「音楽と映像」(2005) pp.184-195
なぜか?と問われたところで、「脳がよろこぶからだ」としか答えようのないことがある。しかしこれが、人間のあらゆる思索や行為の動機を説明する、最も端的な答えであろう。
人間とサルを分ける最も顕著な違いは、無駄(?)に発達した前頭葉にある。この過剰な脳細胞たちは、自分たちの活性化のために(細胞は活動しなけれ衰退するから)、人間に「考える」ことをさせはじめた。要するに生命維持活動には必要のない、自らのためにお互いに信号を交換し合うという余計なことを始めたのである。人間は、考えることによって、時間的にも空間的にも「今ここ」を離れた事柄を反省したり予見したりするようになり、その想像が描き出す「快適な世界」を実現しようといろんなものをつくった。そして、自分たちがつくった世界の複雑さゆえに、20年もの学習期間を経なければ、その社会への一歩を踏み出すことができない…というバカな状況に陥っている。サルはそんな人間を見ておそらくあきれている。歌うことも描くことも物語をつくることも、そして世界の仕組みを探求することも、サルには必要のないことなのだ。すべては、過剰に発達した脳の「よろこび」に起因している。
過剰な脳活動
もちろん、その過剰な脳活動にも程度はある。脳はやみくもに活動したがっているわけではない。信号が多すぎても細胞は破壊されるし、信号のループバックに歯止めがきかなくなれば癲癇発作のようなことになってしまう。あまりにも多くの新しい情報に対しては、「待った」がかかる。情報は多すぎれば疲れるし、少なければ退屈する。日常的な感覚でわかるように、脳はその時々の適度な活性状態を求めている。
かつて、講義のなかで「あなたはなぜ映画を見るのですか」という問いかけをしたことがあった。「好きなタレントが出ているから」・「物語の世界を見たいから」・「現実逃避」・「自分もつくりたいから(ヒントが得られるから)」・「映画と映像について研究したいから」、様々な回答がなされた。そのままでは面白くないので、さらにディスカッションをしたところ、それらの回答の枝葉を落とすことで、以下の四つの機軸を抽出することができた。
視たい/つくりたい/知りたい/伝えたい ・・・である。
ここには「脳がよろこぶこと」の理由が見事に見出されているように思える。これらは次のように言い換えてもいいだろう。すなわち、物語を視る(読む)こと/物語をつくること/物語の仕組みを知ること/物語の仕組みを伝えること、である。「物語」という語を「世界」に置き換えても良いかもしれないし、あるいは「秩序」と置き換えても良いだろう。サルは物語を理解しないし、つくることもない、当然形而上学的な好奇心は無いし、それを他のサルに伝えようともしない。これらは人間に特有のよろこびなのだ。
サルとヒト
「サル」と一括するのは実は乱暴で、霊長類の中でもチンパンジーなどの大型類人猿は、鏡による自己確認や写真の認知、またペンを使った落書き行為もする(ニホンザルなど旧世界ザルは落書きはしない)。観察できるレベルでの人との区別は、例えば、道具を使って道具を作ること(二次製作)や死体を埋葬する(墓づくり)といった、高度なシンボル操作に関わることができない、というところにある。
この四つの分類は、人間の発達段階に照らしても興味深い。まず視ること聴くこと物語に浸ることが楽しくて、やがて自分でも何かつくってみたくなる。つくっていくうちにその仕組みに興味が行き、最終的には自分が発見した仕組みを人に伝えたくなる。多かれ少なかれ誰でも成人するころには、なんとなく自分の世界観のようなものができあがって、それが成熟すると次の世代へ伝えたくなる。典型的なのは、宗教家や芸術家、あるいは広く研究や教育に携わる人たちである。自分の世界観がクリアであればあるほど「伝えたい」という気持ちは強くなる。
