コトバは存在を喚起する
言語は人類に特有の現象です。進化の過程で脳内に生まれた「音声を組み合わせて再帰的なフレーズを構築する」という仕組みは、生成・伝達・記録に関わる情報量を無限に拡大し、「連続する刺激を離散的に切り分けてその関係性において世界を把握する」という仕組みは、情報の認知効率を大幅に向上させました。
もはや我々は、物理的な現実に直接アクセスすることはできず、言語というフィルター越しの疑似現実(虚構の世界)に生きる存在になったのです。私たちに見える世界の大半は(母語がつくりだす)虚構に洗脳された状態にあります。
絵画・写真・音楽・・、そして人間以外の動物とのコミュニケーションはその例外です。
言語をもった人類の特徴の一つは「嘘をつく」ということです(フェイクは今に始まった話ではありません)。言語は、科学技術を発展させ物質的に豊かな社会をつくることに貢献した一方で、様々な精神的病の契機にもなっているという点で、言語に関する知見を深めることは非常に重要なことと言えるでしょう。
まずはじめに、多くの人が言葉に関して当然だと思い込んでいることについて、そうではないということを「構造主義言語学」の観点からお話します。
私たちが言葉に対して持っているいくつかの常識のなかには、 実はとんでもない間違いがある・・その代表的なものが 『言葉とは事物の名称のリストである』という考え方である。
丸山圭三郎|言葉とは何か
世界には様々な事物が「目に見えるとおりに」存在していて、人間がそのひとつひとつに名前を与えていった・・。多くの人はこの「素朴実在論*1」で世界を認識していますが、言語学の知見をふまえると、その認識は逆転します。つまり、はじめに事物があってそれらに名前がつけられたのではなく、言葉の存在(差異)が環境や事物を区分けして、世界を立ち上がらせたのです。私たちが見ている世界は、言葉によって再構成された擬似的な現実(共同幻想)です。
例えば「虹は七色」という知識について。虹は連続スペクトルですから、物理的には色の境界は存在せず、色数は無限に存在します。しかし、赤橙黄緑青藍紫という7つの言葉を使う我々は虹を7色に分け、英米では6色、ドイツでは5色に分ける。つまり色についてどんな言葉を持つかで見える世界が変わるのです*2。
また例えば、私たちの顔のまんなかにある「鼻」とはどのような部分でしょうか。こう問われてはじめて、どこに境界があるのか、実はよくわかっていないということに気づきます。これも言語圏によって異なるのです。"nose"という単語は我々日本人がいう「鼻」とは違って、おでこのあたりまでを含みます。つまり"nose"の訳は「鼻」ではありません。完全な翻訳などはじめからできないのです*3。英語圏の人が描く漫画の顔が、日本人の描くものと異なるのは、顔を部品に分解する際の境界線の位置が違う・・つまり、もともと顔の見え方が違うからです。
言語は単純に置き換え翻訳できるものではありません。それはそれぞれの民族の世界認識のありかたを規定するものであり、また「文化」そのものであるといえます。どんなに暮らしが欧米化しても、「日本語」を使う以上、私たち日本人にとっての世界は、欧米人に見える世界とは異なるのです。
人間という動物だけが「身分け / 言分け」の二重分節の中に生きています。
丸山圭三郎|文化のフェティシズム p.71〜
(身分け構造は)動物一般がもつ生の機能による種独自の外界のカテゴリー化であり(身体と心の分化以前の)身の出現とともに外界が地と図の意味分化を呈する環境世界である。
私たちは言語・所作・音楽・絵画・彫刻といったシンボル活動によって<過去>と<未来>、<背後のあそこ><前方のあそこ>を差異化・差延化する、つまり「今、ここ」という時間・空間を超えた延長を作り出し、<非在の現前>を可能にする。・・生物体としての人間には存在しなかった<意味=現象>を文字通りの身の延長である人工道具によって拡大生産する・・(そうした過剰としてあるのが「言分け構造」である。)
丸山圭三郎, 生命と過剰, p.225
「実在とその表象」なる図式が成立するのは、すでにコトバによる分節が行われたあとに歴史的化石となった<特定共時的 idiosyncronique>文化現実においてのみなのであって、<汎時的 panchronique>視点から見た文化とは、それ自体が本能図式に存在しなかった過剰としてのコトバによって生み出されたもうひとつの過剰でしかない<シーニュの世界>(=共同幻想)である、ということだ。ソシュールとラカンに共通するものは、自存的・実体的な<意味>の否定であり、<意味>とはネガティブな辞項間の差異から析出されることにほかならない。
