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Language の変更点


#author("2024-02-01T14:43:17+09:00;2023-12-23T15:28:19+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko")
#author("2024-10-02T12:43:58+09:00;2024-02-01T14:43:17+09:00","default:inoue.ko","inoue.ko")
*言語
コトバは存在を喚起する
~

言語は人類に特有の現象です。進化の過程で脳内に生まれた「音声を組み合わせて再帰的なフレーズを構築する」という仕組みは、生成・伝達・記録に関わる情報量を無限に拡大し、「連続する刺激を離散的に切り分けてその関係性において世界を把握する」という仕組みは、情報の認知効率を大幅に向上させました。

もはや我々は、物理的な現実に直接アクセスすることはできず、言語というフィルター越しの疑似現実(虚構の世界)に生きる存在になったのです。私たちに見える世界の大半は(母語がつくりだす)虚構に洗脳された状態にあります。
&small(絵画・写真・音楽・・、そして人間以外の動物とのコミュニケーションはその例外です。);

言語をもった人類の特徴の一つは「嘘をつく」ということです(フェイクは今に始まった話ではありません)。言語は、科学技術を発展させ物質的に豊かな社会をつくることに貢献した一方で、様々な精神的病の契機にもなっているという点で、言語に関する知見を深めることは非常に重要なことと言えるでしょう。
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***CONTENTS
#contents2_1

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**言葉とは何か
まずはじめに、多くの人が言葉に関して当然だと思い込んでいることについて、''そうではない''ということを「構造主義言語学」の観点からお話します。
 
 私たちが言葉に対して持っているいくつかの常識のなかには、
 実はとんでもない間違いがある・・その代表的なものが
 『言葉とは事物の名称のリストである』という考え方である。
丸山圭三郎|[[言葉とは何か>http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%B8%E5%B1%B1-%E5%9C%AD%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4480091459]]
 
世界には様々な事物が「目に見えるとおりに」存在していて、人間がそのひとつひとつに名前を与えていった・・。多くの人はこの「素朴実在論((素朴実在論は、外界の事物が、言葉や観念に依存することなく、われわれが知覚するとおりに存在すると考える立場です。自然科学の前提でもあります。))」で世界を認識していますが、言語学の知見をふまえると、その認識は逆転します。つまり、はじめに事物があってそれらに名前がつけられたのではなく、言葉の存在(差異)が環境や事物を区分けして、世界を立ち上がらせたのです。私たちが見ている世界は、言葉によって再構成された擬似的な現実([[共同幻想]])です。

例えば「虹は七色」という知識について。虹は連続スペクトルですから、物理的には色の境界は存在せず、色数は無限に存在します。しかし、赤橙黄緑青藍紫という7つの言葉を使う我々は虹を7色に分け、英米では6色、ドイツでは5色に分ける。つまり色についてどんな言葉を持つかで見える世界が変わるのです((これは数体系についても同様です。数字は連続的な量を離散的な記号で汲み取る言葉で、私たちが慣れ親しんでいる 10個の記号を使う10進数では、3分の1という量は 0.3333・・SUB{(10)};となって有限桁で表記することができませんが、0,1,2 の3つの記号を使う 3進数では、3分の1という量は 0.1SUB{(3)}; と表現することができます。世界を汲み取る数体系の違いによって、その量を言語化できるか否かが変わるのです。))。

また例えば、私たちの顔のまんなかにある「鼻」とはどのような部分でしょうか。こう問われてはじめて、どこに境界があるのか、実はよくわかっていないということに気づきます。これも言語圏によって異なるのです。"nose"という単語は我々日本人がいう「鼻」とは違って、おでこのあたりまでを含みます。つまり"nose"の訳は「鼻」ではありません。完全な翻訳などはじめからできないのです((昨今、多くの大人が口をそろえて「これからは英語だ」と言っていますが、異文化間コミュニケーションというのは、文化的な背景の理解なしに置換ルールだけ学んでも意味がない。単に「nose は 鼻」といった置換だけなら人工知能にやらせればいい(すでにスマホのアプリで簡単にじ実現します)。直接的なコミュニケーションを楽しみたいという人にとっては語学学習はとても大事ですし、それをおおいに楽しむべきだと思いますが、興味のない人にまで強制するような話ではないと私は思います。多分こういう意見は少数派かもしれませんが・・))。英語圏の人が描く漫画の顔が、日本人の描くものと異なるのは、顔を部品に分解する際の境界線の位置が違う・・つまり、もともと顔の見え方が違うからです。

言語は単純に置き換え翻訳できるものではありません。それはそれぞれの民族の世界認識のありかたを規定するものであり、また「文化」そのものであるといえます。どんなに暮らしが欧米化しても、「日本語」を使う以上、私たち日本人にとっての世界は、欧米人に見える世界とは異なるのです。
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***身分け構造|言分け構造
人間という動物だけが「身分け / 言分け」の二重分節の中に生きています。
&small(丸山圭三郎|文化のフェティシズム p.71〜);

-''身分け構造''|種のゲシュタルト
ユクスキュル( j.von Uexküll) の<[[環境世界>Google:ユクスキュル 環境世界]]>の概念にほぼ対応する概念。私たち人間も動物の一種であるかぎり、その身体・カ感覚器官をもって外界の環境と関わっています。
>(身分け構造は)動物一般がもつ生の機能による種独自の外界のカテゴリー化であり(身体と心の分化以前の)身の出現とともに外界が地と図の意味分化を呈する環境世界である。