さて、脳がよろこぶことの究極には、脳の中で出たり入ったりしている様々な神経伝達物質が関与している。精神疾患の治療などでは脳の状態を良好にするために薬物を使うという場合があるが、通常はそのような外的手段で脳をよろこばす必要はない。厳しい脳血管関門を簡単に通過できる薬物というのは、もともと脳内に存在する物質だということがわかっている。つまり、脳をよろこばすには、身体の状況や各種の感覚刺激、さらに思考のありかたなどをコントロールして、その物質を様々に活性化すればよいのである。おそらく、昔からある様々な「宗教行為」や「癒しの技法」さらには「自己啓発セミナー」といったものも、神経伝達物質のコントロールと無関係ではないだろう。実際、胸の前で手を合わせるだけでも血行が良くなるのだから、内外の刺激が神経伝達物質のふるまいを変化させ得ることは容易に想像できる。
神経伝達物質
様々な物質が、人間の脳の状態と関わっている。例えば快感・好奇心・学習意欲に関わるドーパミン、注意力・集中力に関わるノルアドレナリン、安心感・幸福感に関わるセロトニンなど数十種類ほどが確認されていると言われる。いずれも、不足すると精神活動に支障をきたすが、多すぎても精神分裂・過敏・攻撃・錯乱といった問題につながる。重要なのは適度な活性である。
自己啓発まがいのお話
「やる気」は、やっかいな存在である。というのも、やる気に関わる側坐核は、動き始めないと活性があがらない(アセチルコリンの分泌がおこらない)。つまり、やる気になるまで待とうと思っていたら、いつまでたっても「やる気」にはならないのである(逆に休日返上で予定を入れるような「やる気」のある人というのは、がんばった「達成感」(ドーパミンの快感)がさらに「やる気」を促すことでテンションが上がりっぱなしの状態になっている)。朝起きた時は「やる気」がなくても、とりあえず動き出せば、なんとかなる。人はそういう生き物のようである。「やる気」がでないと言っている学生諸君、とりあえず窓を開けて、光を入れて、手を動かしてみよう。いつのまにか「やる気」がでてくる。「脳」はそういう仕組みになっている。
以下、このような物質のコントロールに関与して脳をよろこばせるであろう、視る・つくる・知る・伝える、について順に考察してみたい。
「視ること、それはもうなにかなのだ」と言ったのは梶井基次郎である。確かに、単なる風景でも、見ているだけで気分が良くなる場合がある。一方で、見ただけで不快感を覚えるような対象があることも事実である。この違いは何か?。記憶である。我々の「視る」や「聴く」は、単純なボトムアップではない。そこにはトップダウンが関与していて、「知覚」と「想像」はともに連想的に記憶を活性化するのである。
視ること、それは記憶と関わることなのだ。もちろん人は、楽しい記憶の想起につながる「視る」を求めている。不快な記憶はリンクからはずしたい。人の「視る」は、快適な記憶と結びつくことで快感を覚えるのである。もともと、楽しい記憶と不快な記憶とでは、楽しい記憶のほうが長期に保存されることが知られているが(だから想い出は美しい)、それは、気持ちがいい時の方がより結線(記憶のネットワーク)が強化されるからである。不快な記憶の場合もリンクされれば強化されるのだが、人はそれらをなるべく思い出さないようにして徐々にリンクを切っていく。脳はよくできていて、極端に不快な出来事(強い刺激)の場合は自発的に接合を切って記憶を孤立させてしまうことすらあるのだ(この事実は心的外傷による記憶障害や解離性同一性障害を説明するものでもある)。ソンタグ(1979)は、「写真を撮ることは世界をコレクションすることだ」と言った。美しい記憶の想起を促し、その記憶を強化する刺激、人はそんな風景をコレクションしようと、シャッターを切っているのではないだろうか。
イメージのコレクション
我々の欲望の対象は何だろう。確かに人は、いろんな「モノ」を見て、それが欲しくなる。しかし買ったところで、実際には使わないものも多い。欲しかったのはその「イメージ」であり、またそれと連想的に結びつく「夢」なのである。例えば、愛車が盗まれたとしても、それに気付かず「ガレージには愛車がある」と想像できるうちは幸せだ。扉を開けて中身を確かめさえしなければ、実体はなくとも気持ちは満たされたままなのである。我々の欲望における「実体」の占める割合はごくわずか。欲しいのは結局その「イメージ」なのである。
さて、「視る」ことの快感は、単に美しい記憶とのリンクによるものだけではない。視ることによって生じる新たなリンクの形成時にも脳はよろこんでいるようだ。
