Information Sharing
なぜ「情報共有」について考えるのか。理由はいたってシンプル。生き延びるためです。生物個体としても集団組織としても、「いつ、どこに、何があるのか」を共有することは極めて重要で、他の近縁人類のなかでホモ・サピエンスだけがここまで生き延びたのも、自然の猛威に対して生き延びるべく「情報を共有する」という戦略をとったからだと言っても過言ではありません。
言葉の利用、文字の利用、印刷術、写真術、インターネット・・いずれも、人類存続の可能性を広げることに寄与したと言えます。
近現代の例でも、1923年の関東大震災をきっかけに2年後にラジオ放送開始、1995年阪神淡路大震災をきっかけに携帯電話が爆発的に普及するとともにWindows95の登場でインターネットの活用が一気に加速。さらに2004年スマトラ沖地震時の現地映像をきっかけに動画共有の可能性が見出され、YouTubeが誕生しました。そして2020年新型コロナウイルスのパンデミックを契機にオンライン会議が日常化されました。いずれも人類の危機的状況に対応すべく、新たな情報共有のありかたが模索されてきたのです。
しかし一方で我々は今、共有とは真逆の「排他的所有」を是とする社会に生きています。それがもたらす「経済的な格差」と「孤立」は、大きな社会問題として我々の目の前にあります。
現代社会では、ありとあらゆるモノ・コト(・ヒト)が、個人・集団組織・国家の所有物として位置付けられています。あたりまえ過ぎてそこに疑問を抱く人は少ないようですが、「これは◯◯の所有物であって、外部の者がそれを利用したり、持ち出したりしてはいけない」とする「囲い込み>排他的所有」の拡大は、私たちの住む世界から「共有地」を奪っています。身近な例で言えば、子供が遊ぶ場所がなくなっている。かつて家の周辺には、自由に魚を獲ったり虫を採ったり、草野球をしたりする場所がありましたが、現在ではそのような場所は、所有者によって柵で囲われてしまいました。
そもそも「所有(占有)」とはどういうことか。人間以外の動物も、獲物や棲家の取り合いはしますが、「所有」というのは資本主義社会であれ共産主義社会であれ、農耕革命以後の文明社会に生きる人間特有の発想です。
一方、文明以前の狩猟・採集社会では、何者かが生産手段や消費財を排他的に所有することはなく、獲物もみんなでシェアします。そこでは、すべてが自然の恵、神・精霊からの贈り物であり、それに感謝するとともに、必要以上に獲ったり貯め込んだりすることはありません。
個人も国家も「言葉」を持った意識が作り出した「幻想」であるという立場に立てば、あらゆるものを「神からの恩恵」とみなして、必要最小限のものを感謝の気持ちをもって共有する・・という発想にも可能性があるかもしれません。文明以前のもっと原始的な人々の知恵として、私利私欲の暴走を止めるべく「神様(超越的な存在)がいることにする」というアイデア・世界観は、サスティナブルな社会デザインの一助になるのではないかとも思います。
「働いて得た金で買ったものは、どうしようと私の自由だ」という発想は、資源をむやみに消費してしまう点でサスティナブルとは言えません。所有者が個人であれ組織であれ国家であれ、また、生産手段であれ消費財であれ、その前提となる「所有」という概念に疑問符を投げかけるとともに、「共有」の意義を再認識し、失われつつある「共有地」を取り戻すことはできないか、その可能性がインターネットという自律分散協調型のプラットフォームにあるのではないか・・というのが私の今の関心ごとです。