-''言分け構造''|言葉によるゲシュタルト
人間だけが「過剰なゲシュタルト」をもっている。それは「シンボル化能力とその活動」という広い意味での「言葉(言語・音楽・絵画・・)」によるゲシュタルトであり、その過剰の誕生がすなわち「人間」の誕生だといえます。そして、それはおそらく、3度目?の「出アフリカ(Out of Africa)」がおこった6万年前ぐらい・・・
>私たちは言語・所作・音楽・絵画・彫刻といったシンボル活動によって<過去>と<未来>、<背後のあそこ><前方のあそこ>を差異化・差延化する、つまり「今、ここ」という時間・空間を超えた延長を作り出し、<非在の現前>を可能にする。・・生物体としての人間には存在しなかった<意味=現象>を文字通りの身の延長である人工道具によって拡大生産する・・(そうした過剰としてあるのが「言分け構造」である。)
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***意味は辞項間の差異から析出される
&small(丸山圭三郎, 生命と過剰, p.225);
> 「実在とその表象」なる図式が成立するのは、すでにコトバによる分節が行われたあとに歴史的化石となった<特定共時的 idiosyncronique>文化現実においてのみなのであって、<汎時的 panchronique>視点から見た文化とは、それ自体が本能図式に存在しなかった過剰としてのコトバによって生み出されたもうひとつの過剰でしかない<シーニュの世界>(=共同幻想)である、ということだ。ソシュールとラカンに共通するものは、自存的・実体的な<意味>の否定であり、<意味>とはネガティブな辞項間の差異から析出されることにほかならない。

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***関連ページ
-[[構造主義>Structuralism]]
//-[[言語>Language]]
-[[唯幻論]]
-[[共同幻想]]
-[[存在と科学]]
-[[中心と周縁]]
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**言語学の領域

***20世紀言語学の潮流
19世紀に盛んに研究された比較言語学に対し、20世紀には大きく3つの潮流が生まれました。以下、どれが正しいとかいう話ではなく、それぞれ異なる言語観として捉えるのが面白いのではないかと思います。
-構造主義言語学 (structural linguistics)
-生成文法 (generative_grammar)
-認知言語学 (cognitive_linguistics) 
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***統語論と意味論
-Syntax(統語論:統辞論, 構文論ともいう)
語・句・文・テクストといった記号列の「構成」について論じる
いわゆる「文法(音韻論、形態論などを含む)」 の一部

-Semantics(意味論)
記号列が表す意味について論じる
--Reference(指示的意味)
記号が対象や状況に対して持つ関係
--Sense(内包的意味)
記号がほかの記号(特に概念と言われる心的記号)に対して持つ関係
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***参考LINK
-[[Wikiprdia:言語]]
-[[Wikipedia:言語の起源]]
-[[Wikiprdia:言語学]]
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**構造主義言語学(ヨーロッパ)
***Ferdinand de Saussure
F.ソシュール(1857 - 1913)は、「近代言語学の父」ともいわれるスイスの言語学者で、人間のもつ普遍的な言語能力(シンボル活動、記号化能力)を「ランガージュ (言語活動)」 と名づけました。

ランガージュは、社会的側面であるラング (言語) と個人的側面であるパロール (言行為) とに分けられます。
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***ラングとパロール
ラングは空間的な構造体系、パロールは時間的な出来事。例えば、ラングは「日本語」のような言語体系、パロールとはその日本語を使った具体的な発話です。ラングは構造的な制度であってパロールの前提となるものですが、通時的にパロールによってラングが変革される、つまり構造は常に更新されつつあると考える点が重要です。

-ラング(langue):語彙や文法など、社会的に共有される「[[共時的>Google:共時 通時]]な差異の体系」(構造)
-パロール(parole):ラングを個人的に運用した「[[通時的>Google:共時 通時]]な発話の実態」(出来事)

[[一般言語学講義 1916>Google:一般言語学講義 ソシュール]] F.ソシュール
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***シニフィアンとシニフィエ
ソシュールによれば、言語とは、観念を表現する記号のシステムであり、身振り、文字、さまざまな象徴、道路標識や軍隊の信号など、意味を生み出す記号のシステムです。そして、それぞれの記号は他のすべての記号と「差異」と「対比の関係」によって結ばれながら「記号のシステム」を形成するといい、シニフィアンとシニフィエという2つの鍵概念を提唱しました。
-[[GoogleImage:signifiant signifie]]

-シニフィアン(signifiant)
能記。記号表現。意味するもの、表現するもの。
例:「鳩」という文字や、「ハト」という音声
-シニフィエ(signifier)
所記。記号内容。意味されるもの、表現されるもの。
例:鳩のイメージや、鳩という概念・その意味内容
-シニフィカシオン(signification)
意味作用。シニフィアンとシニフィエを結びつける過程で形成される。
-シニフィアンの連鎖
 ラカンのいう「シニフィアンの連鎖」とは、ソシュールの考えた
 「シニフィアンに媒介されるシーニュの連鎖」は下意識において
 はるかに多いということの別の表現なのである。
 下意識において、知的類推よりも音的類推が優勢であることは、
 逆に表層意識においては「シニフィエに媒介されるシーニュの連鎖」が
 優勢であること・・を示してくれる。・・丸山圭三郎, 生命と過剰, p.222
いわゆる音楽における「歌詞」は、表層の意識における「文法(Syntax)」や「意味(Semantics)」よりも、下意識における「音の連鎖」に重要な役割があると考えられます。ラップミュージックにおける「押韻(ライミング)」というのも、まさに音の連鎖による秩序構成を意味します。ヒトの特徴であるコトバの生成(Genesis) には、「音」が重要な役割を担っています。
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***「連辞」と「連合」
-連辞:個々も語の意味と機能を決定する線的な関係(時系列)
-連合:時空間から解放された意識の中でおこる「連想」、並列的関係
&small(イエムスレウ:連辞 vs 範列 、R.バルト:連辞 vs 体系);
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***デノテーションとコノテーション(R.バルト)
これはロラン・バルトによる概念区分で、簡単にいうと、デノテーションとは字義どおりの意味の伝達。コノテーションは、潜在的な、あるいは字義どおりの意味を超えたところにある意味の伝達のことです。
-デノテーション(denotation)
外示。言語記号の顕在的で明示的な意味
「ハト」→ 鳩
-コノテーション(conotation)
共示。言語記号の潜在的な意味
「鳩」→ 平和

