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SocialDesign/Miscellaneous

覚書

SocialDesign|Miscellaneous

平等・公平について

体積の計算ができない複雑な形のケーキがある。これをAとBが喧嘩にならないように平等に切り分けるにはどうすればいいか?

上から目線の「平均化」と、現場の声を聞く「公平性」とは別物です。民主主義の形式だけを取り入れた明治以後の日本は、前者をそれと勘違いしたために、結果的に多くの可能性を失いました。

おにぎりが欲しい人、缶コーヒーが欲しい人。人はそれぞれ、「今、欲しいもの」が異なります。その声を聞かずに、すべてに両方を均等配分したのが明治以降の日本の考えた「公平性」でした。

現場のみんなが納得できるような「大岡裁き」が求められます。


市場の原理について

ソーシャルデザインはコマーシャルデザインではない・・という点で、市場の原理をそのまま適用することはできません。

人間という生き物は、ひとつの原理ですべてのことがうまくいくと思いたがるようです。現代社会におけるそれが「市場の原理」です。現代人の多くが「いいものをより安く享受すること、すなわち俗に言う「コスパ(Cost Performance)の良さ」に価値を見出しているようです。そして、多くの人は「消費者」に成り下り、口をあけてサービスを待つだけの存在になりました。自ら価値を生みだす力をなくしてしまったように感じます。


消費社会について

計画的陳腐化という言葉があります。ニューモデルが以前のものよりカッコ良く見えるように、あえて中途半端なカタチに完成度を下げる。モノのカタチには必然性というものがあって、自動車のような明確な目的を持った道具のカタチは、本来であれば一定の形状に収斂するはずです。しかし、あえて変なカタチを含ませることで、以前とは違う新しさを感じさせ、そして新製品が出るときには、それが古臭く見えるようにする。そうした、次々に不要なモノを買わせる消費社会の発想には、そろそろ見切りをつける必要があると思います。

また「音楽」というものも、本来は消費されるものではなかったはずです。アメリカのヒットチャートという発想が、そして最近では iTunes のようなものが音楽というものを賞味期限つきの「商品」にしてしまいました。「昔の歌」という言い方がありますが、音楽に新しいとか古いとか・・そもそもその発想自体がおかしいと思うのですが・・

働くことの意味について

みなさんは、いわゆる「就活指導」に違和感を感じていませんか。大人たちは、学生さんの働くモチベーションを上げるべく、様々な不安を煽り、就活に有利な条件を紹介し、自己分析を推奨しますが、学生さんの多くはそれに共感できないどころか、苦痛さえ感じているのではないかと思います。

内定をゲットするために、学生さんが投げ込まれるラットレースの世界は、どれだけがんばっても報われないことが目に見えていて、就職活動のモチベーションが上がらないのも当然かと思います。

働きたくても仕事がないという人が大勢いる一方で、働くモチベーションが湧かないというのは贅沢な悩みだと言ってしまえばそれまでですが、この社会で働く意味が見出せない、自分に自信がなくて就職活動の一歩が踏み出せない、という悩みも「生きづらさ」の重みは同じであるように思います。

働きたくても仕事が得られないことと、働きたくない気持ちが生じることとは、一見、置かれた状況が正反対であるかのようにも思えますが、そこには、「競争原理」によって全てが決まる、人間が商品と同様に価格づけされて扱われるという、共通の構造的問題が潜んでいるように思います。

で、私は思うのですが、働き方(働かせ方)の問題というのは、そもそもの前提となっている「人は自分のために働く」という発想自体が、本義からズレているせいではないかと・・。人は何のために働くのか。働く側も、雇う側もそれを「本人のため」と勘違いしていることが、このような生きづらい世の中の元凶であるように思えてなりません。

