学士とは、学校教育法第68条の2第1項及び学位規則第2条により定められた学位のひとつで、大学を卒業した者、あるいは独立行政法人大学評価・学位授与機構に学位授与申請を行い審査に合格した者に授与されるものです(学位には他に大学院修了で与えられる「修士」、「博士」等があります)。
参考:国際標準教育分類
学士には、以下のような知識、技能、態度、創造的思考力が求められます。
この中で特に私が強調したいのは、「自ら学習できる」、「知識、技能、態度を総合的に活用し、問題を解決することができる」という部分です。
大学での学びには「学修」という言葉が使われています(大学設置基準)。「学習」と「学修」は違います。「学習」は「学問を習う」、「学修」は「学問を修める」ことで「授業だけでなく事前の準備、事後などを自ら行うことにより、深く学問を理解し身につけること」を意味します。小・中・高で体験してきた「習う」という感覚から早く卒業して下さい。
大学は、単純に「物事を教わる」ところではありません。「問題には正しい答えが一つだけあるはずだ。その答えを教えて欲しい」と思っている学生さんが多いようですが、いわゆる試験問題のような人が作った問題、模範解答を見れば答えがわかる問題・・・つまり「答えがわかっている問題」というのは大学生が精力を注ぐべき問題ではありません。
この世の中には、未だ「問題」として認識されていない問題も含めて、解決方法がわからない問題が山積してます。自分で問題を発見し、自分なりの方法でそれを解決する。それが大学生に求められる資質です。
大学では「卒業式」とは言わず「学位授与式」と言います。皆さんは芸術学部に所属しますので、卒業時には「学士(芸術)」が与えられます。芸術学部はどこにでもあるものではありません。つまり「学士(芸術)」も貴重な存在となりますので、良い意味でプライドを持ってがんばって下さい。
もともと学問には「文系」も「理系」もなかったのですが、大学の入試がそうした偏った試験を課すようになったことで、現在では多くの若者が自分の可能性を「文系」か「理系」かに限定するようになってしまいました。
自分を「系」で括ってしまうと人生がつまらなくなってしまいます。総合的な視点でものを考えるためにも、「そもそもそういう区分けは必要ない」と考えて下さい。九州産業大学 芸術学部では、入試の選択科目に「数学」を加えることで、「文系・理系の別を無化する」というスタンスを明確にしています。
学校での教育が制度としてスタートするのは産業革命以後。当時の発想は、工場労働者として必要な素養を身につけさせる・・という国策としての側面もあるし、子供を奴隷的な労働から解放し、学ぶ権利を与えるため・・という側面もありました。「教育」には、その背景に様々な思惑があります。
すべて人は、教育を受ける権利を有する。 教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、 無償でなければならない。 初等教育は、義務的でなければならない。 出典:世界人権宣言 第26条1
初等教育は義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること 出典:経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第13条第2項(a)
すべて国民は法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を 受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 出典:日本国憲法第26条第2項
付記1:義務教育の背景「子供を親(大人)から守る」
日本国憲法第26条をよく読んでみて下さい。これは子供本人に義務があるのではなく、親に対して「子供には教育を受けさせなさい」と言っています。
続く27条第3項には「児童はこれを酷使してはならない」とあります。つまり子供を奴隷のように働かせてはいけない・・ということです。今のこの国では「え?わざわざ書くことか?」と思う方が多いと思いますが、かつては(現在も)子供を労働力として奴隷的に扱う親(大人)が世界中にいたのです。法律として明文化することで「親から子を守る必要がある」という時代背景があったことは銘記すべきでしょう。以下、参考までに・・