[[神話作用>Google:神話作用 バルト]] R.バルト
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***二重分節 マルティネ
人間が使う自然言語は、知的な意味を担う単語としてのモネーム(記号素)が、それ自身では意味をもたないフォネーム(音素)によって二重に構成されています。前者を第一次分節、後者を第二次分節といいます。 

私たちが使っている言葉は「[[二重分節>Google:二重分節]]」の仕組みをもっていて、有限の記号要素の組み合わせで無限の語彙を作り出しています。「イ・ネ」や「イ・ヌ」というシニフィアンは、それぞれ「稲」、「犬」というシニフィエに結びつけられていますが、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは本来「[[恣意的>Google:恣意的]]」なものであるという認識がとても重要です。
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**構造主義言語学(アメリカ)

***サピア=ウォーフの仮説
スイス・フランスにおけるソシュールの言語学同様、アメリカの構造言語学でも、言語的相対論(Theory of linguistic relativity)が登場します(1920年代 サピア > 1930年代 ウォーフ)。言語はその話者の世界観の形成に関与する。違う言語を用いているならば世界観も違う・・というもので、主張の強さによって、以下の2つがあると言われます。

-強い仮説(言語決定論):人間の思考は言語に規定される
-弱い仮説(言語相対論):概念のカテゴライズは言語・文化によって異なる 

人間の基本的な感覚機能にもとづく空間認知などは言語によらず普遍性があるわけで、強い仮説(言語決定論)は、現代言語科学の主流派である A.N.チョムスキー(生成文法)や認知心理学の S.A.ピンカー(言語の自然選択説)などからの批判もあるようですが、複合的な身体感覚をともなう空間理解や、抽象度の高い概念のカテゴライズが言語に誘導されることは、ソシュールの言語観とも違和感がなく、文化の違いを理解する上では有効な仮説であると思います。


''付記|映画「Arrival(メッセージ)」''
//カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」という話とは異なりますが、
時間というものが「言語によって存在喚起されたもの」だとすると・・。
これをテーマにした面白い映画があります。

&answer2(あらすじ(ネタバレ注意), 「人間の思考が言語に規定される」というサピア=ウォーフの仮説に従えば、時制を持たない言語を持てば、認識される世界から過去・現在・未来の差異は消失する(あくまで映画の上での解釈)。ヘプタポッドの文字言語は「時制が存在しない」非線形の表意文字であり、扱うには高度な計算能力と非直線的な時間観念が必要となる。ルイーズはヘプタポッドの言語を学ぶにつれて、ヘプタポッドのように時間を超越し、未来を認識することができるようになっていった。);


//***パースの記号論
//ソシュールの記号学(Semiology)がスイス・フランスの思想界( [[構造主義>Google:構造主義]])に大きな影響を与えた一方、アメリカではパースの記号論(Semiotics)が注目されていました。それは、自然、文化、社会の事象を包括的に説明する基礎理論で、宇宙のあらゆる事象を無数の記号の「記号過程(semiosis)」と考え、以下のような3つのキーワードを提唱しました。
//-類似性において結ばれた「図像」 icon
//-指示関係によって結ばれた「指標」  index
//-取り決めによって結びついた「象徽」 symbol
//~
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**生成文法
***Noam Chomsky
生成文法(Generative Grammar) は、アメリカの N・チョムスキーによる生物言語学の視点からの「統辞論(統語論)」です。チョムスキーらによれば、約8万年前(6万年前の出アフリカ以前)、生物としての進化の過程で、脳内に音と意味を結びつける離散的な計算システムとしての''普遍文法(Universal Grammar)''を獲得したことが、人間の言語能力のはじまりであるとされます。
 母語を獲得する能力は、誰にも生得的に備わっている
 人間の脳には「言葉の秩序そのもの」があらかじめ組み込まれていて、
 人間が言葉を生み出すことの根底には、すべての個別言語に共通の
 「普遍文法」(Universal Grammar)が存在する。
 全ての言語は根本的には「同じシステム」を持っている。
統辞構造論(Syntactic Structures), 1957

生成文法の立場では、言語を司る「器官」として「心 / 脳のモジュール」を想定するとともに、言語学は 心理学・生物学の下位領域に位置づけられます。 
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***UG(Universal Grammar)のキーワード

-P&P(principles-and-parameters approach|原理とパラメータ)
普遍文法が、全ての言語に共通した原理と、言語ごとに選択可能なパラメータから出来ていると仮定し、それによって言語の普遍性と多様性を捉えようとする生成文法の考え方。

-SMT(Strong Minimalist Thesis|極小主義の強いテーゼ)
人間言語は無駄な要素を一切含まない。言い換えれば、言語はそれが担うべき最小設計仕様(Minimal Design Specification)の最適解を成している。

-''Merge(併合)''
--SMT(極小主義)の観点から、人間言語の統辞法に求められる再帰的階層構造をつくるのに必要な脳内演算はひとつ。それは「併合(Merge)」であるとされます。それは「記号を際限なく組み合わせ」「頭の中で可能世界をつくる」というユニークな性質をもつものといえます。
--すべての言語に共通する原理は「再帰的木構造」であり、文というものは、主部と述部、その再帰的な構造で作られます。
 { 私は・{ { {赤い・表紙}・(の)本}・(を)読んでいる} }
--文の解釈には、語の順序的な距離ではなく、文を構成する階層構造上の距離が優先されます。
--人間のワーキングメモリーが大きければ、メモリースタックによって、階層の深い複文を構成することができます。
--参考:__[[GoogleImage: phrase structure tree]]__
--参考:__[[GoogleImage: Fractal Tree]]__
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***個別言語の文法は無視しても意味は伝わる
SOV の構造を採用している日本語の文を、英語的な SVO の構造に置き換えてみましょう。多分、誰が聞いても意味は通じると思います。
|プレーズ|聴覚的印象|意味の伝達|
|私は、彼が学校に行くのを見た。|◯|◯|
|私は、彼が学校に行ったのを見た。|△|◯|
|私、見た、彼、学校、行った。|×|◯|
|私、見た、彼、行った、学校。|×|◯|

