社会制度
Social Institutions
社会制度とは広くは「人間がさまざまな個人的欲求、必要を充足させるために組織する社会機構およびそこから生じる社会的規範の全体」を意味するもので、支配・従属、協同・分業などの社会形式をはじめ、宗教・道徳・法律・言語・芸術といった文化的なものや、それらに関連する人間や事物をも含めたものが、社会制度であると考えられます。
狭義には、確立された社会規範である規則・法律を意味するもので、それらは各集団の意向に沿ったかたち合意形成されています。選挙制度、婚姻制度、相続制度、免許制度・・
参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ここでは、狭義の社会制度として私たちを真綿でしめつけている「法律」というものについて、ソーシャルデザインの観点から疑問を呈したく、まずはざっくりと「法」関連の用語を概観した上で、次の節で「法の限界」と現状への違和感について述べたいと思います。
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法に関する基本概念
法源(Source of Law)
法源とは一般に「法の存在形式」を意味する言葉で、大別して成文法と不文法ととに分けられます。その他に、法の根拠となる力(神、君主、国民または国家)や、関連資料(法典、判例集、著書、論文)を意味することもあります。
- 成文法(written law)
文章によって表現された法を意味し、一定の手続と形式にしたがって定立されることから制定法(statute law)とも呼ばれます。憲法・条約・法律・命令・議院規則・最高裁判所規則・条例があります。
- 不文法(unwritten law)
文章として書かれていないもので、判例・慣習・条理、があります。慣習とは、ある社会の中で守られ、定着している行動様式やルールのことで、条理とは、常識や道理、物事の筋道や人間として踏み外してはならない道のことを言います。
ちなみに、英・米の法体系は大部分が不文法である「判例」の積み重ねを基本としているため、契約条項の解釈や運用に関する共通の基準は、日本の民法や商法のような成文法としては整備されていないようです。
公法と私法
行政裁判所制度を有しない日本では、公法・私法の理論的区別は大きな意味をもたない・・とも言われますが、一般的に以下のように分類されます。
- 公法:公的集団の内部や集団同士の関係、また、公的集団と個人との関係に適用されるもので、憲法、行政法、刑法、訴訟法、国際法などがあります。
- 私法:個人と個人の関係に適用されるもので、民法、商法などがあります。
公法と私法の二分説は、欧州の裁判所が2種類あることに由来するもので、日本の明治憲法はその影響を受けて、公法事件は行政裁判所、私法事件は司法裁判所と分けていました。戦後の日本国憲法(76条)によって行政裁判所の設置を禁じられ、公法・私法の二元性の根拠が崩れたことで、公法関係と見られるものにも私法が適用されるケースもあります。以下のように区別されます(三分説)。
- 「権力関係」には私法の適用が排除される
- 「非権力関係」において
- 「私法関係」には私法のみが適用される
- 「公法上の管理関係」には例外的な場合を除き、原則私法が適用される
実定法と自然法
- 実定法
人為的に定立された法、又は特定の社会内で実効的に行われている法のことです。特定の時代や場所に限定されて妥当するもので、改変・廃棄も可能です。慣習法や判例法も含む概念ですが、法典化が進んで制定法が法源の中心を占めるようになったことで、実質的には制定法と同じ意味で使われます。
- 自然法
自然法(Natural law)とは、特定の社会や国家の枠を超えて、理性によって作られた法の概念で、実定法の対義語とされます。「時代と場所を超え普遍的に妥当する正しい法が存在する」という考え方は古代からあって、その自然法に基づいた「自然権」の思想の中から自由主義が生まれたと考えられています。さらに「国家は不当に個人の身体や生命を脅かしてはならない」という権利として国家の政治権力が制限されるようになり、それが後の市民革命、そして民主主義の基盤になったとも言われます。
