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Language

言語

コトバは存在を喚起する

言葉とは何か

「私たちが言葉に対して持っているいくつかの常識のなかには、実はとんでもない間違いがある・・その代表的なものが『言葉とは事物の名称のリストである』という考え方である。」

丸山圭三郎|言葉とは何か

世界には様々な事物が存在していて、人間がそのひとつひとつに名前を与えていった・・。大学に入学したばかりの多くの学生さんにこの誤解があります。言語学の知見をふまえると、それは逆転します。つまり、はじめに事物があってそれらに名前がつけられたのではなく、言葉の存在(差異)が環境や事物を区分けして、世界を立ち上がらせたのです。私たちが見ている世界は、言葉によって再構成された擬似的な現実(共同幻想)です。

例えば「虹は七色」という知識について。虹は連続スペクトルですから、物理的には色の境界は存在せず、色数は無限に存在します。しかし、赤橙黄緑青藍紫という7つの言葉を使う我々は虹を7色に分け、英米では6色、ドイツでは5色に分ける。つまり色についてどんな言葉を持つかで見える世界が変わるのです。

また例えば、私たちの顔のまんなかにある「鼻」とはどのような部分でしょうか。こう問われてはじめて、どこに境界があるのか、実はよくわかっていないということに気づきます。これも言語圏によって異なるのです。"nose"という単語は我々日本人がいう「鼻」とは違って、おでこのあたりまでを含みます。つまり"nose"の訳は「鼻」ではありません。完全な翻訳などはじめからできないのです*1。英語圏の人が描く漫画の顔が、日本人の描くものと異なるのは、顔を部品に分解する際の境界線の位置が違う・・つまり、もともと顔の見え方が違うからです。

言語は単純に置き換え翻訳できるものではありません。それはそれぞれの民族の世界認識のありかたを規定するものであり、また「文化」そのものであるといえます。どんなに暮らしが欧米化しても、「日本語」を使う以上、私たち日本人にとっての世界は、欧米人に見える世界とは異なるのです。

身分け構造|言分け構造

人間という動物だけが「身分け / 言分け」の二重分節の中に生きています。
丸山圭三郎|文化のフェティシズム p.71〜

生命と過剰|覚書

丸山圭三郎, 生命と過剰, p.225

「実在とその表象」なる図式が成立するのは、すでにコトバによる分節が行われたあとに歴史的化石となった<特定共時的 idiosyncronique>文化現実においてのみなのであって、<汎時的 panchronique>視点から見た文化とは、それ自体が本能図式に存在しなかった過剰としてのコトバによって生み出されたもうひとつの過剰でしかない<シーニュの世界>(=共同幻想)である、ということだ。ソシュールとラカンに共通するものは、自存的・実体的な<意味>の否定であり、<意味>とはネガティブな辞項間の差異から析出されることにほかならない。


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名|名称 について

はじめに事物があってそれに名前がつくのではなく、言葉をつくること、すなわち「名付け」によって切り取られた事物が私たちの世界に立ち現れる。言語学におけるこの知見は、「名」がいかに重要なものであるかを教えてくれます。名付けること、名を知ること、名を変えること、複数の名をもつこと、いずれも私たちの社会生活において、非常に大きな意味を持ちます。

「この世で一番短い呪とは、名だ」といったのは、夢枕獏の小説「陰陽師」に登場する安倍晴明です。「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」です。

余談ですが、
Designの語源はラテン語の designare = 印を付ける、区分して描く
また、Designate = 示す、指示する、任命する、名付ける、呼ぶ
つまり、Design には文化を創造する・・という意味もあるのです。



言語学のキーワード

二重分節 マルティネ

人間が使う自然言語は、知的な意味を担う単語としてのモネーム(記号素)が、それ自身では意味をもたないフォネーム(音素)によって二重に構成されています。前者を第一次分節、後者を第二次分節といいます。

私たちが使っている言葉は「二重分節」の仕組みをもっていて、有限の記号要素の組み合わせで無限の語彙を作り出しています。「イ・ネ」や「イ・ヌ」というシニフィアンは、それぞれ「稲」、「犬」というシニフィエに結びつけられていますが、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは本来「恣意的」なものであるという認識がとても重要です。


シニフィアンとシニフィエ F.ソシュール

ソシュールによれば、言語とは、観念を表現する記号のシステムであり、身振り、文字、さまざまな象徴、道路標識や軍隊の信号など、意味を生み出す記号のシステムです。そして、それぞれの記号は他のすべての記号と「差異」と「対比の関係」によって結ばれながら「記号のシステム」を形成するといい、シニフィアンとシニフィエという2つの鍵概念を提唱しました。