外国から移住する場合に「はじめに日本語学校で学ぶ」ということが一般化していなかった時代、彼らが使っていたカタコトの日本語は「単語は日本語・構造はSVO」というものが多かったように記憶しています・・

ちなみに、英単語を日本語の語順で並べた "I he school go saw."の意味が、英語圏の人に伝わるかについて、ChatGPTに聞いたところ、「これは非常に不自然な文であるため、通常のコミュニケーションでは使用されません。英語を話す人がこのような文を聞いた場合、言語的な誤りであることが明らかであるため、意味を理解するのは難しいでしょう。」という回答でした。

そこで、同じく ChatGPTに「I saw he school goes. と表現した場合はどうですか」と尋ねると、「この文も文法的に正しくありません。正しい英語の表現を使うと、「I saw that he goes to school.」となります。この文は、「彼が学校に行くのを見た」という意味になります」という回答。正しい表現にできる・・ということは、上位階層においてSVO となっている "I saw he school goes" の場合は意味は伝わるということかと・・・。

参考までに、上記の文の英語表現について、英語ネイティブの方(人間)に尋ねてみたところ、自然な表現は以下の順になるとの回答でした。
1) I saw him go to school ・・・最も自然な表現
2) I saw that he goes to school ・・・継続的な意味
3) I saw that he went to school  ・・・一回限りの出来事を示唆
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***言語と道具
人間が使う言葉は、弓矢(弓+矢)という原初の道具と同様の木構造で、道具の発明と言語的思考の芽生えが同時期であったことが推察されます。
#image(images/PhraseTree.png)

//--弓(弦(つる)+ 弓幹(ゆがら))
//--矢(筈(はず)+ 矢尻(やじり))
//--矢(筈(はず)+ 羽根(はね)+ 箆(のう)+ 矢尻(やじり))
//-ちなみに・・
//--弓 = 弦楽器(文化の誕生)
//--弓矢 = 武器(文明の誕生)

-参考:PhraseTree で使われる用語
--''NP''|Noun Phrase:名詞句(物・こと・人を表す語句)
--''VP''|Verb Phrase:動詞句(動作・状態を表す語句)
述部 VP にはメインの動詞句(MVP)が含まれる
--''AdjP''|Adjective Phrase:形容詞句(名詞を修飾する語句)
--''AdvP''|Adverb Phrase:副詞句(名詞以外を修飾する語句)
--''PP''|Prepositional Phrase:前置詞句(前置詞で始まる語句)
//意味・役割的には副詞句(AdvP)か形容詞句(AdjP)になる
--''CP''|Complementizer Phrase:不定詞句
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***再帰ツリーは2分岐(3分岐ではダメ)
人間が生成する文は「主語・述語」のような、明確な2分岐が前提で、3分岐では内容が正しく伝わらないようです。例えば、以下のフレーズ・・
 土曜と日曜の午後(いずれか、ご都合のよい時間でお願いします)。
この場合、土曜終日と日曜の午後なのか、土日のいずれも午後なのかの判断ができません。土曜・日曜・午後は3分岐ではなく、明確と2分岐にする必要があります。つまり、「土曜と、日曜の午後」あるいは「土曜と日曜 の午後」のように、明確な2分岐が必要です。一般に音声コミュニケーションの場合は、どこに「間」をとるかで、分岐が明示されることになります。
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***ツリーの弊害
人間の思考は、言語に依存してツリー構造になるため、人間が作る道具・構造物・計画された組織は、再帰ツリー状になりがちですが、自然界に見られるサスティナブルな生態系は「小さな定常解放系が自律分散的に協調する」ようなかたちで成り立っています。私たち人間の体細胞も、脳を頂点としたツリー状にコントロールされているわけではなく、あらゆる細胞同士がリゾーム(地下茎)のように様々な物質交換を行うことで、全体がうまくいっているのです。
人間の思考は、言語に依存してツリー構造になるため、人間が作る道具・構造物・計画された組織は、再帰ツリー状になりがちですが、自然界に見られるサスティナブルな生態系は「小さな定常開放系が自律分散的に協調する」ようなかたちで成り立っています。私たち人間の体細胞も、脳を頂点としたツリー状にコントロールされているわけではなく、あらゆる細胞同士がリゾーム(地下茎)のように様々な物質交換を行うことで、全体がうまくいっているのです。

人間がデザインするものは、その意味で「不自然」なものになっている(だから人間社会はうまくいかない)ということを自覚するとともに、言語的思考を相対化したデザインの方法を検討する必要があると感じます。

''関連記事'' > __[[ツリー構造とセミラティス構造>Semi-lattice]]__

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***付記|ワーキングメモリとメモリスタック
チョムスキーらは「言語というものは、コミュニケーションのツールとしてではなく、音を伴う思考のツールとして進化した(つまり他の生物の音声コミュニケーションとは一線を画する)」と考えます。実際、人間は、会話を中断することはできますが、思考を止める(無心になる)のは難しいものです。進化の過程で思考が自動的に発現するような演算回路が生まれたのだとすると、絵を描くことも歌うことも、ヒトに特有の再帰的なスタッキング回路を利用しているのではないか・・という「妄想」も生まれます。
 昨今、何かと「コミュニケーション能力」や「クリエイティブな能力」が落ちていると言われますが、低下しているのはそれらの根源にある「思考する力=言語能力」ではないかと・・。長い文章が理解できない、あるいは本が面白くない(読めない)というのは、再帰ツリーとしての文章の把握に関して、スタックオーバーフローが生じているのかもしれません。臨界期(9歳ごろ?)までの言語活用経験の減少(入力される感覚刺激の多様化)によって、スタック演算回路が脆弱化、あるいはワーキングメモリーのサイズが小さくなっていることが原因であるとも考えられます。