え?どーゆこと・・と思った方。それぐらいこの世の中は時代の空気に洗脳されてしまっているのです。視点を引いてメタレベルで思考しましょう。

人類はもともと「助け合わなければ生きていけない」という状況に対応すべく、様々な協働の仕組みを作り出してきました。しかし、戦争や自然災害のない平和な時間が数十年続いたな現代社会では、多くの人が、助け合うことよりも、自分のために他者と競争すること(つまり「利他」から「利己」へと)その行動原理をシフトさせました。結果、働く側は「自分の収入を増やすこと」を目的とするようになり、雇う側も「競争させておけばパフォーマンスは上がるだろう」と考えるようになった。人間はみな自分が食うために働いている、頑張ればひとりでも生きていける・・と思えるのは、かつて稀に見る「平和」な時代が続いたことが(それ自体は良いことですが)、その背景にあるのかもしれません。そしてその見かけ上の豊かさを前提に、社会の仕組みが大きく変わった。

働く意欲が湧かないのも、収益が上がらず人を解雇せざるを得なくなるのも、人が働く動機を「本人のため」だと勘違いしたからではないでしょうか。
こんな「たとえばなし」があります*1

働く=はたらく=傍(はた)を楽にする=みんなを幸せにする。

 

ちなみに、日本国憲法第二十七条一項には、勤労の義務が規定されています。

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う

これは「労働者として賃金を得よ、自分の糧を得るために働け」という意味ではなく、そもそも人は助け合わないと生きていけないので、あなたの持てる力を社会に提供してください・・という話だと、私は解釈しています。

人は他者を「鏡」として、その自我(セルフイメージ)を構築しています。セルフイメージが上昇すること(自我が理想的な高さで安定すること)が何よりも大きな幸福感につながることは少し考えればわかることで*2、他者の存在(他者からの感謝)がなければ、生きがいを感じることもできません。つまり「自分のため」ではなく「誰かのため・相互に助け合うため」を前提にすることではじめて、働くモチベーションも湧くし、組織のパフォーマンスも上がるのではないかと思います。

食うには困らない核家族の中で、誰の手伝いをするわけでもなく、自分のためにお勉強を頑張ってきた人は、人から感謝される機会に恵まれなかった点で、働くことの意味を捉え損ねている。あなたの「行い」が、誰かの「ありがとう」や誰かの「笑顔」を引き出したときに得られるインパクトは、何よりも大きいものなのですが、その体験がないと、働くことも「お勉強」の延長で「自分の年収を上げるため(人としての商品価値を上げるため)」と思い込んでしまう。

幸福の指標が「年収」で測られるというのは、メディアに洗脳された現代人の単なる思い込みと言えるでしょう。一般に「自分のための仕事」は賃金と等価と感じた時点で手が止まりますが、賃金目当てではない「他者のための仕事」は想定以上の成果を出します。得られるのは「感謝の言葉」や「誰かの笑顔」。でも、その方が人は頑張れる。

労働というのは、基本的にオーバーアチーブメント(達成過剰)なもので、労働と賃金はもともと等価ではありません(だから利益が出る)。人類の基本的な性質である「過剰」が文化を成熟させ、人類の存続に寄与したは、人の行動が他者の存在によって喚起されているからなのです。

労働というのは「働いた分だけ賃金をもらう(与える)」という単純な話ではありません。過剰なものの「贈与」が、また別の人への「贈与」を生む(「返礼」は自分に戻ってくるものではありません)。「贈る人」と「贈られた人」のアンバランスな状態が動的に構成する「贈与のネットワーク」が社会をプラスのスパイラルに載せて活性化する。それが、人の労働が生み出す最大の価値ではないかと思います。

現代社会は、何もかもが「商品」とみなされ、誰もが自分のことを「職場においては人的商品」、「日々の暮らしにおいては消費者」であると思い込んでいますが、買い物同様の「等価交換」(それはその場で即完結)は人を「孤立」させ、組織のパフォーマンスを下げるだけで、社会を活性化することはありません。

労働というものを単純に等価交換可能な「商品」と思い込んでしまったこと(そしてそれが現代社会の常識になってしまったこと)が、人から働く楽しみを奪い、社会から元気を奪っているような気がしてなりません。

現在の就活関連の「ご指導」では、一言でいうと「あなたの商品価値を高めましょう」という話がなされます。◯◯のスキルを身につけましょう。◯◯を体験しましょう。それ自体はいいことですが、その動機づけが「商品価値を高める」ことにあるとなると、「いえ、私は結構です」と感じる人が出てきても不思議ではありません。要するにそれは人類に共通のモチベーションではないのです。