誤:子供は学校に行く義務がある 誤:親はいかなる場合も子供を学校に行かせる義務がある 正:国・自治体・保護者は、子供に教育環境を整える義務がある
付記2:日本の「教育」は Education とは異なる
学びを駆動するモチベーションは、大きく以下のように分けることができます。おそらく、最も強い動機となるのは「感染動機」です。
競争動機 < 理解動機 < 感染動機
参考:宮台真司 「14歳からの社会学」
他人よりも良い成績を取りたい、試験というハードルを乗り越えたい・・といった「外的な要因」を契機としたもの。大学入学後も、多くの方がそのような動機で「お勉強」をしているようですが、残念ながら、そのような非・内発的な動機では、多くは身に付くことなく忘却されてしまいます。
それは何故・・。世の中の仕組みを理解したい・・という、自らの「好奇心」にもとづくもので、大学における多くの「研究」はこのような内発的な動機によって駆動します。
あんな人になりたい、あんなことができるようになりたい・・という動機。「学ぶ」の語源は「まねぶ」つまり「まねる」ということです。あこがれの対象に近づくために、その「まね」をする。子供が親の「まね」をし始めるのと同じで、これが最も自然な「学び」の動機です。
産業革命以後長く続いた資本主義社会の中で、「学校」は収益を上げる競争に勝つための「人材育成」を行なったきました。プロイセン型教育というのは、工場労働者や兵士・警官などの育成に最適化されたもので、それは Education(教育) というより indoctrination(教化・洗脳)に近いものです。
小・中・高と、競争に勝つこと(良い点数をとること)を目指して学び続けた結果、「学校とはそういうところだ」と思考停止する人が多数派となっています。他者が苦労せずに良い点を取ることを「ずるい」と感じて腹を立てるのは、「得点=報酬」という考え方に洗脳されている証拠です。 人より良い点数をとることに何の意味があるのか、これまでの価値観を一旦リセットして、学びの意味、学びの喜びがどこにあるのかを、考え直すことをお勧めします。
一定のルールのもとで量や速さを競う行為において、人は AI には勝てない時代になりました。働くことを競争だと考える人は、AI に仕事を奪われて苛立つでしょう。しかし、写真の登場によって画家が自由な表現を手にしたように、また、コンピュータの登場によって物理学者が「退屈な計算」から解放されて自由に思考できるようになったように、AI が登場したことで、人はようやく「競争」の虚しさに気づき、学ぶことの本来の楽しさを味わえるようになったのではないでしょうか。
世間の風潮のせいか、多くの学生さんが大学というものを「就職のためのスキルを修得する場」と捉えていますが、大学は学問の場であり、その究極の目的は「人間とは何か」を問うことです。あらゆる分野の学問がその研究対象を通して迫ろうとしているのは、「人間」であると言っても過言ではありません。
人間とは何か?この問いに迫るには、まず私たちが置かれている時(時代)と場所(国・地域)というものについて、それが非常に限定的なものであることを認識すること、そして、自分自身を相対化しつつ全体を俯瞰する視点を手にいれるということが必要です。そのためにはまず、我々の「常識」というものがいかに脆いものであるかに気付かなければなりません。「何かおかしくないですか?」という素直な問いが必要なのです。
私たちを洗脳している「常識」を疑うことからはじめてください。
多くの人は、考える自由を奪われていることに気づいていません(奴隷の最大の特徴は、自らが奴隷であることに気づいていないこと)。自らを相対化するというのは非常に困難な作業でではありますが、そのことに気づいているか否かで、思考の深さは大きくかわります。
あらゆる学問の基礎として「哲学」は非常に重要な存在です。しかし、日本の中学・高校では*2、その歴史的な系譜を外観して人名やキーワードを覚えることに意識が向けられていて、その考え方について深く議論する場がないに等しい状況にあります。