付記:ちなみに、コミュニケーション能力というのは、関係構成力なので、個人に帰する能力というより、集団の能力ではないかと思います。いわゆる話下手な人でも、その人の語り口を理解できる人が集団の中にいれば、集団全体としてのパフォーマンスが下がることはありません。

//思考が自動的に発現するような演算回路が進化の過程で生まれたのだという。絵を描くことも歌うこともヒトに特有のものであるとすれば、言語とは違うにしても、言語と同じ演算回路を利用している可能性が高い。
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**言語の類型
言語の研究には、同一祖語からの歴史的な分岐系統を探る比較言語学(言語系統論)と、共通する特徴からいくつかの類型に分類する言語類型論があって、古典的な形態論的類型論では、世界の言語が一般に以下の4種類に分類されます。
-膠着語(agglutinating language)
-孤立語(isolating language)
-屈折語(inflecting language)
-抱合語(incorporating language)
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***膠着語
膠着語(こうちゃくご)とは、助詞や接辞などの機能語が、名詞・動詞などの自立語に接続するかたちで、文が構成される言語のことです。

日本語は膠着語に属する言語で、例えば・・
    私   は 京都 に 行っ た
という文では、「私」「京都」(名詞)や「行く」(動詞)などの自立語に、「は」「に」「た」といった機能語(それ自体は意味を持たない)が連結するかたちで、文が構成されます。

日本語の他に、韓国語、モンゴル語、トルコ語など、ウラル・アルタイ系の言語が、この膠着語に分類されます。
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***孤立語
孤立語は、それぞれの単語が意味を担うとともに、文法的機能が語順によって示される言語です。

例えば、中国語では・・
 我 愛 你
で、「私はあなたを愛している」という意味になりますが、「我」「愛」「你」すべてがそれぞれ意味を持つ自立語で、膠着語のように助詞などによる接続はありません。

中国語・チベット語・タイ語などが、孤立語に分類されます。
英語は、次の屈折語とされることもありますが、その特徴は失われつつあって、孤立語に近いとされています。
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***屈折語
文の中での単語の変形が文法的機能を担う言語です。

例えば、フランス語では「aimer(好む)」という動詞が主語の違いによって変化します。
 Je l’aime (私は彼が好き)
 Tu l’aimes (あなたは彼が好き)
また、時制(過去形・現在形・未来形)も語形変化で表現します。
 Je l’aime (私は彼が好き)
 Je l’aimais (私は彼が好きだった)

フランス語・イタリア語などのラテン系言語、ギリシャ語、アラビア語、さらに英語などが、屈折語に分類されます。

ちなみに、日本語にも動詞の活用は存在するので、これらの分類は、完全にできるものではないと言えるでしょう。

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***抱合語
名詞・副詞・動詞など、文の要素を組み合わせて、ひとつの語を作ることができる言語で、アイヌやエスキモーの言語がこれにあたります。


&aname(yamatokotoba);
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**日本語について

***言語系統論・言語類型論上の分類
-系統的には日琉語族とされるが、その源流となる系統にはアルタイ語族、ドラヴィダ語族、オーストロネシア語族など諸説あって、いまだに系統関係が不明な「孤立した言語」ともされます。
-類型上は、膠着語で、SOV型((言語類型論による調査では、世界の言語の約45%がSOV型言語と言われます。))。
-「主語」というより「主題」が優勢で「主題+説明」というかたちの構文が多く存在します。
 

''母音調和について''
//アルタイ語族説の根拠1
母音調和とは「単語の語幹に付く接辞の母音が、語幹の母音と同一グループの母音から選択される」というものです。母音のグループとは、口をあける・すぼめる(広・狭)、舌を口の前・後(前舌・後舌)などの特徴によって区分されるもので、発音労力を軽減すべく、口蓋の変化を少なくする「発音上のくせ」と考えられています。

上代日本語(奈良時代以前)には母音調和があるとされ、例えば現代の日本語においても、固有語と考えられる身体部位を表す言葉には同母音の連続が顕著に見られます。例えば・・
 からだ(身体)、あたま(頭)、みみ(耳) 、はな(鼻)、ほほ(頬)、
 かた(肩)、はら(腹)、ひじ(肘)、もも(腿)、しり(尻)など・・
 

''ラ行と濁音について''
//アルタイ語族説の根拠2
奈良時代以前の上代日本語(文献の代表は『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』など)では、万葉仮名の分析から、現在の i, e, o の母音について2種類あったと考えられています。また、ラリルレロが語頭に立つ言葉はなく、濁音ではじまる言葉もなかったようで、今日用いられる、龍(りゅう)、礼(れい)、極楽(ごくらく)などは、いずれも漢語に由来します。
~

***日本語と日本人の思考
前段で紹介した言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)つまり「言語が我々の思考を決定する、あるいは我々の思考に影響する」という話は、これを強調しすぎると異文化間のを相互理解の可能性を否定してしまう点で賛否あるようですが、言葉が思考に与える影響を説明する上では有効な仮説であると思います。

-主語のない表現とそれが生み出す世界観
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
                        川端康成 著
 The train came out of the long tunnel into the snow country.
             エドワード・サイデンスティッカー 訳
これらの情景を絵にすると、日本語の場合、トンネルの向こうに雪の世界が見えている絵になるのに対し、英語の場合、汽車がトンネルから出てくるのを上空から眺めている絵になる・・という話があります。
 ベルサイユ宮殿と桂離宮の庭園の違いも同じ。神の視点で俯瞰的にデザインされた空間と、移動する視点からの眺めを意識してデザインされた空間。これらの違いは、ツリーの頂点から全体を統合するデザインと、小さな部分が自律分散的に協調するデザインとの違いではないかと思います。