いわゆる音楽における「歌詞」は、表層の意識における「文法(Syntax)」や「意味(Semantics)」よりも、下意識における「音の連鎖」に重要な役割があると考えられます。ラップミュージックにおける「押韻(ライミング)」というのも、まさに音の連鎖による秩序構成を意味します。ヒトの特徴であるコトバの生成(Genesis) には、「音」が重要な役割を担っています。

ラングとパロール F.ソシュール

簡単に説明してしまうと、ラングとは「日本語」のような言語体系、パロールとはその日本語を使った具体的な発話です。前者は空間的な構造体系、後者は時間的な出来事です。

文献:一般言語学講義 F.ソシュール

「連辞」と「連合」 F.ソシュール

デノテーションとコノテーション R.バルト

これはロラン・バルトによる概念区分で、簡単にいうと、デノテーションとは字義どおりの意味の伝達。コノテーションは、潜在的な、あるいは字義どおりの意味を超えたところにある意味の伝達のことです。

文献:神話作用 R.バルト

表意文字と表音文字

ここで重要なことは、私たち日本人が、この2種類の文字が混在した文章に日常的に接している・・ということです。これは世界的にはめずらしいことです。文字それ自体が視覚と聴覚の両方に関わる特殊な情報体であると同時に、視覚優位の漢字と聴覚優位の仮名が混在するという点で、日本人の言語処理は視覚と聴覚の連携が非常に強いものになっている。マンガという日本独特のコンテンツの存在もそれを象徴しているといえます。


統語論と意味論


参考:パースの記号論

ソシュールの記号学(Semiology)がスイス・フランスの思想界( 構造主義)に大きな影響を与えた一方、アメリカではパースの記号論(Semiotics)が注目されていました。それは、自然、文化、社会の事象を包括的に説明する基礎理論で、宇宙のあらゆる事象を無数の記号の「記号過程(semiosis)」と考え、以下のような3つのキーワードを提唱しました。

大和言葉

大和言葉とは

太古より日本人が使い続けてきた言葉。日本語の文章の中の、漢語、外来語、また「〜する」という形の動詞以外のもの。つまり、大半の動詞、形容詞、助詞が大和言葉にあたります。例えば、訓読みする漢字とひらがなだけでできた文は、大和言葉の文です。

大和言葉ではないもの

一方、我々が今日、論理的な思考に用いる言語表現の多くは、音読みする漢字熟語が中心となっていて、これは大和言葉とは異なります。

敬語に現れる大和言葉の性質

丁寧語に「お」をつけるものと「ご」をつけるものがあります。

J-POP:歌詞の基本は大和言葉

好きな歌を口ずさんでもらえばわかると思いますが、歌詞の大半は大和言葉で書かれています。つまり、歌詞の中で漢字で表記される部分も「訓読み」になっていることが多い・・。

音読みの音(中国渡来の漢語)は、同じ音でも異なる意味のものが多数あります(かし:歌詞、菓子、可視、下肢、瑕疵)。音を聞いて、前後の文脈からこれだという「表意文字」を推測するというのは、音楽にとっては負担となります。

大和言葉の歌詞であれば、ひとつの発音が複数の意味を持つことはありませんから、音と同時に意味が伝わります。大和言葉=仮名=表音文字・・もともと日本人にとって言語とは、まず「音」なのです(だから「音読しなさい」といわれるのです)。

ちなみに、俳句も和歌も七五調。これは現代風に言えば8ビートです。

|●●●●●・・・|・●●●●●●●|●●●●●・・・|


言霊(ことだま、言魂)

この国(日本)には「言葉には霊的な力が宿る」という思想があります(残念ながら今日では、そのような感覚を持つ人は非常に少ないようです)。これを「言霊思想」といいますが、その世界観においては、声に出した言葉が現実の世界に影響を与えると考えられており、いい言葉を発すると良い事が起こり、逆にわるい言葉を発すると悪い事が起こるとされます。日本は言霊の力によって幸がもたらされる国なのです。

敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ 柿本人麻呂

日本の言霊思想では、言葉は発せられた時点で目的が達成されるので、伝えるための論理構造は必要ない・・、つまり日本語は情報伝達の手段としては弱い・・といえるのかもしれません。歌の中にある「あなたの・・」といった表現も、あなたを前にして伝えているというよりは、「ひとりごと」として語っている。歌会は、意見交換会ではなく、みんなの「ひとりごと」を鑑賞する会です。

参考:日本の映画・ドラマにおいて二人の関係(あなた)を描く時
・二人が敵対して言い合うとき、構図は対峙
・二人の関係が寄り添うとき、二人で同じ方向(海)を見ている