19世紀に盛んに研究された比較言語学に対し、20世紀には大きく3つの潮流が生まれました。以下、どれが正しいとかいう話ではなく、それぞれ異なる言語観として捉えるのが面白いのではないかと思います。
F.ソシュール(1857 - 1913)は、「近代言語学の父」ともいわれるスイスの言語学者で、人間のもつ普遍的な言語能力(シンボル活動、記号化能力)を「ランガージュ (言語活動)」 と名づけました。
ランガージュは、社会的側面であるラング (言語) と個人的側面であるパロール (言行為) とに分けられます。
ラングは空間的な構造体系、パロールは時間的な出来事。例えば、ラングは「日本語」のような言語体系、パロールとはその日本語を使った具体的な発話です。ラングは構造的な制度であってパロールの前提となるものですが、通時的にパロールによってラングが変革される、つまり構造は常に更新されつつあると考える点が重要です。
一般言語学講義 1916 F.ソシュール
ソシュールによれば、言語とは、観念を表現する記号のシステムであり、身振り、文字、さまざまな象徴、道路標識や軍隊の信号など、意味を生み出す記号のシステムです。そして、それぞれの記号は他のすべての記号と「差異」と「対比の関係」によって結ばれながら「記号のシステム」を形成するといい、シニフィアンとシニフィエという2つの鍵概念を提唱しました。
ラカンのいう「シニフィアンの連鎖」とは、ソシュールの考えた 「シニフィアンに媒介されるシーニュの連鎖」は下意識において はるかに多いということの別の表現なのである。 下意識において、知的類推よりも音的類推が優勢であることは、 逆に表層意識においては「シニフィエに媒介されるシーニュの連鎖」が 優勢であること・・を示してくれる。・・丸山圭三郎, 生命と過剰, p.222いわゆる音楽における「歌詞」は、表層の意識における「文法(Syntax)」や「意味(Semantics)」よりも、下意識における「音の連鎖」に重要な役割があると考えられます。ラップミュージックにおける「押韻(ライミング)」というのも、まさに音の連鎖による秩序構成を意味します。ヒトの特徴であるコトバの生成(Genesis) には、「音」が重要な役割を担っています。
これはロラン・バルトによる概念区分で、簡単にいうと、デノテーションとは字義どおりの意味の伝達。コノテーションは、潜在的な、あるいは字義どおりの意味を超えたところにある意味の伝達のことです。
神話作用 R.バルト
人間が使う自然言語は、知的な意味を担う単語としてのモネーム(記号素)が、それ自身では意味をもたないフォネーム(音素)によって二重に構成されています。前者を第一次分節、後者を第二次分節といいます。
私たちが使っている言葉は「二重分節」の仕組みをもっていて、有限の記号要素の組み合わせで無限の語彙を作り出しています。「イ・ネ」や「イ・ヌ」というシニフィアンは、それぞれ「稲」、「犬」というシニフィエに結びつけられていますが、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは本来「恣意的」なものであるという認識がとても重要です。
スイス・フランスにおけるソシュールの言語学同様、アメリカの構造言語学でも、言語的相対論(Theory of linguistic relativity)が登場します(1920年代 サピア > 1930年代 ウォーフ)。言語はその話者の世界観の形成に関与する。違う言語を用いているならば世界観も違う・・というもので、主張の強さによって、以下の2つがあると言われます。
人間の基本的な感覚機能にもとづく空間認知などは言語によらず普遍性があるわけで、強い仮説(言語決定論)は、現代言語科学の主流派である A.N.チョムスキー(生成文法)や認知心理学の S.A.ピンカー(言語の自然選択説)などからの批判もあるようですが、複合的な身体感覚をともなう空間理解や、抽象度の高い概念のカテゴライズが言語に誘導されることは、ソシュールの言語観とも違和感がなく、文化の違いを理解する上では有効な仮説であると思います。
付記|映画「Arrival(メッセージ)」
時間というものが「言語によって存在喚起されたもの」だとすると・・。
これをテーマにした面白い映画があります。
「人間の思考が言語に規定される」というサピア=ウォーフの仮説に従えば、時制を持たない言語を持てば、認識される世界から過去・現在・未来の差異は消失する(あくまで映画の上での解釈)。ヘプタポッドの文字言語は「時制が存在しない」非線形の表意文字であり、扱うには高度な計算能力と非直線的な時間観念が必要となる。ルイーズはヘプタポッドの言語を学ぶにつれて、ヘプタポッドのように時間を超越し、未来を認識することができるようになっていった。