ちなみに「人材育成」という言葉に何の違和感も感じない人が多いようですが、私にはそれが「人間を商材とみなしてその商品価値を高めるための教育」と聞こえて違和感を覚えます。

実際に社会が必要としているのは「商品価値の高い人」ではありません。そのレベルであれば、やがて AIやロボットに代替可能です。社会が求めているのは、人類史を通じて変わらず、「贈与」が社会を動的に活性化するということを自覚して、それを楽しむことができる人です。

働くことに不安を抱えているみなさん。とりあえず働いてみないことには、働くことの楽しさ・価値は体感できません。まあ、おじさんに騙されたと思って、誰かの「笑顔」を見るために働いてみましょう(そもそも国民の義務ですし)。

あなたの「贈与」が生み出す「ありがとう」のインパクトを体感すれば、働く意味がわからない・・という感覚は一掃されるのではないかと思います。

ただし「働くことの意味を勘違いした人たちが集まっている企業」は間違いなくブラック化しているので、そういうところは避けた方がいいでしょう。まともな企業であれば、その企業の活動自体が誰かの「ありがとう」によって支えられているはずです。


常識を疑う

国の違い(文化の違い)、時代の違い、「常識」というものは多様です。そもそも「常識」とは、当該集団が争い事なくうまくやっていくために恣意的に作られたルール。それはある意味「共同幻想*3であって、自然科学的な根拠をもつものではありません。なので、その構造は一挙に組み換えることが可能です。人も社会もどんどん動いているので、常識に囚われず、自由に発想してみることが大切です。

大人たちが押し付ける「社会人としての常識」の大半は、産業革命以後の社会の常識です。それは10万年の歴史をもつ人類に普遍的なものというわけではありません。とても簡単な例をあげてみましょう。今私たちは「住所」に定住するのがあたりまえですが、100年も遡れば、あるいは世界を見渡せば「移動生活」を常態とした暮らしがあるのです。あたりまえだと思っていることを疑う。様々な価値観や生活様式があることを認める・・ものごとの関係を再編集することで、面白い暮らしが可能になるかもしれません。

優れた芸術家はみな人と社会の問題について深く考えています。そして芸術家の仕事の多くが、人と社会が抱える問題を暴き出し、多くの人に考える契機を与えています。我々が「常識」としていることを疑い、問題の本質に気付くことが必要です。




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*1 出典は「江戸しぐさ」と言われるようですが、これには賛否あるようで・・Google:江戸しぐさで検索してみてください。
*2 逆に言うと、人間は、体を傷つけられることよりもセルフイメージを傷つけられることの方に大きな怒り・落胆を感じる生き物です。
*3 「共同幻想」という言葉は、吉本隆明,1968 や岸田秀,1977 によるものですが、私個人的には岸田秀の「ものぐさ精神分析」で語られる「唯幻論」が非常にわかりやすいと感じます。議論の発端は「人間は本能の壊れた動物である」ということ。人間は生まれたままの状態では環境に適応できず、「文化」という共同幻想で環境をラップすることでしか自然環境との関係を保つことができない。言語、宗教、貨幣経済など、人間がつくったあらゆる文化的なものは恣意的に共有された幻想である・・という捉え方です。「紙幣」が最もわかりやすい例でしょう。数字が印刷された紙切れに価値があるとするのは、当該集団全員が幻想を共有しているからに他なりません。有事・破綻して紙幣がただの紙切れになってはじめてそれが幻想であったことに気づくのです。
 個々の集団が持つ文化=共同幻想は、どれが正しいとか優れているとかいう性質のものではありません。しかし多くの人間は、文化の多様性を認めることができず、自分たちだけが正しいと思っている。集団間で無意味な争いが絶えないのはそれぞれが拠って立つ共同幻想が異なるからです。しかし、だからといって「世界をひとつの共同幻想で統一しよう」という試みも、残念ながら成功するとは思えません。なぜなら、幻想は100%共有できるものではないからです。人は常に共同化されずにはみだしてしまう幻想を抱えています。私たちが常に何か得体の知れない居心地の悪さを感じているのは、そのせいだともいえるのではないでしょうか。

Last-modified: 2023-04-27 (木) 19:44:12