Society
社会という語は、日本古来の大和言葉にはなく、明治期(1877年ごろ)に西周(にしあまね)等が society の翻訳語として使いはじめたものと言われます。伝統的日本語では「世間」という言葉が近く、「世間の荒波」や「社会に出ると・・」などのように、一般に日本人は社会というものを近親集団の「外部」としてイメージすることが多いようですが、後述のとおり「社会」にはいくつかの存立様態の違いがあり、それらを俯瞰する視点が必要です。
社会についての科学的な認識活動およびその活動によって生み出された知識の体系。「自然科学」、「人文科学」とともに学問領域の大きな3区分のひとつに位置付けられる。社会科学に分類される学問領域は、経済学、法学、教育学、政治学、社会学、国際、コミュニケーションなど。
人々の信頼関係や人間関係(社会的ネットワーク)のこと。
すべての人の共通資産として社会的に管理・運営されるべきものを「社会的共通資本」といいます。経済学者宇沢弘文氏はこれを「広い意味での環境」として、以下の3つに分類しています。
異文化という言葉はありますが、異文明という言葉はありません。つまり、文化には多様性が想定されていますが、文明はグローバルな一元化が前提となっているのです。文明のホメオスタシスは「拡大・成長」しつづけます。歯止めのない成長は癌細胞と同様に、最後には自分自身を滅ぼします。
> 文明と文化
以下、社会の様態をわかりやすく説明する図式として、見田宗介氏による「社会学入門」に掲載されている図を紹介します。
社会学では、社会類型や集団類型を2つ(バイナリー)に整理するキーワードが多く存在します。いずれも、1) 自然発生的に生じた基礎的なもの、2) 何らかの目的に沿って人為的に形成されたもの・・と説明することができます。
生産、所得、消費に関する意思決定と、その意思決定実施のためのメカニズムと諸制度の組合せを「経済体制」といいます。一般に経済体制の違いは、資本主義、社会主義、共産主義など、◯◯主義という言い方で区別されます。
◯◯主義を標榜する国家や政党の印象がまとわりついていることで、多くの誤解があるようですが、◯◯主義というのは、どんな社会を理想とするかという価値観の違いであって、対象とする「社会」の規模や時代との適性もあるので、それ自体に「良し悪し」や「成功・失敗」があるわけではありません。
実際の社会は、それぞれの抱える問題を解消すべく、様々な方策がとられていて、単純な線引きができるものではありません。例えば、自由競争を基本とする資本主義の社会でも、資本主義が生み出す貧困から人々を救うべく、その多くが「社会保障」という社会主義的な制度を導入しています。
資本主義(古典的資本主義) | 社会主義(集権的社会主義) |
私的所有 | 国有 |
分権 | 集権 |
市場 | 計画 |
物質的誘因 | 物質的および精神的刺激 |
ちなみに「民主主義」という言葉は「政治体制」に関わる言葉で、別の話です。
資本主義とは、個人や企業が利益を追求する「自由競争」のもとで、社会全体の利益も増大すると考える体制です。世界的には産業革命以後、日本では明治維新以後に導入されました。
封建制度に次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものを持たない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造。生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営される。キャピタリズム。
デジタル大辞泉
資本は国のもので、国がそれらを管理して平等にする体制。
1. 生産手段の社会的共有・管理によって平等な社会を実現しようとする思想・運動。空想的社会主義・共産主義・社会民主主義など。
2. マルクス主義で、資本主義から共産主義へと続く第一段階としての社会体制。各人は能力に応じて働き、働きに応じて分配を受けるとされる。1917年のロシア革命により、1922年に世界初の社会主義国家としてソビエト社会主義共和国連邦が成立したが、硬直化した官僚体制への不満などから1991年に崩壊した。