生成文法(Generative Grammar) は、アメリカの N・チョムスキーによる生物言語学の視点からの「統辞論(統語論)」です。チョムスキーらによれば、約8万年前(6万年前の出アフリカ以前)、生物としての進化の過程で、脳内に音と意味を結びつける離散的な計算システムとしての普遍文法(Universal Grammar)を獲得したことが、人間の言語能力のはじまりであるとされます。
母語を獲得する能力は、誰にも生得的に備わっている 人間の脳には「言葉の秩序そのもの」があらかじめ組み込まれていて、 人間が言葉を生み出すことの根底には、すべての個別言語に共通の 「普遍文法」(Universal Grammar)が存在する。 全ての言語は根本的には「同じシステム」を持っている。
統辞構造論(Syntactic Structures), 1957
生成文法の立場では、言語を司る「器官」として「心 / 脳のモジュール」を想定するとともに、言語学は 心理学・生物学の下位領域に位置づけられます。
{ 私は・{ { {赤い・表紙}・(の)本}・(を)読んでいる} }
SOV の構造を採用している日本語の文を、英語的な SVO の構造に置き換えてみましょう。多分、誰が聞いても意味は通じると思います。
プレーズ | 聴覚的印象 | 意味の伝達 |
私は、彼が学校に行くのを見た。 | ◯ | ◯ |
私は、彼が学校に行ったのを見た。 | △ | ◯ |
私、見た、彼、学校、行った。 | × | ◯ |
私、見た、彼、行った、学校。 | × | ◯ |
外国から移住する場合に「はじめに日本語学校で学ぶ」ということが一般化していなかった時代、彼らが使っていたカタコトの日本語は「単語は日本語・構造はSVO」というものが多かったように記憶しています・・
ちなみに、英単語を日本語の語順で並べた "I he school go saw."の意味が、英語圏の人に伝わるかについて、ChatGPTに聞いたところ、「これは非常に不自然な文であるため、通常のコミュニケーションでは使用されません。英語を話す人がこのような文を聞いた場合、言語的な誤りであることが明らかであるため、意味を理解するのは難しいでしょう。」という回答でした。
そこで、同じく ChatGPTに「I saw he school goes. と表現した場合はどうですか」と尋ねると、「この文も文法的に正しくありません。正しい英語の表現を使うと、「I saw that he goes to school.」となります。この文は、「彼が学校に行くのを見た」という意味になります」という回答。正しい表現にできる・・ということは、上位階層においてSVO となっている "I saw he school goes" の場合は意味は伝わるということかと・・・。
参考までに、上記の文の英語表現について、英語ネイティブの方(人間)に尋ねてみたところ、自然な表現は以下の順になるとの回答でした。
1) I saw him go to school ・・・最も自然な表現
2) I saw that he goes to school ・・・継続的な意味
3) I saw that he went to school ・・・一回限りの出来事を示唆
人間が使う言葉は、弓矢(弓+矢)という原初の道具と同様の木構造で、道具の発明と言語的思考の芽生えが同時期であったことが推察されます。
人間が生成する文は「主語・述語」のような、明確な2分岐が前提で、3分岐では内容が正しく伝わらないようです。例えば、以下のフレーズ・・
土曜と日曜の午後(いずれか、ご都合のよい時間でお願いします)。
この場合、土曜終日と日曜の午後なのか、土日のいずれも午後なのかの判断ができません。土曜・日曜・午後は3分岐ではなく、明確と2分岐にする必要があります。つまり、「土曜と、日曜の午後」あるいは「土曜と日曜 の午後」のように、明確な2分岐が必要です。一般に音声コミュニケーションの場合は、どこに「間」をとるかで、分岐が明示されることになります。
人間の思考は、言語に依存してツリー構造になるため、人間が作る道具・構造物・計画された組織は、再帰ツリー状になりがちですが、自然界に見られるサスティナブルな生態系は「小さな定常解放系が自律分散的に協調する」ようなかたちで成り立っています。私たち人間の体細胞も、脳を頂点としたツリー状にコントロールされているわけではなく、あらゆる細胞同士がリゾーム(地下茎)のように様々な物質交換を行うことで、全体がうまくいっているのです。