我々は同じ映画を何度も見て、何度も異なる感動を得る。脳は(記憶は)時と場所とそのときの精神状態でネットワークの活性状態(認知的な構え)が異なるから、あらゆる情報体はその都度、重み付けを変えて我々の脳を刺激することになる。旅先で見るテレビが、いつもと違って見えるのもそのためである。特に映像のように具体的な情報の場合は、多義的な見方が可能で、新しい「読み」をすることが、また新しい結線を促すことになる。この、リンクが「つながるとき」・「組み換わるとき」の快感も、「視る」ことの一つの動機なのではないだろうか。クリステヴァ(1984)の指摘のとおり、作品は一つの「生産性」であって、生産完成品ではない。その都度新しい読みを促す多義的な「作品」は、我々の脳にとって愉快な存在だと言えよう。脳は視ることによる組み替えをも欲している。
我々は現実の世界に生きていながら常に新しい「物語」を求めている。「物語」とは別の言い方をすれば「絵空事」であり「異なる秩序」である。小説にせよ音楽にせよ絵画・映画にせよ、新しい情報秩序が出来上がっていくプロセスというものは常に人をワクワクさせるものである。しかし日常的な感覚からもわかるように、楽しいのはつくっているプロセス(それも完成間近の段階)で、出来上がってしまうと興味も薄れてしまう。人は、創造行為における「つくる⇔視る」のフィードバックが引き起こす脳内の結線組み換えそのものを楽しんでいるかのようである(よく部屋の模様替えをするというのも脳内でおこる結線組み換えの投影であろうか)。
つくることは楽しい。自分の脳を駆使して、他にはない自分だけの世界、自分だけの物語、自分だけの情報秩序をつくる。できたものの秩序感が優れていればなおさらである。
しかし、である。人間は、情報秩序を自分の発想でつくったつもりになっているようだが、はたしてそうだろうか。最近思い至った(やっとわかった)事柄なのに、それと同じ記述が10年前のノートに見つかることがある。決してボケているわけではない。10年前にはその言葉の意味の深さに気付いていなかっただけなのだ。深く考えて発した言葉ではないにもかかわらず、言葉は、私の意識より先に結論を言い当てている。つまり「言葉」というシステムは、はじめから、それによって思考すれば出てくるような「答」を内在しているのである。
偶然か盗作かということが話題になることがあるが、情報というものは表現のシステムを確定したとたん、何らかの必然を生じるものである。一定のリズムで、一定の速さで、一定の音域で音符を並べると必然的に音が理想的あるいは合理的な配列を選択することがある。メロディーのように有限の要素、限られた速さと時間で創作されるものでは、複数の作者の作品が似るのは偶然でも盗作でもない、情報の仕組み自体がもつ必然なのである。似ている似ていないで著作権上の揉め事も多いようだが、その作品が優れて音のしくみを反映しているからこそ似てしまうということもあるのではないだろうか。
つくること、それは表現の仕組みやメディアの仕組みを発見することにつながる。そしてさらに言えば、そうした表現の仕組みやメディア自体を作り出した人間の脳の仕組みを発見することにつながるのだ、なぜつくりたくなるのか、それはつくることを通して自分の脳がわかるからである(明らかに言い過ぎだが、「私の脳」が「書け」と言った)。
プラトン(B.C.375)は「製作」というものについて、地上の机より「机のイデア」が先にある、というようなことを言った。また、我々が様々な三角形を見て、それを三角形と認識できるのは、我々が「三角形のイデア」をすでに持っているからだ、というようなことも言っていた。つまり、ここでの文脈で述べれば、「脳には、はじめからそういう構造があって、我々はそれを外の世界に投影して形にしているだけだ」ということである。こう言ってしまうと実も蓋もないのだが、別にそれで「芸術」がつまらなくなるわけではない。脳の中は広い。そこからひきずりだせるものはまだまだあるのだ。一時は成りを潜めたチョムスキー(1957)の生成文法論が、脳科学の議論とともに見直されている。つくることも、つくってよろこぶことも、乳児が自然に文法を探り当てるのと同様に、すべては脳の仕業、脳がそういう構造をもっているからだと言えるのではないだろうか。それを認めてしまえば、さあ、お楽しみはこれからだ。
