて屋根を架けた半地下の住居で、その中心に炉(火の場)が設けられていることが特徴です。現代の住宅は、床を高くするのが一般的ですが、地面より下に床があることには、以下のようなメリットがあります。

住居の中心には炉がありました。現代人には想像がつきにくい事実ですが、当時の人々にとって、世界を照らすのは太陽と炎のみです。集落の中心に神を措定するのと同様に、住居の中心に火を置く・・・。古くから日本の家にある「大黒柱」も神の依代、あるいは神そのもので、縄文人(その後の日本人)の精神文化は「神を中心に包み込む」という特徴があると言えそうです。

世界最古の土器

時代名の由来ともなった「縄目文様」を持つ土器が登場します。これは世界的に見ても最も古い土器です。

土器は煮炊き・貯蔵という実用的な役割もありましたが、縄文土器には、火焔土器のような装飾性の高いものや、土偶(広い意味での土器の一種)のような祭祀目的と思われるものも多くつくられていました。

狩猟・採集・漁労


助け合い・資源をシェアする社会

一般に狩猟最終社会は「収穫物をシェアする社会」で、それは現代の狩猟採集民にも共通した特徴です。獲物を見つけるのがうまい人、音を聞き分ける能力に長けた人、走るのが速い人、弓を射るのが上手い人、料理が上手い人・・あらゆる物事が、それぞれの特性を活かした共同作業で成り立っていて、そこには資源配分に関する格差がありません。

現代日本人との遺伝的関係

現代日本人のDNAには、農耕によって人口を飛躍的に増加させた弥生時代以降の渡来人の遺伝子が色濃く反映されていますが、縄文人のDNAに関して言うと、本土では 10〜20%、琉球列島で30%、北海道(アイヌ)で70%、縄文人のゲノムを受け継いでいると言われます。

縄文社会にはないもの

労働

農耕以後の文明社会では、全員が一つの目的のために「同じ作業」に従事するようになります。収穫を得るためには一定の「努力」が必要、つまり、本当はやりたくないけど収穫のために努めなければならないことあって、努力せずに分け前を得る人がいると「ずるい」という感情が生まれます。そこで、揉め事が生じないように分け前の前提となる「何か」を量的に測ることが必要になります。例えば、どれだけの面積を耕したのか、どれだけの量を運んだのか・・それが「労働力)」という量的な概念です。分け前は「労働の対価」として与えられる・・。

それに対して、それぞれが異なる役割をもって助け合い、収穫を均等にシェアする狩猟採集の社会では、「ずるい」という感情は生まれにくく、揉め事もありません。狩猟採集はもともとワクワクする行為であって(現代人にとってそれは趣味の範疇に入ります)、報酬の条件としての労働という感覚はありません。

「働かざる者食うべからず*1」というご意見は、狩猟採集社会とは無縁の発想かもしれません。

排他的所有

土地の面積というものが食料生産量に比例するようになった農耕以後、特に16世紀のイギリスでおこった地主による農地の「囲い込み」 以後の社会では、あらゆる空間が排他的に所有されて、「そこを利用するなら金払え」という感覚が一般的になってきます。それまで食料調達の場として自由に使っていた土地を追われた人々は「賃金労働者」となるしかありません。

それに対して、農耕以前の狩猟採集の社会では、あらゆる空間は「共有地(コモンズ)」であり、それは誰のものでもなく、いわば神に与えられた場所でした。空も大地も海も、所有欲の対象ではなく、感謝の対象であったのです。

排他的所有があたりまえの現代人が忘れてしまったこと・・それは、自然(神)に対する感謝の気持ちです。

競争

現代では、学校でも職場でも、みんなが同じことをします。その成果は「試験の点数」や「労働時間」といった、同じものさしで測ることができるので、自分の利益を最大化すべく、人々は競争に駆り立てられることになります。おそらくこれが諸悪の根源です。

競争を前提とする社会では「サボるウサギはコツコツ努力する亀に負ける」みたいな話がもっともらしく語られるようですが、そもそもウサギと亀では、特性が異なるわけですから、ウサギは山で、亀は海に潜って、それぞれが幸を持ち寄ればいいのではないでしょうか。

ゴールの意味を見定めることもなく、とにかく他者よりも多く・・という競争は、縄文の社会にはなかったのではないかと思います。

労働も勉強も、本音としては「やりたくないこと」です。だからそれを自動化する「機械(AIはその究極)」が次々に生まれるのです。競争を目的とした努力は、それを自動化する技術によって無に帰される。歴史を見れば明らかです。