デジタル大辞泉
資本や財産などをすべて国のものして共有する平等な社会体制。
1. 財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を共有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想・運動。古くはプラトンなどにもみられるが、現代では主としてマルクス・エンゲルスによって体系づけられたマルクス主義思想をさす。
2. マルクス主義で、プロレタリア革命によって実現される人類史の発展の最終段階としての社会体制。そこでは階級は消滅し、生産力が高度に発達して、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるとされる。
デジタル大辞泉
社会主義と共産主義
共産主義は、社会主義の進化形(理想形)に位置付けられています。社会主義では、企業が得た利益を国が管理し、国民の給料も国が管理して分配しますが、共産主義では、すべての利益をみんなで共有するという考え方で、国が管理する制度自体も不要・・という発想をとります。
経済体制は良い悪いの問題ではなく、価値観の違いによって選ばれるものです。現代では結果的に多くの国が資本主義を主軸に採用しています。
私たちが暮らす日本の経済体制は(国民皆保険制度のような社会主義的要素を含む)「資本主義」です。
自由な経済活動ができる。モノの価格が市場競争によって変動する。好きな職業に就くことができる。労働に応じた報酬。成功すれば多くの富を手にし、失敗すれば貧困。人々の間に貧富の差がある・・など、それが私たちの「あたりまえ」になっているために、これまで資本主義そのものを自覚することはあまりなかったかもしれませんが・・
世界の事実上の標準である「資本主義」に触れた書物は多く存在します。みんなが納得のいくように社会を調整するというのは非常に難しいのですが、ひとまず、自分たちの社会を相対化して、その問題を自覚しておくことは大切です。
付記
市場社会は主として西ヨーロッパを中心に現れた特別な社会に過ぎないし、 ・・江戸時代初期の恐るべき人口上昇に示されるように、 日本にも独自な形で発生したものと考えられる。 : しかし、それ以外のほとんどすべての人類社会にとって、 そのような市場社会への歴史的志向というものは存在しなかった。 : 日本とヨーロッパは大なり小なり世界の先進的な経済圏を 形成することになったが、これはいわばガンにかかって活性化した細胞が、 ガンにかかっていない細胞を支配するといった手合のものである。
栗本慎一郎, 「市場社会への迷い道」『幻想としての経済』, 角川文庫
生産手段を持つ人が資本家、生産手段を持たず労働を売る人が労働者(経済奴隷)。格差拡大は資本主義の構造上の宿命です。資本の自己増殖によって、資本家と労働者との間には貧富の差が極限まで拡大します。
現代人の多くは、例えば「住宅ローン」の返済のために、奴隷制の時代よりも過酷な長時間労働にさらされている状況にありますが、富裕層はごく少数で見えにくいので、自分の状況を疑問に思う人が少ない・・というのが実情です。
奴隷の最大の特徴は「自分自身が奴隷であることに気付いていないこと」
資本主義はそれ自体が強権と独占を生む性質を潜在的に備えています。富や既得権益の独占は、場合によっては産業構造や社会環境、さらには人々の生活様式まで無条件に変えてしまう力を持ち得る点で危険です。
資本主義社会では、強者が弱者から掠奪することで「成長しつづける」のが前提となっているため、資源の掠奪が加速し、最終的には地球環境を破滅させてしまいます。今も、北半球に住む私たちの食料のために、南半球の土地が再起不能なまでに酷使されています。
科学技術の進歩が、資源の問題を解決する・・という楽観論もあるようですが、現実には技術の進歩によって効率が上がった分だけ、贅沢するので(燃費が良くなって車が安くなれば、同じ金を払って大きな高級車を買うので)、環境破壊は止まりません。