-日本語は外来語を「名詞」として取り込むことが得意な性質を持つ
 名詞 + する > 動詞
 名詞 + い or な > 形容詞
 名詞 + に > 副詞
一般に文には名詞と動詞が必要で、名詞の修飾を形容詞が、動詞の修飾を副詞が行いますが、そう考えると、名詞として取り込んだ外来語だけでも文が作れてしまう。これが日本語というシステムの柔軟性です。外国の文化・技術を柔軟に取り込んでいく日本人の特質は、ここに理由があるのかもしれません。
&small(参考:加藤重広, 2019, 言語学講義, ちくま新書);

-日本人は「宗教」を持たない…とよく言われます。正月には神社、結婚式は教会、家には仏壇…。確固たる信仰を持たない国民が、秩序とモラルを維持できたのはなぜなのか?それは、世界の常識からみればとても不思議なことです。

-日本人のモラルを支えているのは何か?おそらくそれは、日本人の「美意識」、そしてその根底にある「日本語」ではないかと思います。

-主語(私は)を使わない語り口、「もったいない」のような翻訳できない概念。日本語は、その文法においても語彙においても、私達の「考え方」を規定しているように思えます。西洋音階(システム)が旋律やコード進行に一定の傾向をもたらすように、日本語は日本人の言葉のつなぎ方や思考パターンに一定の傾向を与えるのです。

-日本の秩序とモラルを支えているのが日本語だとすれば、言葉を大切にしないと、この国の秩序は破綻してしまいます。かつての美しい暮らしを取り戻すヒントは「日本語」の中にあるのではないでしょうか。
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***大和言葉
大和言葉とは、太古の昔から日本人が使い続けてきたと考えられる言葉です。日本語の文章の中の、漢語、外来語、また「〜する」という形の動詞''以外''のもの。つまり、大半の動詞、形容詞、助詞が大和言葉にあたります。例えば、訓読みする漢字とひらがなだけでできた文は、大和言葉の文です。
-万葉集、古今和歌集などに書かれた和歌
&size(12){万葉集は漢字で書かれていますが、読みは大半の部分が訓読みです。};
-枕の草子、徒然草、方丈記などの古典文学、芭蕉の俳句
 

''大和言葉ではないもの''
ちなみに、今日、論理的な思考に用いる言語表現の多くは、音読みする漢字熟語が中心となっていて、これは大和言葉ではありません。
-論文の文章 例えば、目的・方法・結果・考察・・すべて音読みです。
-大学、高校の名前
-明治以降に改名された多くの地名
 

''敬語に現れる大和言葉の性質''
丁寧語に「お」をつけるものと「ご」をつけるものがあります。
-一般に「お」がつくのは大和言葉です。> お手紙、お参り、お伝え・・
-一般に「ご」がつくのは音読みされる漢語です。>
-言葉が日本語として浸透すると「お」になる?
ご返信:最近の言葉 / お返事:十分に浸透した言葉
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***J-POP:歌詞の基本は大和言葉
好きな歌を口ずさんでもらえばわかると思いますが、歌詞の大半は大和言葉で書かれています。つまり、歌詞の中で漢字で表記される部分も「訓読み」になっていることが多い・・。

音読みの音(中国渡来の漢語)は、同じ音でも異なる意味のものが多数あります(かし:歌詞、菓子、可視、下肢、瑕疵)。音を聞いて、前後の文脈からこれだという「表意文字」を推測するというのは、音楽にとっては負担となります。

大和言葉の歌詞であれば、ひとつの発音が複数の意味を持つことはありませんから、音と同時に意味が伝わります。大和言葉=仮名=表音文字・・もともと日本人にとって言語とは、まず「音」なのです(だから「音読しなさい」といわれるのです)。

ちなみに、俳句も和歌も七五調。これは現代風に言えば8ビートです。
 |●●●●●・・・|・●●●●●●●|●●●●●・・・|
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***言霊(ことだま、言魂)
//言葉には、時空を超える力がある?
//時間や空間といった制約を超える何かがある?

この国(日本)には「言葉には霊的な力が宿る」という思想があります(残念ながら今日では、そのような感覚を持つ人は非常に少ないようです)。これを「言霊思想」といいますが、その世界観においては、声に出した言葉が現実の世界に影響を与えると考えられており、いい言葉を発すると良い事が起こり、逆にわるい言葉を発すると悪い事が起こるとされます。日本は言霊の力によって幸がもたらされる国なのです。
 敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ 柿本人麻呂

日本の言霊思想では、言葉は発せられた時点で目的が達成されるので、伝えるための論理構造は必要ない・・、つまり日本語は情報伝達の手段としては弱い・・といえるのかもしれません。歌の中にある「あなたの・・」といった表現も、あなたを前にして伝えているというよりは、「ひとりごと」として語っている。歌会は、意見交換会ではなく、みんなの「ひとりごと」を鑑賞する会です。

//日本の歌は「ひとりごと」。「あなた」と言う場合も、相手に対峙して伝えているわけではない。
//日本語(大和言葉)は伝えるための言葉ではない

''参考'':日本の映画・ドラマにおいて二人の関係(あなた)を描く時
・二人が敵対して言い合うとき、構図は対峙
・二人の関係が寄り添うとき、二人で同じ方向(海)を見ている