日本人はコミュニケーションが苦手だといわれます。現代国際社会においては、言葉はコミュニケーションの重要な手段のひとつであり、主語・述語を明確にして、情報をわかりやすく相手に伝えることが求められますが、日本語がこのような性質をもつ以上、コミュニケーションが苦手なのはあたりまえなのです。黙して語らない。少ない言葉数で、阿吽の呼吸で事を進める。そういうスタイルは国際社会では通用しませんが、でも、それが日本人の自然体なのではないでしょうか。
 「俳句」を読むといつも感じることですが、素材を自由に切り・つなぎしてできる日本語表現のゆるさは、「映画」に近いのかもしれません。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

 一般に日本人は、欧米式の論理的な文章構成が苦手だといわれますが、それも「言葉がゆるくつながる」日本的思考に慣れているせいと言えるでしょう。西欧文化を模範とした明治以降の日本社会では、そのような言語表現のゆるさは悪しきものとされますが・・・個人的にはゆるいのが好きです。


作者の不在、解体する自我

うた(作品)は詠み人(作者)のものではなく、発したと同時に誰のものでもない万の霊となる。こうした言霊思想が背景にある日本では、西欧流の著作権の考え方はなじみません。本歌どり、浮世絵構図の定型パターン、二次創作。そういえば「作者の死」を語ったバルトは日本好きでした。
 自我のゆるさ、アンチパースペクティブ、視点の解体・・これらは、すべて共通しています。


和歌について

歌をコレクションする、またそれを教養のひとつとして大切にするという知的価値観は、日本人に特有のものです。

参考:仮名序|古今和歌集

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、
見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。

力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

紀貫之




付記


言葉が「存在」を喚起する

言葉は「識神」である

言葉とは識神のようなものです。それは、私に代わって人をコントロールすることができます。例えば、誰かのデスクにメモを残す。文字は、時空を超えて私の代理を務めてくれます。

言葉は人を幸せにする

 人間は言葉を通して世界を捉えているので、ある人にとっての世界とは、その人がもっている言葉そのものとも言えます。子供のころは、桜の花を見ても何とも思わなかったのに、桜の歌を知ると、桜の見え方が一変します。同様に、多くの文学と関わることが、世界をより豊かに見せてくれるのです。
 多くの賢者が「本を読みなさい」といっているのはそのためです。それは単に国語の成績が上がるといったレベルの話ではなく、人生そのものを豊かにするための重要なヒントなのです。
 お金でもない、名誉でもない、言葉が人を幸せにするのです。和歌において人が平等である。同様に言葉を使うことにおいて人は平等です。これだけは、誰にも妨害できるものではありません。

日本語と日本人の思考

日本語は外来語を「名詞」として取り込むことが得意な性質を持ちます。

また、日本人は「宗教」を持たない…とよく言われます。
正月には神社、結婚式は教会、家には仏壇…。
確固たる信仰を持たない国民が、秩序とモラルを維持できたのはなぜなのか?
それは、世界の常識からみればとても不思議なことです。

日本人のモラルを支えているのは何か?
おそらくそれは、日本人の「美意識」、そしてその根底にある「日本語」ではないかと思います。

主語(私は)を使わない語り口、「もったいない」のような翻訳できない概念。日本語は、その文法においても語彙においても、私達の「考え方」を規定しています。

西洋音階(システム)が旋律やコード進行に一定の傾向をもたらすように、日本語は日本人の言葉のつなぎ方や思考パターンに一定の傾向を与えるのです。

日本の秩序とモラルを支えているのは、その日本語です。
だから、言葉を大切にしないと、この国の秩序は破綻してしまいます。
かつての美しい暮らしを取り戻すヒントは「日本語」の中にあるのです。

あなたの好きな言葉は何ですか?

ノートに書き写す、ツイートする、何でもかまいません。
言葉と言葉がきれいにつながると、脳内には快感物質が走ります。
その意味においても、言葉は人を幸せにします。




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*1 昨今、多くの大人が口をそろえて「これからは英語だ」と言っていますが、異文化間コミュニケーションというのは、文化的な背景の理解なしに置換ルールだけ学んでも意味がない。単に「nose は 鼻」といった置換だけなら人工知能にやらせればいい(すでにスマホのアプリで簡単にじ実現します)。直接的なコミュニケーションを楽しみたいという人にとっては語学学習はとても大事ですし、それをおおいに楽しむべきだと思いますが、興味のない人にまで強制するような話ではないと私は思います。多分こういう意見は少数派かもしれませんが・・
Last-modified: 2019-11-01 (金) 15:48:11