競争によってより良いものを作ろうとする資本主義の考え方は、あらゆる公的な事業の「民営化」を進めます。結果、もともとタダであった共有財産(社会的共通資本)も、お金がなければ手に入らない・・という状態へとシフトしていきます。生きていく上で必要なもの(住まい、水、電気、医療、教育・・)も、お金がなければ手に入らない。市場の原理で民営化が進むことで、貧困問題はより一層大きくなっています。
資本主義社会では、お金があれば自由に財産(土地・生産力)を買うことができるので、地域が保有する「みんなの共有財産」も、お金で「私物化・希少化」する方向へ物事がシフトします。みんなの共有財産であったとしても、目の前にお金を出されたら「手放すことに合意がなされる」というのが現実です。
家族・親族・地域での「助け合い」という共有財産も、そのままではお金が動かないので、そうした関係を切って、お金で解決させる方向へと、物事がシフトします。介護ビジネスも「家族による助け合い」を「お金による解決」へシフトする発想によって成り立っています。
水、地熱、太陽光などを地域の共有財産として、共同で発電に使えば、お金がなくても電気を使える生活ができるのですが、水、地熱、太陽光など、排他的に管理できないもの(つまり占有できないもの)は、「私物化・希少化」しにくいという点で、資本主義のしくみに馴染みません。結果、資本主義の発想のを前提とする限り、再生可能エネルギーへの移行はなかなか進みません。
従来型の経済システムが立ち行かなくなる状況の中で、近年新たな概念として、循環型経済や共有経済などが注目されるようになりました。
循環型経済(Circular Economy)とは、再生し続ける経済環境を指す概念で、製品・部品・資源を最大限に活用し、可能な限り永続的に再生・再利用し続ける経済システムです。
従来の Take(資源採掘)> Make(生産)> Waste(廃棄)という「直線型経済システム」ではなく、稼働していないモノや空間、ゴミと思われているもの資源として循環させる経済の実現を目指すものです。
循環型経済において新たな「富」を生み出すと期待されるのは、廃棄物だけではなく、会議室(空間)・自動車(移動体)・日用品など、「稼働していない」「使われていない」資産や天然資源も含まれます。インターネットを活用した情報の共有により、効率的な資源の活用を目指す発想で、次に紹介する「共有経済」の考え方とも重なる部分が多くあります。
共有経済(Sharing Economy)とは、人、モノ、場所などの使われていない資産を、インターネットを介して必要とする人につなぐ、あるいは、1つの資産を多くの人たちと共同で利用する仕組みのことです(オープンソースプロジェクトはその代表と言えます)。 企業が対価をとってサービスやモノを提供するのではなく、個人間で様々な資産を交換することが基本。このアイデアは双方にとって経済合理性が高く、共有経済は急速に拡大しています。
共有経済の特徴は、限界費用が極限まで0に近づくということです。ジェレミー・リフキンは「限界費用ゼロ社会」の中で、社会経済における財やサービスの多くが限界費用0に向かって進行し「利益」が枯渇する様を説明しています。資本主義が目指した生産効率が極限まで上昇した結果、言い方を変えれば資本主義が成功した結果、それ自身が終焉を迎えつつあるのかもしれません。
文化人類学の基本概念のひとつである「交換 exchange」は、コミュニケーションの社会的な様態であるとともに、経済活動の基本でもあります。一般に「経済」というと、市場における貨幣経済をイメージしがちですが、人類学的視点に立つと、市場経済は「交換としての経済」の一形態にすぎません。
経済人類学のカール・ポランニーは「人とその環境のあいだの, 制度化された相互作用の過程」(1975)において、統合形態の原理として「互酬(reciprocity)」、「再配分(redistribution)」、「交換(exchange)」の3類型を提起しました。資本主義は、このうちの交換(市場)が極端に肥大化した社会と言えます。
