Civilization & Culture
異文化という言葉は一般的でが、異文明という言葉はあまり使いません。つまり、文化はその多様性を前提としていますが、文明はグローバルな拡大一元化(標準化)が前提となっている・・ということです。
文明社会というものを、定常開放系とみなして、そのホメオスタシス(恒常性)を考えた場合、それが基本的に外部に負荷を与えつつ内部を拡大することでしか生きながらえることができない存在であることは、歴史を見れば明らかです。
つまり、文明社会は、自然界における定常開放系(生命体、地球)とは異なり、サスティナブルな存在としての体をなしていないということです。
文化も文明も、ヒト特有の無駄に発達した前頭葉が作り出す「過剰」の産物と言えます。生物として自然に適応する分には必要のない過剰性。これが他の動物にはない「共同幻想」、「生息域の拡大」、「環境収容力の拡大」、「個体数の爆発的増加」という現象を生み出したのです。
自然(ピュシス)を支配・制御するために、資源・エネルギーを使って環境を変えていく「文明の過剰」は地球を破滅に導いてしまいます。人類が農耕革命、そして産業革命によって拡大し続けた時代の常識に No! を突きつけるとともに、ピュシスに寄り添う「文化の過剰」をもって喜びとする(足るを知る)生き方を模索する必要があるのではないでしょうか。
ハードにもソフトにも、文化の成熟と文明の成長に貢献する両面性があります。
文明の成立には、文字による情報の蓄積と継承が大きく寄与しています。
文明と文化に関わる文字の2面性ついては以下のページへ転記
神話や経典が伝える内容には、世界はどんどん悪くなり、やがて「終末」や「末法」を迎える・・というものが多くあります。それぞれを詳細にみれば、単に人類が破滅するという意味ではないようですが、いずれにしても、当時の人々にとっては、今私たちが感じているような「時間とともに社会は進歩する」とか「暮らしのレベルが成長する」という感覚はなかったのではないでしょうか。
農耕がはじまると、気候の周期性が意識され、時間感覚は「循環」に変わります。生活技術の進化も目に見えないほどゆっくりだったので、成長というより、同じことの繰り返し・・というイメージだったのかもしれません。
産業革命以後、テクノロジーの進化は体感できるほど速くなりました。私たちは現在「どんな問題も、テクノロジーの発達によっていつかは解決される」、「生活はどんどんよくなるはずだ」という世界観(誤解)の中で生きています。
しかし残念ながら、文明社会はますます複雑怪奇で制御不能な状況に陥りつつあるというのが現実です。将来の技術が問題を解決してくれるだろう・・と、後先考えずに見切り発車するような技術の導入が、結果的に処理できないゴミを地球上に溜めつつある事実を見れば、それは明らかでしょう。
それは「エントロピーの法則」つまり、
エネルギーや物質は、使用可能なものから使用不可能なものへ、 秩序のある状態から、無秩序な状態へと変化する(覆水盆に返らず)
という物理の絶対真理(その他の法則は暫定真理)によって説明されます。
物理現象には一般に対称性(+ と- のバランス)が存在しますが、時間は一方向にしか流れません(不可逆過程)。加速する成長がもたらすのは、処理できないゴミ、無秩序、混乱です。
Entropy のページから引用
何かを作り出す際、その生産に直接関わる材料費や人件費以外に、それがもたらす副作用の処理に必要となる費用を外部費用といいます。一般に、テクノロジーの発展に伴って生じる外部費用は、テクノロジーによって生み出される利益よりも小さいと想定されているので、例えばそれが公害をもたらしたとしても、その処理にかかる費用は吸収できる・・と考えられています。しかし現実はそうではありません。
テクノロジー(+資源・エネルギー)によって新たな製品や仕組みが作り出されるときには、それによって得られる秩序(低・エントロピー)よりも大きな無秩序(高・エントロピー)がもたらされます。
新たなメディアが登場すれば、それがもたらす社会的な問題を解決するために、新たな法律とその番人が必要になる・・その負担は、メディアの収益が社会にもたらす利益よりも大きいのです。
特殊なテクノロジーによって、副次的に惹き起こされた無秩序な状態は 別のテクノロジーを応用すれば一時的に解決がつくことはつく。 ところが、解決を得たのはいいとしても、それに必ず伴うのは 以前にもまして大きな無秩序の出現である。 再び、ジャック・エリュールの言葉を借りよう。 「技術が連続して生まれるのは、それ以前の技術が、 必然的に次の技術を生まざるを得ないように仕向けているからだ」 ・・これこそ、(熱力学)の第2法則であり、それ以外の何ものでもない。
エントロピーの法則, ジェレミー・リフキン
薪(バイオマス)では足りなくなり、石炭を活用する。それでも足りなくて石油を掘り出す。そして原子力。古い燃料よりも新しい燃料の方が、エネルギーの取り出しにかかる手間とエネルギーは大きく、それに伴う外部費用も大きくなります。人類が農耕をはじめて、その環境収容力を拡大しはじめたことが間違いのはじまりでした。テクノロジーは未来を開いている・・と思われていますが、テクノロジーは、自らが生み出す無秩序(高エントロピー)を処理するために、さらに新しいテクノロジーを生み出さざるを得ないのです。つまり文明は「成長」という名の負のスパイラルの中にあります。
狩猟採集社会にも争いはありましたが、それは食料資源の獲得にともなうもので、必要以上に近づき過ぎた場合や、気候変動で食料不足になった場合、すなわり争う本人自身に争いの動機がある場合に限られていたと考えられます。
一方で、農耕社会における争いは、支配者の「拡大欲望」にもとづく意思によって統率された集団同士の争いであり、兵士自身に相手を殺す意思はありません。これは企業間競争でも同じです。