日本人はコミュニケーションが苦手だといわれます。現代国際社会においては、言葉はコミュニケーションの重要な手段のひとつであり、主語・述語を明確にして、情報をわかりやすく相手に伝えることが求められますが、日本語がこのような性質をもつ以上、コミュニケーションが苦手なのはあたりまえなのです。黙して語らない。少ない言葉数で、阿吽の呼吸で事を進める。そういうスタイルは国際社会では通用しませんが、でも、それが日本人の自然体なのではないでしょうか。
//必要とはわかっていても、国際化は疲れます。
 「俳句」を読むといつも感じることですが、素材を自由に切り・つなぎしてできる日本語表現のゆるさは、「映画」に近いのかもしれません。
 古池や 蛙飛びこむ 水の音
 一般に日本人は、欧米式の論理的な文章構成が苦手だといわれますが、それも「言葉がゆるくつながる」日本的思考に慣れているせいと言えるでしょう。西欧文化を模範とした明治以降の日本社会では、そのような言語表現のゆるさは悪しきものとされますが・・・個人的にはゆるいのが好きです。

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***作者の不在、解体する自我
うた(作品)は詠み人(作者)のものではなく、発したと同時に誰のものでもない万の霊となる。こうした言霊思想が背景にある日本では、西欧流の著作権の考え方はなじみません。本歌どり、浮世絵構図の定型パターン、二次創作。そういえば「作者の死」を語ったバルトは日本好きでした。
 自我のゆるさ、アンチパースペクティブ、視点の解体・・これらは、すべて共通しています。

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***和歌について
歌をコレクションする、またそれを教養のひとつとして大切にするという知的価値観は、日本人に特有のものです。

-和歌の前に平等
例えば、万葉集全20巻、約4,500首の作者は、天皇、大氏族の長から、兵士、農民、乞食者(ほかひひと)、遊女・・、また男女の差別もありません。まさに「国民的歌集」です。
「神の前に平等」は同じ宗教を信仰する人の集団内の平等、「法の下の平等」が当該法の適用される集団(国家)内の平等・・「和歌の前に平等」は大和言葉を話す日本人の平等を保障します。

-和歌の価値について
古今集などに掲載された和歌の選定には、今日の文学的、美的価値観とは異なる価値観が働いていたようです。それは「歌が結果としてどのような効果をもたらしたか」という観点です。その歌を詠んだことで、恋が成就したとか、天候が好転した、あるいはまた政治上の変化が起こったなど、言葉には世界を変える力があって、その「ご利益」が発現したとされる和歌が高く評価されたのです。まさに言霊思想の反映です(渡部昇一「日本語のこころ」)。
 古今和歌集の仮名序にあるとおり、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むる」のが歌の価値なのです。
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-和歌の音程について
歌会の場で和歌を読み上げ「歌う」ことを披講(ひこう)といって、和歌披講には甲調・乙調・上甲調の三種の節回しがあるいわれますが、歌とはいっても、楽譜におこせるような定まったメロディーがあるわけではないようです。
--[[YouTube:和歌 披講]]
--披講を務める人を披講諸役(四役)といいます(以下)。発声が一人で歌う初句につづけて、第二句以下を講頌四人が加わって斉唱します。
---披講の進行役を「読師(どくじ)」 一名
---和歌を披露する「講師(こうじ)」 一名
---節をつけての吟誦(歌い)を先導する「発声(はっせい)」 一名
---発声に合わせて斉唱する「講頌(こうしょう)」 通常四名
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//-掛けことばについて
//(書きかけです)


-和歌三神
--住吉明神(大阪府大阪市 住吉大社)
--玉津島明神(和歌山県和歌山市 玉津島神社)
--柿本人麻呂(兵庫県明石市 月照寺、島根県益田市 高津柿本神社)

-参考事例 [[百人一首]]
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***参考:仮名序|古今和歌集
 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、
 見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
 
 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、
 いづれか歌をよまざりける。
 
 力をも入れずして天地を動かし、
 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
 男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
 
 紀貫之
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***付記:日本の古代人は文字をつくらなかった?
日本人(倭人)は、漢字の伝来以前に固有の文字をつくることはなかったと考えられます(いわゆる「神代文字」は存在の確証が得られていません)。
-現存する最古の文献で用いられている「万葉仮名」は、日本語の音を表記するために漢字を借用したもの(借字)です。
--古事記(712年):呉音((呉音とは、「漢音」を持ち帰る以前、すでに日本に定着していた漢字音で、導入時期は定かではありません。))を用いる。漢字一字で一音節。
--日本書紀(720年):漢音を主とし、呉音も用いる。一字一音節
--万葉集(8世紀後半):呉音万葉仮名表記と、和訓表記が混在する

参考:[[万葉仮名の事例>百人一首#mannyogana]]
-かな文字(平仮名と片仮名)は、漢字を基にして日本で作られた音節文字
-農耕が始まって以後も、文字をつくる発想がなかった・・というのは稀有