ただ、人間が「言語」によって見出した(というか作った)という点では、恣意的な「共同幻想」であることに変わりはなく、自然の原理(多様性、突然変異と淘汰、発生と刈り込み)と一致するわけではないように思います。
その他
- 制定法主義と判例法主義
制定法(成文法)を国の主たる法とするシステムを制定法主義(成文法主義)と言い、判例法(過去の裁判で裁判所が一定の見解を示したものが法としての拘束力を持つもの)を裁判の主たる法とするシステムを判例法主義と言います。
- 民法における「人」と「物」
民法では、世の中には「権利の主体となる人」と「権利の対象となる物」の2種類しかない・・という前提になっています。人間以外の動物の権利は枠外で、動物愛護条例のようなケースでも動物は「特殊な物」という位置付けです。
法令(日本の制定法)
法令という言葉は、一般には「法律(国会が制定する法規範)」と「命令(国の行政機関が制定する法規範)」の総称です。言葉の使い手によっては、法律と命令のほかに、憲法や条例・規則などを含めて法令と呼ぶこともあるようです。
日本の法令には、種類ごとに優劣関係があって、上位の法令が優先され、上位の法令に反する下位の法令は効力を持たないことになっています。
憲法 > 条約 > 法律 > 命令 (政令 > 府省令)
地方行政における条例等の効力の優劣関係は以下のようになっています。
国の法令 > 条例 > 規則
日本の現行法令
- 憲法:国家の基本秩序を定める根本規
- 条約:国際法上、国連などの国際機関で結ばれる成文法
- 法律:国会の議決により成立する成文法
- 命令:行政機関が制定する成文法(法律の範囲内において定められる)
- 政令:内閣が制定する成文法
- 府省令:内閣総理大臣が発する成文法である内閣官房令、内閣府令、デジタル庁令および復興庁令と、各省大臣が発する成文法である省令の総称
- その他の命令:政令若しくは府省令に並ぶあるいは下位に位置するもの
会計検査院規則、人事院規則・人事院指令、外局の規則など
- 議院規則:議院規則 衆議院・参議院が各々定める成文法
- 最高裁判所規則:最高裁判所が、裁判官会議の議に基づいて定める成文法
- 地方公共団体の法令
- 条例:地方公共団体の議会が制定する成文法
- 地方公共団体の規則:地方公共団体の首長が制定する成文法
- 告示:内閣、内閣府および各省庁、裁判所、地方公共団体等、公の機関による必要な事項の公示
現在の日本の法律
以下をご覧いただくとわかりますが、山のように(3,000ぐらい?)あります。関係する問題に直面しない限り、多くのものは「そんな法律があるとは知りませんでした」という状況かと思います。つまり、法律というのは、問題の発生を防ぐことに貢献するものではないということかと・・・
法令全書
日本国政府が『官報』において公布または公示した事項を、法律や政令など法令の種別ごとに編集・掲載し、1か月ごとにまとめて発行される定期刊行物で、日本の独立行政法人国立印刷局から出版されています。ちなみに、憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法という6つの主要な法典を六法と呼んで、これを中心に主要な法令を収録した書籍を「六法全書」、「六法」*1と呼びます。 その他「◯◯六法」等の法令集出版物は、『官報』や『法令全書』を原典として編集したもので、6という数字は慣習的なものです。
法律を発案・提出する手続(以下の三つ)
- 議員による法律案
- 委員会による法律案
- 内閣による法律案
法の限界とデザイン
法は問題が生じてから作られる
自然災害が想定外のところからやってくるのと同様、新たなテクノロジーも予告なしにこの世界に登場します。テクノロジーに先行して法律が整備されることはありません。例えば、道路交通法は1960年(すでに車はバンバン走ってました)、個人情報保護法は 2003年(インターネット利用の急拡大 1995年〜)、ドローン規制法(改正航空法)は 2015年(消費者向けドローン 2010年〜)。
