言葉、音楽、絵画、神、親族、経済・・、人類がつくりだしたものに共通するのは、それらが「交換」を前提とするということです。
交換の起源には「私(たち)は、他者から贈与を受け取った」という負い目、あるいは感謝の気持ちがあって、それが契機となって、他者に対する贈与と返礼の連鎖がはじまります。贈与と返礼、溜め込みと蕩尽、人間の社会は常に「同一の状態にとどまらない」ように構造化されていて、その秩序は動的に保たれています。
文化人類学の基本概念のひとつである「交換 exchange」は、コミュニケーションの社会的な様態であるとともに、経済活動の基本でもあります。一般に「経済」というと、市場における貨幣経済をイメージしがちですが、人類学的視点に立つと、市場経済は「交換としての経済」の一形態にすぎません。
経済人類学のカール・ポランニーは「人とその環境のあいだの, 制度化された相互作用の過程」(1975)において、統合形態の原理として「互酬(reciprocity)」、「再配分(redistribution)」、「交換(exchange)」の3類型を提起しました。資本主義は、このうちの交換(市場)が極端に肥大化した社会と言えます。
文献によって言葉の使い方がいろいろあるようで、私には正確な言葉使いがわからないのですが、ここでは、ざっくり「贈与交換」、「再分配」、「等価交換」という3類型として概説します。
贈与交換における「贈物」は、市場の商品とは異なり排他的な所有ができないことが特徴です。贈与交換には haw が付着していて、贈与者の手を離れても彼の人格の一部として認識されます。そのような「贈与の霊」の圧力が、多産性や豊穣性と結びつき贈与の義務的循環を作り出します。
メラネシアのトロブリアンド諸島周辺で行われているクラ(マリノフスキーの研究)、婚姻制度におけるインセスト・タブー(近親相姦の禁止)(レヴィ・ストロースの研究)、いずれにも「使用価値」の交換、等価的な交換とは異なる意義が見出されます(当事者がそれを自覚して行なっているというより、結果として、社会の持続可能性に寄与していると言えます)。
レヴィ・ストロースによれば、人間の作り出すすべての社会システムは「同一状態にとどまらないように構造化」されていて、絶えず変化すること求められています。贈与交換は「贈物」がもたらす不均衡によって常態を更新しつづけるという社会の持続性のために機能していると言えます。
また、M・モースの言葉を借りれば、以下のような解釈もできます。
価値のあるものが交換されるのではない。 交換によって価値が生まれるのである。交換とは価値の創出のためにある。
今日においても家族関係や友人関係(市場の外部)においては、贈与交換が成立していると言えます。例えば、友人関係を例にとると、プレゼントはその場ですぐに精算しないのが普通です。借りた物についても同様、等価的に返してしまうと、そこで一旦関係が精算されてしまいますが、借りっぱなしの不均衡な状態があることで、常に相手を想起せずにはいられないという関係が持続します。
再分配は、その共同体の中心(王や族長など)に物が集まり、再び社会の構成員に分配されるというタイプのものです。再分配は、狩猟採集社会から中央集権的な国家にいたるまで、あらゆる段階?の社会に共通に見られますが、そこには「中心」というものが不可欠な要素として君臨しています。
例えば、北アメリカ北西海岸部の先住民が行うポトラッチ(モースの研究)は、「贈り物」の意味で(贈与交換をイメージさせますが)、裕福な家族や部族の指導者が家に客を迎えて舞踊や歌唱が付随した祝宴でもてなすというかたちのもので、富を再分配する機能がみられます。
等価交換は、近代社会における財の交換に代表されるもので、貨幣という「第三項」を介して行われます。そこで交換されるのは「贈物」とは異質の「商品」であり、人はそれを排他的に「所有」できることが前提です。
このシステムは当該貨幣が通用する経済圏における「信頼」によって成立しています。貨幣は「交換価値」の等価性を前提に商品の対価として信頼されるとともに、支払われた貨幣が再び支出できることが前提となっています。
私たちは、このシステムを日常的なものとしていますが、それが現代に特有の問題を生み出していることも無視できません。市場経済(等価交換)では、その都度関係が精算されます。つまり、当事者間に「つながり」が生じることはありません。つまり、等価交換は社会を「無縁化」するのです。「有縁」の煩わしさをカネ(等価交換)で解決すべく様々なサービスが生まれてきた経緯もありますが、それが極端に蔓延した無縁社会は、また別の問題を生み出しています。
「煩わしさ」を「面白さ」と感じるような新たな「縁」を構築すべく、等価交換とは異なる仕組みのデザインが求められます。
「ヒトは富を蓄積するために生産するのではなく、蕩尽するために蓄積する」という G. バダイユ(「呪われた部分」)の思考と、「私たちが常識だと思っている市場社会は実は特殊な社会であり、非市場社会こそが普遍的なものである」とする K.ポランニーの近代批判を受けて、栗本氏は、以下のような式を立てました。
消尽 ≧ 贈与 ≧ 交換 ≧ 交易 ≧ 商業 この不等式は、右へ行くほど日常性が高まり、 日常性の権化たる近代社会性も高まる
おそらく「需要と供給が・・」みたいな市場経済の話に終始する学校の教科書には載っていない話かと・・・