「労働はわれわれをより人間的にするのか?」 「技術はわれわれの自由を増大させるのか?」 「権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?」
しかし哲学というものは、私たちが生きる上で非常に身近な学問であって、誰もが大人になる過程で、哲学的思考を体験しているはずです。
「人生哲学」という言葉を聞いたことがあると思います。それは要するに「いかに生きるか」ということについての個々人の哲学です。
教科書に掲載された「哲学」がやたら難解なものに見えるせいもあって、「哲学」を縁のないものとして遠ざけてしまう方も多くいるようですが、実際には、人生について、あーだ、こーだと考えるのは、もう立派な哲学であって、その意味では、誰もが普通にやっていることなのです。
「人は何のために生きているのか、幸福とは何か、人はどこからきて、どこへ向かおうとしているのか・・・」 哲学とは、そうした根本的な疑問に総合的に立ち向かう学問であり、あらゆる学問の根底に位置するものだと言えます。
しかし、この国の教育制度の下では「哲学」を身近なものとする発想が除外されています*3。授業を素直に聞いて教科書を丸暗記しなければ受験戦争を突破できない。「人間とは何か?」などと自分で考える暇もなく、「考える時間がもったいないので、早く模範解答を教えて下さい・・」という感覚で「お勉強」だけをこなす。結果として、「考えない」こと(思考停止)が習慣化してしまう。
深く考えたことはありません。そういうものだと思っていました。 私にはわからないので、専門家におまかせします。
こういうのを「思考停止」といいます。この国にはそんな姿勢が蔓延しています。しかし、哲学抜きに知識や技術だけを身につけても、常に「何かしっくりこない」という違和感を抱いたまま一生を送ることになります。
もっと楽しく、気持ちよく、充実した日々が送れないものか・・と悩むとき、山積する世界の問題に立ち向かおうとするとき、その答えの方向性を決めるのは、あなた自身の「哲学」です。人生について、幸福について、人類の未来について考えること・・大学生である今が、最もそれに適した時期です。
哲学するのにお金はいりません。お金で気持ちが満たされるわけではないことは、みなさんうすうす感じていると思いますが、人間の脳は、そんなものよりも「頭をつかって考える」ということに快感を覚えるようにできています。
本当の楽しみは「考える」ということにあるのです。だから学問は面白いし、学問に関わることができるというだけで、人生が豊かになるのです。学んだことは誰にも奪われません。学生のうちに、たくさん「哲学」して下さい。
以下、大学での学びについて、入学したての学生さんによくあるカン違いについてお話します。これらのことを早期に認識するか否かでで、今後の大学生活の充実度が変わります。是非、ご一読下さい。
ただし、あくまでも私個人の見解です。教員によって、異なる考え方もありますので、単純に私の話だけを鵜呑みにしないよう注意して下さい。
残念ながらその期待は裏切られます。もちろん、講義や演習で基本的な知識・技術の確認はありますが、大学生は「自ら学ぶ」ということが前提です。
よって、大学の教員がすることは、学生さんの好奇心を刺激すること、学びのきっかけをつくること、学び方(研究の仕方)についてアドバイスすること・・・などが中心になります。
「授業で習ってからはじめよう」とか「3年で習うからまだいいか…」などと思っていると、「自ら学ぶ学生」との差が大きく開く結果となります。
「習っていないのでわかりません」と言えるのは義務教育まで…と考えて、早く大学生としての学びの姿勢を身につけて下さい。
Q&Aが主体となる「お勉強」のレベルでは「わからない」のは良くないこととされますが、わからないことは「わからない」と明言して構わないのが大学です。学問は「わからない」ことを知ること(無知の知)からスタートします。
教科書中心の「お勉強」の最大の落とし穴・・それは教科書自体に「そこに書かれていないこと」が明記されていない、すなわち「非掲載リスト」が存在しないことです。
円の半径 | 円周の長さ | 円の面積 | 方程式 |
\(r\) | \(2πr\) | \(πr^2\) | \(x^2 + y^2 = r^2\) |
楕円の長径・短径 | 楕円の周の長さ | 楕円の面積 | 楕円の方程式 |