法律の量自体が災害級
新たなシステムの登場にともなって、法律が爆発的な勢いで増え続けていること自体も問題(情報災害の一種)です。条文を増やしたところで、社会の構成員がその量に追いつけなくなれば、「それダメって知りませんでした」ということが普通にあり得るし、現に世の中はそうなりつつあります。
社会が拡大・複雑化するとともに人々の生活様式が多様化するだけでなく、異なる社会制度・規範を背景にもつ外国人との共生も増えるなど、コンセンサスを得ること自体が難しい状況下で、関係当事者をとりまくマジョリティによって次々と法律がつくられていく・・。ある日突然「それ今年からダメになったんですよ」と言われても、そんな問題とは無縁の生活圏では「そんなこと規制する必要はないんですけど・・」と言いたくなること多々。マジョリティに最適化された法律によって、マイノリティの生活が無駄に息苦しくなる・・ということが多発しているように思えてなりません。法律の制定というのは、規範を一元化するという意味で、多様性の拡大と矛盾してしまうのです。
大半の法には「死」がプログラムされていない
増え続ける法律というものの存在様態は、生命(自然)の原理にも馴染みません。生命体にせよ地球環境にせよ、我々が依拠しているのは、物質とエネルギーの動的な流れの中で秩序を保つ「定常開放系」で、そこでは生成と破壊(取り込みと廃棄)による絶えざる更新が行われています。生命は、その潮流に動的な秩序を見出すべく、細胞死や個体の死をプログラムしています。時限立法のように「死」がプログラムされていればよいのですが、廃棄の目処が立たない状況で、新たな生産を行えば、結果的に多くの廃棄物を内部に抱え込む状況をつくってしまいます。
読みなおすたびに異なる意味・イメージを喚起する文学のテクストと異なり、法律の条文は物事をゆるぎなく固定(定義)するように記述されています(解釈の違いによるゆらぎは生じますが「判例」によって次第に収斂します)。それは、「絶え間なく動的な秩序を維持する生命」のありかたに馴染まないのです。
集団規模と法
法はもともと人間の集団規模が大きくなりすぎたことに起因する「必要悪」とも言えます。家族や友人との揉め事に法律を持ち出す必要がないことを考えれば明らかなように、小規模なBAND集団の秩序維持に法律は必要ありません(「掟」程度のものはありますが)。法というものは文明化にともなう集団規模の拡大による混乱を防ぐために、文明化の象徴とも言える「文字」を使って記述されるようになったものです。その時点ですでに「文字を読める人と読めない人の間に格差が生じる」という問題が生じています。
動的秩序を目指して
場当たり的な法律は増え続ける一方、時代に合わない法律も、それを廃止するには「法律を廃止する法律をつくる」ことが必要。六法全書は加速度的にその厚みを増し続け、もはや廃棄も改正も人の手に負えない状態にまで肥大化しています。生命体に例えれば、物質交換ができなくなって、体内に老廃物が蓄積しつづけている状態です。法のありかたそのものを動的なものにリ・デザインしなければ、もはや立ち行かない状況になっているのではないでしょうか。
- 法とは何か > Google:法哲学
人間の社会には、政治・宗教・経済・道徳・民族などの対立が絶えないもので、それを解消して社会を安定させるべく法が制定されるのですが(社会あるところ必ず法あり:ubisocietas,ibihis.)、問題はその目指すべき「安定」というものが「静的」か「動的」かで持続可能性も変わるのではないかと思います。今日の成文法は、文字で固定される、死がプログラムされていないなどの点で「静的」な秩序の成立を目指しているように見えます。人類学の視点から見れば、社会は「動的」な安定を目指すべきではないかと・・
人間の作り出す社会システムはすべて、 同一状態にとどまらないように構造化されている
クロード・レヴィ=ストロース
生成と破壊によるアップデートがスムーズに機能しないような存在に、サスティナブルな未来を築く希望を見出すことはできません。私が「法(マニュアル)よりもデザイン」、「生産完成品ではなく編集可能性」に希望を見出す理由はここにあります。