&aname(naming);
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**名|名称 について
はじめに事物があってそれに名前がつくのではなく、言葉をつくること、すなわち「名付け」によって切り取られた事物が私たちの世界に立ち現れる。言語学におけるこの知見は、「名」がいかに重要なものであるかを教えてくれます。名付けること、名を知ること、名を変えること、複数の名をもつこと、いずれも私たちの社会生活において、非常に大きな意味を持ちます。
-名付けること = この世にその存在を誕生させること
UFOが世界各所で次々に目撃されるようになったのは、Flying Saucer(空飛ぶ円盤)という言葉が新聞に登場した1947年以後です。Flying Saucer という言葉が、私たちの心の中にその存在を喚起したのです。
-名付けること = 見えないものの存在を喚起すること
「風」や「愛」といった言葉は、歌詞によく用いられるます。目に見えないものの存在が言葉によって喚起される。それらは、読むたびに、聴くたびに、その文脈において意味を変容させる魅力があります。
「机」や「椅子」は、実体として目に見えている点で、「風」や「愛」とは位相が異なりますが、例えば「机」というものも所与の実体ではありません。「箱の上に板をおいたもの」は、そのままでは「箱と板」ですが、誰かが「机です」と名付けてはじめて「机」として認知されるようになる。。「机」という言葉が、その存在を喚起するのです。
-存在を喚起するには「名付ける」という行為を行えばよい
その発想でできたのが、芸術学部の ArtSpace+50 です。ただのコンクリートの壁面に [[Art Space No.14>http://art.kyusan-u.ac.jp/artspace/index.php?ArtSpace%2F14]] という名前をつける。それだけで、新しいギャラリーが誕生するのです。
//人間の赤ちゃんは、名前が与えられて、公的機関に登録されることで社会の構成員として存在することになります。この登録がなされないと事実上「存在していない」ことになり、あらゆる社会的権利を失います。
-名を知ること = 相手を制御できるようになること
名前を知らない相手に命令はできません。相手の名前がわかっていてはじめて「◯◯さん、◯◯取って!」と命令することができるのです。
-名を教えること = 相手に制御を委ねること
和歌の世界では、女性に名前を尋ねる=求婚 を意味します。そして名前を教えることは、結婚の快諾を意味します。
-名を変えること = 自分の存在を社会的に消滅・新規登録する
文明社会においては、原則名前を勝手に変えることはできませんが、アマゾンのジャングルで1万年変わらない暮らしをしているヤノマミの村では、「今日からオレは◯◯◯だ」というふうに名前を変えることができるそうです。
-別の名を持つこと= もうひとりの私
ハンドルネームを持つこと、別名のアカウントを追加すること、バーチャルなネットワークの世界では、リアル社会における実名とは異なる名前で人と関わることができます。仮面と同様、そこにはまったく別の人格が存在します。

「この世で一番短い呪とは、名だ」といったのは、夢枕獏の小説「陰陽師」に登場する安倍晴明です。「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」です。
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余談ですが、
Designの語源はラテン語の designare = 印を付ける、区分して描く
また、Designate = 示す、指示する、任命する、''名付ける''、呼ぶ
つまり、Design には文化を創造する・・という意味もあるのです。

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**付記|未整理原稿

***表意文字と表音文字
-表意文字(ideogram):個々の文字が意味を表しているもの
例:数字、''漢字''、絵文字、顔文字
-表音文字(phonogram):個々の文字が音素または音節を表すもの
例:アルファベット、''仮名''

ここで重要なことは、私たち日本人が、この2種類の文字が混在した文章に日常的に接している・・ということです。これは世界的にはめずらしいことです。文字それ自体が視覚と聴覚の両方に関わる特殊な情報体であると同時に、視覚優位の漢字と聴覚優位の仮名が混在するという点で、日本人の言語処理は視覚と聴覚の連携が非常に強いものになっている。マンガという日本独特のコンテンツの存在もそれを象徴しているといえます。

-養老孟司氏によればこの2つ、それを処理する脳の部位が異なります。
日本人の失読症の患者さんには「漢字だけよめない」とか「仮名だけ読めない」といった症例があるそうです。
--漢字:画像処理
--仮名:音声処理

-歴史的にも役割が異なります。
--漢字:中国から渡来したもの。別名「真名」。平安時代は男が使う文字
--仮名:真名の補助手段。平安時代は女が使う文字
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***擬声語・擬態語
状態と音声とのリンクは世界共通。おそらく、発音の際の口の動きが体感としてリンクするものと考えられます。
[[GoogleImage:ブーバ キキ]]
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***言葉が「存在」を喚起する
-神、妖精、悪魔、妖怪・・幻覚・妄想、昔の人は説明のつかない現象をそうした言葉を使って説明、納得してきました。

-「神」という言葉の発明は、当時の人々の社会の秩序維持に大きく貢献するものであったと言えます。

-しかし現代において神や妖怪には無理がある。そこで登場したのが宇宙人です。1947年、Flying Saucer(空飛ぶ円盤)という言葉が発明された後、それが世界各地で目撃されるようになった・・というのは有名な話です。
 
''付記''
UFO Unricognized fliyng object には Object という言葉があり、それはそれが物体であるという前提をつくってしまいます。空に起こる不可解な現象を公平な立場で検証するには、PAN Phénomènes Aérospatiaux Non Identifiés  つまり「現象」という言葉を使って、対象を特定させないような工夫が必要。UFO ではなく、PAN と言いましょう・・というのが科学界の動きです。
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***言葉は「識神」である
言葉とは識神のようなものです。それは、私に代わって人をコントロールすることができます。例えば、誰かのデスクにメモを残す。文字は、時空を超えて私の代理を務めてくれます。
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***言葉は人を幸せにする
人間は言葉を通して世界を捉えているので、ある人にとっての世界とは、その人がもっている言葉そのものとも言えます。子供のころは、桜の花を見ても何とも思わなかったのに、桜の歌を知ると、桜の見え方が一変します。同様に、多くの文学と関わることが、世界をより豊かに見せてくれるのです。

多くの賢者が「本を読みなさい」といっているのはそのためです。それは単に国語の成績が上がるといったレベルの話ではなく、人生そのものを豊かにするための重要なヒントなのです。

お金でもない、名誉でもない、言葉が人を幸せにするのです。和歌において人が平等である。同様に言葉を使うことにおいて人は平等です。これだけは、誰にも妨害できるものではありません。
//言葉のボキャブラリーが豊富であれば自分の内面世界も落ち着きます。気持ちを救い出して相手に伝えることができる・・と同時に自分自身の気持ちの整理もつきます。でも、残念なことに言葉がうまく使えないと「うぜぇ」、「ムカつく」・・それ以外に感情を解放する手段がありません。本を読まない人はいつもイライラしているように見えます。

あなたの好きな言葉は何ですか?
ノートに書き写す、ツイートする、何でもかまいません。
言葉と言葉がきれいにつながると、脳内には快感物質が走ります。
その意味においても、言葉は人を幸せにします。

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