\(a\) , \(b\) | ? | \(πab\) | \(\frac{x^2}{a^2} + \frac{y^2}{b^2} = 1\) |
それを測る物差しのサイズによって変わります。
砂つぶレベルにまで拡大することを想像してみてください。
どこまで拡大しても無限にクネクネしていて測りようがないのです。
教科書に書かれたことをマスターすればOKではありません、大切なのはその後です。教科書にある知見を契機として、何がわかっていないのかを知る。学問とは、そこからスタートするものだと考えてください。
これは(少なくとも私に関しては)ちがいます。私の脳から取り出せる情報量と皆さんの脳内の情報量は大差ないと思います。差があるように見えるのは、皆さんがこれから学ぼうとしている分野に関して、多少私の方が知識が整理されていて、経験的にそれをスムーズに取り出して話すことができる・・・というだけのことです。もし皆さんが、皆さん自身の得意分野について話をするとすれば、立場は逆転します。
私は、いつもゼミの学生さんからいろんなことを教わっています。研究室は、メンバー全員で話し合って新しい何かを生み出す場所です。「教える人」と「習う人」という関係ではなく、「共同研究者」として対話しましょう。
大学では(一般社会でも)これは当然です。大学には、義務教育にあるような「学習指導要領」や「標準(検定)教科書」のようなものはありませんし、授業のシラバスも、最終的には、担当教員がそれぞれの考え方で構築します(もちろん学部、学科の教育ポリシーを共有した上でですが・・)。
ですから、授業の進め方の違いや、問題への対処の仕方についての見解の相違というものは当然表面に出てきます。
どちらが正しいのか? もちろんそれを判断するのは「あなた」自身です。「言う事がそれぞれ違うからわからない…」と言って「思考停止」してしまったらそれで終わりです。双方の話を聞き、また他の人の意見や、他の資料にも目を通し、最終的には、自らの見解を持つことが必要です。
大学の試験では、教員の見解をそのまま答案に書く必要はありません。異なる見解であっても、それが論理的で説得力のある記述、またユニークな記述であれば、高い評価となります。わたしたしも学生さんの答案の中に、新たな視点を発見することを楽しみにしながら答案を読んでいます。
これは程度の問題です。忙しすぎて「余裕がない」、「考える暇がない」という状況は、大学生にとって望ましいとは言えません。自分の人生について、じっくり考えるだけの時間が必要です。根本的な哲学抜きに数だけこなしてもきりがありません。おそらく充実感も得られないでしょう。
他の学生よりも単位をたくさん取ろうとか、コストパフォーマンス(費用対効果)を上げようとか、そうした市場原理的な発想は、本来学問・教育の現場には馴染まないものだと思います。現に勉強=競争という受験優先の教育環境の中で日本の大半の若者が研究心や向学心を失い、疲れきってしまっています。これは私も含めて教育に携わる日本の大人たちの反省すべき点だと感じています。
すばらしい発見、面白いもの、良いデザイン、それらは競争心というより、純粋な好奇心や、問題意識、あるいは人や社会のために何かしたい・・・といった精神から生まれます。この世の中には金勘定抜きに提供されるモノやコトもたくさんあるのです。市場の競争原理をそのまま自分の人生(学問の世界)にまで持ち込まない方がいい・・・と私は感じています。
大学生にとって価値のあることとは何か?それを一度冷静に考えてみて下さい。単位がたくさん取れないとしたら、あなたは大学を辞めますか? おそらくNOでしょう。何が得られなくなったら、あるいは何ができなくなったら、大学を辞めるか? この問いに自問自答することから、自ずと「学生時代に何をすべきか」が見えてくると思います。
とんでもありません。非常に面白いものですし、苦痛などありません。それに専念できる「大学生」という身分であることをシアワセだと思います。
勉強は面白くない、苦痛だ・・・というのは、受験勉強の話です。大学での学びは好奇心を契機にはじめるもので、まったく質が異なります。