成長

縄文時代は1万年以上続きました。成長の概念がなかったからです。

私たちは、常に成長しつづける社会に生きているので、「時間」というものが直線的に進行する・・というイメージを持っていますが、何世代にも渡って変わらない暮らしを続けていた人々にとって、成長という概念はなく、時間も円を描いて繰り返すものとして認識されていたものと思われます。もちろん農耕社会でも1年周期という感覚はあったかもしれませんが、技術革新による収穫量の増大は、過去よりも現在・・という成長を意識させたものと考えられます。

資源が有限である以上、成長には限界があって、このまま成長を続ければ人類はいつか破綻します。しかし残念ながら、成長のループにハマってしまった私たちの社会は、それを止めれば、別の意味で破綻します。自転車と同様、止めたら倒れる・・今更後戻りはできない・・という状況にあると言えるでしょう。

しかし、少なくとも「成長があたりまえ」というわけではない・・という視点は、現代社会を相対化するのに必要なものだと思います。

戦争(争い)

縄文の遺跡からは、人間同士が殺し合った痕跡がほとんど見つかりません。これは農耕をベースとした弥生時代とは大きく異なる特徴です。労働の対価としての富の格差、土地を支配する者と労働者として働く者の格差、どれだけ多くの土地を支配できるか・・、それらが様々なレベルでの争いの起源です。

争いというのは、資源の奪い合いから起こるものです。それを「資源」としてではなく「神の恵み」として享受していた縄文社会には、今日のような争いはなかったし、その恵みを必要以上に「捕りすぎる」こともなかった。1万年に渡って社会を持続できた理由がそこにあるように思います。

文字

狩猟採集社会は、一般に文字を持ちません。文字が登場するのは、農耕文明以後、富の管理に数字や文字が必要になったことが大きな要因です。

ちなみに、日本人は独自の文字をつくりませんでした。漢字は借り物で、ひらがな、カタカナも、その部分、あるいは簡素化によるもの。

仏教には経典があり、寺院には文字があふれていますが、神道には経典のような文書は存在せず、神社には文字の存在が見当たりません(鳥居の社名と「おみくじ」ぐらい)。

日本では、多くの伝統行事を口伝で継承しています。秘匿性の高い情報(奥義など)は頭の中にだけ・・の方が安全。また、聞き手に直接語る方が、文字解釈のずれが生じることがなく、考えや技術を正確に伝えることができる・・というメリットもあります。さらに言えば、文字で記録を残してしまうと時代に合わないことでも従わなければならない・・的な感覚になりますが、口伝であれば、時代に合わないことは、長老が忘れたふりをすれば柔軟に変えていくことができます。いちいち文書に残さない方がいいこともある・・。




縄文遺跡

以下のとおり、日本列島全域に、山のように存在します・・

ちなみに、最終氷期の最寒冷期(1万9000年前)には、地球の平均気温が約6℃低く、海水面は約120〜130メートル低い位置にありました。その後の温暖化(縄文海進)で、約5500年前の縄文前期中葉の海進頂期は、海水面は現在よりも4.4m高い状態。縄文時代は1万年以上続いているので、その間の海水面(海岸線)には大きな変動があることを視野に入れる必要があります。

以下、4大遺跡と呼ばれるもの+α

三内丸山遺跡

定住の発展期に誕生した拠点集落で、高さ14.7mの大型掘立柱建物、長さ32mの大型竪穴住居などが復元されています。大規模な盛土からは、日本最多の2,000点を超える土偶が出土しています。

竪穴住居、成人用土抗墓、小児用甕棺墓、掘立柱建物、盛り土、捨て場、粘土採掘穴、貯蔵穴、道路などが計画的に配置されています。

加曽利貝塚

集落を伴う「ムラ貝塚」としては日本最大級の遺跡で、総面積も 15.1haと世界最大規模の遺跡です。ドーナツ形で直径約140mの北貝塚と、馬のひづめ形で長径約170mでの南貝塚が8の字型に連結する構成になっています。

尖石石器時代遺跡

日本で最初に「縄文のムラ」の存在が確認された地。八ヶ岳山麓、標高1050m〜1070mほどの高原地帯、尖石遺跡と隣接する与助尾根遺跡、与助尾根南遺跡からは、縄文時代中期の竪穴住居が200軒余り発見されています。

大湯環状列石

国内最大のストーンサークルをもつ縄文時代後期の遺跡で、万座環状列石(最大径 52m)と野中堂環状列石(最大径 44m)の2つの環状列石と、それを取り囲むように掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが、同心円状に配置されています。つまり、環状集落が環状列石を取り囲むというパターンの遺跡です。

梅之木遺跡

縄文時代中期の環状集落跡で、150軒ほどからなる住居跡のエリアに加え、隣接する湯沢川沿いの生活痕跡、居住域から湯沢川へ通じる「縄文の道」が発見されています。



MEMO

参考文献等

人類史のなかの定住革命 西田正規

先住民族に学ぶ(月尾嘉男)

縄文と炭水化物 

雑記