哲学者
おそらく脳科学以前から、人はその思考によって脳の仕組みを言い当てている。すでに触れたようにサルトルもその哲学的思考によって、ボトムアップ信号とトップダウン信号がともにイメージ表象を活性化することを言い当てていたのである(もちろん脳科学者がサルトルの発想を直感的に正しいと感じていなければ、そのような検証も進まなかったのかもしれないが)。
その意味では、「人間とその世界」についての知見には新しいも古いもない。熟考してピンときた発想であれは、それはおそらく脳の仕組みを上手く反映しているだろうし、同時に我々にとっての世界も上手く説明するはずである。ギリシャ哲学にも、お経のなかにも、近代哲学にも、使っている言葉が異なるだけで、「同じようなこと」ことが書かれている。
さて、人間の脳は様々なきっかけで喜びの反応を示す。例えば、人が誰かの言葉に感銘を受ける時、本人は気付いていなくとも、そこには脳の仕組みを反映したよろこびのヒントが隠れている。筆者にとって四行手前の「お楽しみはこれからだ」というフレーズもそうかもしれない。映画『ジャズシンガー』(1927)のセリフとして見ただけではなく、雑誌のキャッチコピーや日常の会話でも何度も見聞きしている。そして筆者の記憶に強くひっかかっているのだ。おそらく、今書いているような文章もそうなのだろう。きっと以前にどこかで聞いたか読んだかした台詞の寄せ集めなのだ。自分で書いている気にはなっているが、所詮こういうものも「脳のお気に入りフレーズ集」なのだと思う。いまのところ文章がぎくしゃくしているから、オリジナルの文章になっている自信があるが、筆が走っているときは要注意だと心得ている。(筆者の論理によれば)「脳が勝手にしゃべる」ような時ほど、既成の文章と構造が似る可能性が高いからだ。
どんなモノにもどんなコトにも人が愉快になれる知の構造が隠れている。ハッとする言葉には脳の結線を最適化するヒントが隠れているのだ。そこに思い至ることができれば、世の中はかなりクリアに見えてくる。
「俳句の会」というのがある。たった17文字の言葉を相手に、いい大人が集まって、ああでもないこうでもないと言い合っている光景は、端から見れば無意味なことのように見えるのだが、本人たちは自分の脳にしっくりくる言葉(構造)を求めて楽しんでいるのだ(私はそんな光景をとても愉快に思う)。新聞の「詰め将棋」に熱中している人も、難しい方程式を解いて喜んでいる人も、みんなお互い様、脳へのアプローチの仕方が違うだけで、求めているものは皆同じ「脳の最適構造」なのだ。人が愉快になれるかどうかは、考え方、つまりどの事柄とどの事柄を脳の中で関係付けるかに関わっている。そして、おそらく「こことここを繋いであっちを切断すれば脳の中の信号の流れが快適になって気持ちがいい」というような最適回路があるのだろう。情報システムがもつ仕組みを最も的確に表現できたとき(脳の中の構造を探り当てた時)「わかった」という達成感が得られる。
人間がつくったWWW
インターネットはまさに、人の脳のアイデアを外在化した形式をもつ。関連のある情報同士が勝手にリンクして、つながりを強化していく。ネットワーク網を脳に見立てると、そこではあちこちで自己組織化がおこっているのだ。人の脳を最もよく反映したシステムが、人の世にあっという間に浸透したのは当然の結果と言えよう。
「わかった」というときのよろこび。ここに脳がよろこぶヒントがある。「わかる」というのは文字通り「分かる」、もつれていた結線がきれいに分離して、回路が秩序立ってくることを意味している。もちろんこの回路は絶対的なものではないため「わかった気になっている」だけなのだが(だから揉め事は絶えない)、要は、脳内で新たに強く新鮮なネットワークができる瞬間が気持ち良いのである。「なるほど、わかった」が繰り返して思考のテンションが上がってくると、ますます気持ちよくなる。ドーパミンのせいだろうか。
自分を相対化する
