Information Disaster|Information hazard(Infohazard)
情報災害(Information Disaster|Infohazard)という言葉は、日本ではまだ聞き馴染みのない言葉で、普通に検索すると「災害情報」として地震、台風、河川の氾濫といった内容の記事がヒットしますが、ここでお話しする情報災害とは「情報環境において、情報関連テクノロジーや、それに関わる人間という生物が引き起こす様々な災害・潜在的危険性」を意味しています。
自然環境において様々な災害が発生するのと同様、人類がその文明において人工的に作り出した「情報環境」(あるいはメディア環境)においても、様々な災害が発生していて、今日、その量は加速度的に増え続けています。
マクルーハン流に言えば、情報メディアは我々の身体の拡張で、具体的には、情報の入力に関わる感覚器官、処理・記憶に関わる脳、そして音声や図像の出力に関わる声帯や手指を機械的・電子的に拡張したものにあたります。
情報環境の存在は、我々が言語を使い始めた時代にまで遡ります。目に見えないモノを意識に現前させるだけでなく、それを用いた思考、虚構の構築が可能になったことで、我々は生の自然環境との関係を絶って、言語というフィルターを介した第2の自然(疑似現実・共同幻想)に生きる存在となったのです。
その後「文字」というメディアの発明によって、情報を遠隔に転送すること、また時間を超えて外部に記憶させることがすることが可能になりました。さらに、画像や音声を化学的・機械的・電気的な方法で扱うアナログメディアの時代を経て、現在では、視覚・聴覚に関わるすべての情報がデジタルメディアによって生成・処理・記録・出力・転送されるようになりました。
言葉の誕生・文明の誕生にはじまる「情報環境」は、デジタルテクノロジーを基盤とする第2の自然環境(デジタルネイチャー)として立ち現れているのです。
しかし「情報災害」という言葉が未だ聞きなれない言葉であるという事実は、そこに制御不能な災害やハザード(潜在的危険性)が存在していることを我々自身が包括的に認識できていないことを意味します。
インターネット、AI・・情報環境は身体の拡張を超えて、つまり人間による制御の限界を超えて、その存在感を増しています。現状の包括的な把握と知見の共有、そして新たな環境とどのように共生すべきかを考える必要があります。
21世紀、すべての人が情報発信できるという大きな情報環境の変化が起こりました。著作権侵害はもちろん、迷惑動画の投稿、個人情報の流出、誹謗中傷、画像の悪用、盗撮など様々な社会問題を引き起こしています。
イタズラ感覚でSNSに投稿した動画が企業に大きな損失を与え、高額の賠償請求を受けるなどの問題は、学校の情報リテラシー教育だけで防げるものではありません。誰もが銃を持てる社会と同じ状況になっているのです。
物理的な兵器だけでなく、情報通信機器も、様々な破壊行為の道具になるわけで*1、現代社会はそれを子供にも持たせている・・というのが実態です。自動車の運転やドローンの操縦には短期間で免許制度が整備されたのに、パソコン・スマホの取り扱いについて免許制度が整備されなかったのは、その革新的な技術がもたらす影響の大きさに、私たちの問題意識が追いつかなかった証拠です。
ちなみに、個人情報暴露などの問題は、例えば「芸能人と報道人」の間には昔からあったもので、芸能人には「自分がメディアに晒されることについての覚悟と対応力」があり、報道人には「報道が社会に与える影響についての知識と経験」がありました。しかし、誰もが「放送・出版局」になれる現代社会において、すべての人に「芸能人並みのメンタルと対応力」や「報道人並みの知識と覚悟」が備わっているわけではありません。
誰もが簡単に情報発信できるようになったこと、この劇的な情報環境の変化は多くの人にとってポジティブに歓迎された一方で、多くの人にネガティブな災害を引き起こしているというのが現状ではないでしょうか。電話の発明が「誘拐」という犯罪を生んだように、新たなテクノロジーは常に新たな問題を生みます。自然環境の変化はゆっくりですが、インターネットはわずか20年で情報環境を劇的に変えました。これは、とんでもなく大きな社会構造の変化なのです。
情報環境の変化に適応するには、変化の本質を的確に捉え、その知見を共有するための情報デザインと、それに対処するためのリテラシー教育が必要です。
誰もが無意識のうちに悪に加担している、無自覚な行為が重大な事故に結果することがある・・。人間は、この事実を強く自覚する必要があります。
悪はシステムを無批判に受け入れる精神(thoughtlessness)がもたらす
ハンナ・アーレント 悪の凡庸さ|イェルサレムのアイヒマン
急成長するデジタル情報環境においては、デバイスとネットワークの活用に長けた人と、そうでない人(情報弱者)が共存していて、その格差は深刻な状況となりつつあります。
自然環境に対する人間の適応能力は、地域や年齢等によって大きく異なることはありませんが、情報環境に対しては、地域格差・世代間格差のみならず、教育格差や経済格差による適応力の違いが大きくなります。
都市部で働く人と、山奥で自給自足の暮らしをしている人とでは、情報災害に遭遇する確率は大きく異なりますが、マイナンバーで個人がデジタル管理される現在では、すべての人が一定の情報通信技術を身につける必要が生じます。
防災とは、災害を未然に防ぐ、被害をゼロにすることを目的としています。しかし、自然災害と同じく、情報災害にも「想定外」があります。というより、災害は想定外のところからやってきます。情報災害に耐えうるシステムの設計・構築、情報災害対策としての法の整備が、防災の主たるテーマとなりますが、災害を0にすることは事実上不可能であるということも踏まえる必要があります。
(書きかけです)
(書きかけです)
災害発生を防ぐ「防災デザイン」に対して、災害が発生したときに、いかに被害を小さくするかを考えるのが「減災デザイン」です。
最も重要なことは、社会の構成員全員がそのリスクを認識することです。潜在的な災害の危険性に関する認知度を向上させるべく、様々な教育的取り組みと、ハザードの見える化が急務と言えるでしょう。
(書きかけです)
情報災害は物理災害ではなく「共同幻想」において存在するものなので、考え方を変えるだけで、災害が災害ではなくなる・・ということもあり得ます。
(書きかけです)
(書きかけです)
2011 年 哲学者ニック・ボストロムは、情報災害を以下のように定義しました。
情報災害とは、危害を引き起こす可能性がある、 または一部のエージェントが危害を引き起こす可能性がある (真の) 情報の流布から生じるリスク An information hazard, or infohazard, is "a risk that arises from the dissemination of (true) information that may cause harm or enable some agent to cause harm". Nick Bostrom in 2011,
ボストロムによれば、それは以下のように分類されます。
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Information_hazard