おそらく「勉強」という字面がよくないのでしょう。日本語で「強いる」とか「勉める」といった言葉の組あわせになっていることがいけません。英語で Study といえば「研究」という意味が濃厚になります。つまり「自分で発見した問題や関心ごとについて自ら関心をもって取り組む」ということです。
study も student も元はラテン語の studium に由来します。それは「情熱、熱意」という意味で、I am a student. というのは「私は情熱をもって真理を求めています。」ということ。単に肩書きの問題として「私は生徒です」というのとは意味が違います。日本では、高校までを生徒、大学になると学生。別の肩書きで区別しますが、student の文化圏では、中学生も大学生も同じ I am a student. です。つまり彼らは、ずっと情熱をもって真理を探究しているのです。ということで、日本の「勉強」につきまとっている義務的なイメージは払拭してしまいましょう。
大学は強制されて「勉強」するところではありませんし、偏差値のような一元的なものさしの上で競争を強いられることもありません。もっと自由に Study ができる場であると考えて下さい。「競争に勝つため」というような動機ではなく、純粋に「面白い」と感じること、純粋に「この問題を解決したい」と思う気持ちを学びのきっかけにして下さい。
「授業料」という言葉があるので「商品」としての側面もありますが、金銭と等価交換される単なる消費財と考えてしまうと、いろいろとおかしなことになります。大学の授業は、教育産業が販売・配信する「教材コンテンツ」とは異なり、「排他的な所有」ができるものではないし、そもそも授業の主役である学生さんは「お客様」ではなく「共同研究者」です。
授業は「商品」ではなく、「コモンズ(共同牧草地)」と考えるのが健全ではないかと思います。教科書的な情報は安価(多くは無料)で手に入るし、インターネット上には無料で視聴することができる大学の講義が多く存在します。太陽エネルギー、水、空気、大地・・最も大切なものは、基本的にすべてタダで手に入るコモンズ(共有財産)です。コモンズであるべき時間・空間・情報を囲い込んで「商品」にするという発想は、そもそも学問の場としての大学に馴染む発想ではありません。
商品は等価交換され、消費されて終わりですが、授業(情報)の価値は所与のものではなく、消費(蕩尽)されることもありません。授業の価値は、共有される時間・空間・情報、そしてそこに集まる他者との関係において決まる・・と考える方が、学びの可能性が広がるのではないかと思います。
1990年代以降、大学は「規制緩和・自由化」とともに、成果を第三者によって「評価」する仕組みが導入され、「お客様満足度の向上を目指す」という市場の原理の中に放り込まれました。短期的な成果を求める「株式会社」と同様の思考が蔓延したことで、結果、学術研究の場としての大学の機能が破綻しつつあることは、多くの大学関係者が感じていることです。
大学の歴史は古く、本来は、国家や民族をこえて普遍的な知の成熟に貢献する存在であったはずです。ところが今では「国益」のために「企業」が求める「人材」を養成する場である・・という理解が幅を効かせている状況です。
大学本来の意義を、学生さん自身がしっかり把握しておかないと、大切な4年間を政治に翻弄されて終える…という悲しい結果になりかねません。大学とは何か?。学問とは何か?。もちろん「就職のため」という現実的な目的もあるかもしれませんが、あなたの人生を根っこから豊かにするための「知」の発見の場として捉え直すと、日々の講義や演習も、一味違ったものに見えてくるはずです。
21世紀、世界はネットでつながり、すでに地球上のすべての人類が情報を共有できる状況にあります。国家は「国益」のために争っていますが、私たちは音楽や映像を通して国境を越え、自由につながっています。よくいわれるように「芸術」は国境を越えて、すべての人たちに「知的な豊かさ」をもたらすのです。リベラルアーツの言葉どおり「Arts」は本来「学問」の概念なのです。大学で学ぶことは「Arts」を学ぶこと。「学問の頂点は芸術である」*4という言葉は、それを語っているのだと思っています。
大学の歴史
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