世界をどう捉えるかというような問題には、何通りもの答えがある。もともと「正しさ」などというものは相対的なもので、考えている当人にとって、どの視点に立てば世界が最もクリアに見えるかが重要なのである。「地球を中心に太陽を回すこともできるし、太陽を中心に地球を回すこともできる。どちらの記述がより簡単で応用がききやすいかが重要だ」ということと同じである。
すべては「脳」が考えていることである。人間が考えるあらゆる理論は、視点が異なるだけで、正しいとか正しくないとかいう問題ではない。人は、自分の「脳の仕組み」を上手く反映する思考を「正しい」と考えているにすぎない(この記述も例外ではない)。
人間は脳の中の情報を次の世代へ残そうと必死になっている。特に「神」の概念などはその典型で、世界中の人々が自分の信仰の対象を周囲の人々へ、そして次の世代へ伝えようとしている。
リチャード・ドーキンス(1976)は、このような人特有の情報体の伝達欲を説明するのに、「Gene(遺伝子)」ならぬ「Meme(文化遺伝子)」という言葉を考えだした。生物の大半は、遺伝子という物質によってのみ次の世代への情報伝達を行っているが、人間はそれ以上に、脳の中に形成された情報の痕跡を時間的にも空間的にも伝え・拡大しようとする。サルにも「イモ洗い」程度の文化の伝播はあるようだが、言語・音楽・映像のような高度に編集可能な情報体を用いた伝達は人に特有のものである。
サルのイモ洗い
宮崎県の幸島に生息するニホンザルに見られる現象。「イモを海水に浸けて食べるとおいしい」ということがサルの集団の間に伝播・継承されている。
しかし、考えてみれば、遺伝子も(ウイルスも)物質とは言え、四種類(A・T・G・C)の塩基の組み合わせが問題なのだから、コンピュータの中の二種類(0・1)の情報並びとなんら変わりはない。要するに、生物は「情報」を伝えたい(複製したい)のである。
遺伝子の情報量
人間一人のDNAの情報量を計算してみよう。人のDNAは30億対の塩基の組み合わせから成るので、4の30億乗、つまり2の60億乗の組み合わせが可能。情報量にすると、6Gbit=750MBで、ほぼCD-R一枚に記録できる。人間が音楽情報の編集単位としてデザインした記録メディアに、人間のデータがすっぽり入る。何か意味でもあるのだろうか。
「情報」というものは、基本的に「複製されること」・「伝わること」を前提としている。孤立した情報は情報として意味をなさないのだ。情報は複製されたがっている。
世の中がオープンソース(フリーソフトウエア)へ移行しようとしているのも、積極的に「複製と突然変異」を認めるという発想が人間(生物)の直感になじみ易いからだろうし、逆にソフトウエアというものに関して著作権(複製権)の問題が多発するのも、そもそも「複製するな」というのが「情報の実態にそぐわない」発想であるからだろう。
著作権
ガードをガチガチにしたシステムは流行らずに失敗する場合が多く、複製を(作為的に?)許容したものの方が結果的には成功する。著作権法は、著作者の権利を守るためにあるのだが、現状をふまえると、抜本的なパラダイム転換が必要とも言える。PCでやっていることを思い出そう。やっていることの大半は「複製」なのである。ファイルのコピーができないPCなど何の役にも立たないのだ。人間にとって「情報の複製」とは何か、そこから考える必要がある。
音楽にせよ映像にせよ、創作活動に携わる人の大半は、まず聴いてもらうこと視てもらうこと、すなわち「伝わること」を願いつつ活動しているはずである。作者は、それを通して自分の脳内情報の痕跡をあちこちに残したいのである。自分を支えているのは自分の記憶である。人が、その記憶の痕跡を残したいと願うのは、ごく自然なことだと言えよう。自分がこの世に生きた証として、人は様々な「情報」を伝え遺そうとしているのである。
歌う事・描く事・映す事、上手か下手かはそれほど大きな問題ではない。大事なのは、そこに「伝えたいという気持ち」があるか、「遺したい情報」があるかということである。もちろん、伝えるにはそれなりにテクニックも要るのだが、それはまた、別の話。
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