文献によって言葉の使い方がいろいろあるようで、私には正確な言葉使いがわからないのですが、ここでは、ざっくり「贈与交換」、「再分配」、「等価交換」という3類型として語ってみます。
贈与交換における「贈物」は、市場の商品とは異なり排他的な所有ができないことが特徴です。メラネシアのトロブリアンド諸島周辺で行われているクラ(マリノフスキーの研究)、婚姻制度におけるインセスト・タブー(近親相姦の禁止)(レヴィ・ストロースの研究)、いずれにも「使用価値」の交換、等価的な交換とは異なる意義が見出されます(当事者がそれを自覚して行なっているというより、結果として、社会の持続可能性に寄与していると言えます)。
レヴィ・ストロースによれば、人間の作り出すすべての社会システムは「同一状態にとどまらないように構造化」されていて、絶えず変化すること求められています。贈与交換は「贈物」がもたらす不均衡によって常態を更新しつづけるという社会の持続性のために機能していると言えます。
また、M・モースの言葉を借りれば、以下のような解釈もできます。
価値のあるものが交換されるのではない。 交換によって価値が生まれるのである。交換とは価値の創出のためにある。
今日においても家族関係や友人関係(市場の外部)においては、贈与交換が成立していると言えます。
例えば、友人関係を例にとると、プレゼントはその場ですぐに精算しないのが普通です。借りた物についても同様、等価的に返してしまうと、そこで一旦関係が精算されてしまいますが、借りっぱなしの不均衡な状態があることで、常に相手を想起せずにはいられないという関係が持続します。
再分配は、その共同体の中心(王や族長など)に物が集まり、再び社会の構成員に分配されるというタイプのものです。再分配は、狩猟採集社会から中央集権的な国家にいたるまで、あらゆる段階?の社会に共通に見られますが、そこには「中心」というものが不可欠な要素として君臨しています。
例えば、北アメリカ北西海岸部の先住民が行うポトラッチ(モースの研究)は、「贈り物」の意味で(贈与交換をイメージさせますが)、裕福な家族や部族の指導者が家に客を迎えて舞踊や歌唱が付随した祝宴でもてなすというかたちのもので、富を再分配する機能がみられます。
等価交換は、近代社会における財の交換に代表されるもので、貨幣という「第三項」を介して行われます。そこで交換されるのは「贈物」とは異質の「商品」であり、人はそれを排他的に「所有」できることが前提です。
このシステムは当該貨幣が通用する経済圏における「信頼」によって成立しています。貨幣は「交換価値」の等価性を前提に商品の対価として信頼されるとともに、支払われた貨幣が再び支出できることが前提となっています。
私たちは、このシステムを日常的なものとしていますが、それが現代に特有の問題を生み出していることも無視できません。市場経済(等価交換)では、その都度関係が精算されます。つまり、当事者間に「つながり」が生じることはありません。つまり、等価交換は社会を「無縁化」するのです。「有縁」の煩わしさをカネ(等価交換)で解決すべく様々なサービスが生まれてきた経緯もありますが、それが極端に蔓延した無縁社会は、また別の問題を生み出しています。
「煩わしさ」を「面白さ」と感じるような新たな「縁」を構築すべく、等価交換とは異なる仕組みのデザインが求められます。
「ヒトは富を蓄積するために生産するのではなく、蕩尽するために蓄積する」という G. バダイユ(「呪われた部分」)の思考と、「私たちが常識だと思っている市場社会は実は特殊な社会であり、非市場社会こそが普遍的なものである」とする K.ポランニーの近代批判を受けて、栗本氏は、以下のような式を立てました。
消尽 ≧ 贈与 ≧ 交換 ≧ 交易 ≧ 商業 この不等式は、右へ行くほど日常性が高まり、 日常性の権化たる近代社会性も高まる
おそらく「需要と供給が・・」みたいな市場経済の話に終始する学校の教科書には載っていない話かと・・・
私たちが使う「みんな」という言葉は愉快であると同時に怖い言葉です。
みんなができるのに、何であなたはできないの?
こんな言葉に傷ついた経験のある方も多いのではないでしょうか。
人はみなそれぞれ異なるキャラクターを持った存在です。みんなにできて自分にはできないことがあっても何ら不思議なことではありません。逆に、自分だけができてみんなにはできないことも存在するはずですが、みんなにできないことというのは、それが顕在化することがないので気づきにくい・・というだけの話です。
さて、「みんな」を理解するには「みんなの外部」が見えるところまで、視点を引いて俯瞰することが必要です。学問は「引きで見る」ことからはじまります。
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文化人類学者の山口昌男は、その著書「文化と両義性」の中で、「中心と周縁」という二項対立的思考の枠組みを提唱しました。
社会の構造はあらゆるレベルで「中心」と「周縁」をモデルとして考えることができます。「中心」は秩序、「周縁」はそれを動的に再生産する力です。「周縁」は空間的には、村はずれ、川向こう、峠の向こうにいます。また時間軸で考えれば、夕暮れ時(逢魔時)、夜、そして祝祭日(日常の価値が逆転する日)にあります。日本の昔話をいくつか思い出して下さい。多くのお話は、この中心と周縁の交流を描いたものであることに気づくはずです。
現代社会はは、産業革命以後の資本主義社会、特に製造業の思考に適応した人たちの子孫がマジョリティを構成しています。
社会はマジョリティに「最適化」されているので、マイノリティはそこで様々な「生きづらさ」を感じています。
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オルテガ・イ・ガセットはその著書『大衆の反逆』の中で、烏合の衆と化した人々(マジョリティー)を痛烈に批判しました。
みずからを、特別な理由によって − よいとも悪いとも − 評価しようとせず、 自分が「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を感じることもなく、 むしろ、他人と自分が同一であると感じていい気持ちになっている・・ 凡俗な魂が、その権利を大胆に主張し、それを相手構わず押し付ける
そんな烏合の衆の「同調圧力」が現代社会には蔓延しています。
ヒトは「自己家畜化」する生き物である・・と言われることがあります。日本語の「家畜」という言葉は、「社畜」と同様にあまり良い意味では用いられないものですが、本来の Domesitication は「グループに馴染ませる」といった柔らかい意味で、協調・協働・共生といった社会に必要なことでもあります。
ただ、これが強制的に行われたり、極端な選択と集中につながると「多様性が失われる」という問題に発展します。
社会の拡大とその効率化のために、生活様式や価値観は一元的になりがちで、現在の人類は、一元化された安全な環境のもとでしか生きられなくなっています。拡大一元化する文明という人工的な環境へのヒト自身の「自己家畜化(Self Domestication)」は、人類を絶滅の危機にさらします。つまり、特定の環境に適応しすぎた生物は(多様性を欠いた生物は)、環境変動やウイルスによって絶滅する可能性があるのです。
グローバル化は、文明の必然として生じていますが、だからこそ「多様性」は尊重されなくてはならないと思います。
ダンバー数(Dunbar's Number)とは、人類学者ロビン・ダンバーが見出した「互いに親密な関係を築ける集団構成員の上限」のことで、その数は 150 とされています。これは人間のみならず他の動物も同様であると言われます。
集団の人数がダンバー数を超えなければ、構成員が自律的に行動しても秩序は保たれます。相互扶助が自然に機能する集団では、ルールを明示的に決める必要もなく、問題が生じれば随時対応・・という暮らしが可能です。
しかし、それを超える数になると、グループの団結と安定を維持するために、より拘束性のあるルールやノルマが必要になると考えられています*1。
人はいつから戦争をはじめたのか?
狩猟採集社会にも争いはありますが、それは食料資源の獲得にともなうもので、必要以上に近づき過ぎた場合や、気候変動で食料不足になった場合、すなわち当事者自身に争いの動機がある場合に限られていたと考えられます。そこには、集団を支配する社会のルールもなく、秩序を維持するための「暴力を独占する特権的な組織」*2も存在しません。
一方で、農耕社会における争いは、支配者の「拡大欲望」にもとづく意思によって統率された集団同士の争い(兵士自身に相手を殺す意思はない)になります。一般に、文明社会が起こす戦争は「国家」に代表される組織同士の争いで、兵士はそれ自身に内在する憎悪の感情ではなく、組織の指示に基づいて殺戮を行います。これは「武力戦争」のみならず「経済戦争」でも同様です。
日本には、個人でも社会でもない「世間」という言葉があって、「世間の目」(一種の同調圧力)がモラルを維持する役割を担っています。感染拡大下に「自粛」だけである程度の制御ができる日本は、世界の中でも珍しい存在・・