人間がデザインするものは、その意味で「不自然」なものになっている(だから人間社会はうまくいかない)ということを自覚するとともに、言語的思考を相対化したデザインの方法を検討する必要があると感じます。
関連記事 > ツリー構造とセミラティス構造
チョムスキーらは「言語というものは、コミュニケーションのツールとしてではなく、音を伴う思考のツールとして進化した(つまり他の生物の音声コミュニケーションとは一線を画する)」と考えます。実際、人間は、会話を中断することはできますが、思考を止める(無心になる)のは難しいものです。進化の過程で思考が自動的に発現するような演算回路が生まれたのだとすると、絵を描くことも歌うことも、ヒトに特有の再帰的なスタッキング回路を利用しているのではないか・・という「妄想」も生まれます。
昨今、何かと「コミュニケーション能力」や「クリエイティブな能力」が落ちていると言われますが、低下しているのはそれらの根源にある「思考する力=言語能力」ではないかと・・。長い文章が理解できない、あるいは本が面白くない(読めない)というのは、再帰ツリーとしての文章の把握に関して、スタックオーバーフローが生じているのかもしれません。臨界期(9歳ごろ?)までの言語活用経験の減少(入力される感覚刺激の多様化)によって、スタック演算回路が脆弱化、あるいはワーキングメモリーのサイズが小さくなっていることが原因であるとも考えられます。
付記:ちなみに、コミュニケーション能力というのは、関係構成力なので、個人に帰する能力というより、集団の能力ではないかと思います。いわゆる話下手な人でも、その人の語り口を理解できる人が集団の中にいれば、集団全体としてのパフォーマンスが下がることはありません。
言語の研究には、同一祖語からの歴史的な分岐系統を探る比較言語学(言語系統論)と、共通する特徴からいくつかの類型に分類する言語類型論があって、古典的な形態論的類型論では、世界の言語が一般に以下の4種類に分類されます。
膠着語(こうちゃくご)とは、助詞や接辞などの機能語が、名詞・動詞などの自立語に接続するかたちで、文が構成される言語のことです。
日本語は膠着語に属する言語で、例えば・・
私 は 京都 に 行っ た
という文では、「私」「京都」(名詞)や「行く」(動詞)などの自立語に、「は」「に」「た」といった機能語(それ自体は意味を持たない)が連結するかたちで、文が構成されます。
日本語の他に、韓国語、モンゴル語、トルコ語など、ウラル・アルタイ系の言語が、この膠着語に分類されます。
孤立語は、それぞれの単語が意味を担うとともに、文法的機能が語順によって示される言語です。
例えば、中国語では・・
我 愛 你
で、「私はあなたを愛している」という意味になりますが、「我」「愛」「你」すべてがそれぞれ意味を持つ自立語で、膠着語のように助詞などによる接続はありません。
中国語・チベット語・タイ語などが、孤立語に分類されます。
英語は、次の屈折語とされることもありますが、その特徴は失われつつあって、孤立語に近いとされています。
文の中での単語の変形が文法的機能を担う言語です。
例えば、フランス語では「aimer(好む)」という動詞が主語の違いによって変化します。
Je l’aime (私は彼が好き) Tu l’aimes (あなたは彼が好き)
また、時制(過去形・現在形・未来形)も語形変化で表現します。
Je l’aime (私は彼が好き) Je l’aimais (私は彼が好きだった)
フランス語・イタリア語などのラテン系言語、ギリシャ語、アラビア語、さらに英語などが、屈折語に分類されます。
ちなみに、日本語にも動詞の活用は存在するので、これらの分類は、完全にできるものではないと言えるでしょう。
名詞・副詞・動詞など、文の要素を組み合わせて、ひとつの語を作ることができる言語で、アイヌやエスキモーの言語がこれにあたります。
母音調和について
母音調和とは「単語の語幹に付く接辞の母音が、語幹の母音と同一グループの母音から選択される」というものです。母音のグループとは、口をあける・すぼめる(広・狭)、舌を口の前・後(前舌・後舌)などの特徴によって区分されるもので、発音労力を軽減すべく、口蓋の変化を少なくする「発音上のくせ」と考えられています。
上代日本語(奈良時代以前)には母音調和があるとされ、例えば現代の日本語においても、固有語と考えられる身体部位を表す言葉には同母音の連続が顕著に見られます。例えば・・
からだ(身体)、あたま(頭)、みみ(耳) 、はな(鼻)、ほほ(頬)、 かた(肩)、はら(腹)、ひじ(肘)、もも(腿)、しり(尻)など・・
ラ行と濁音について
奈良時代以前の上代日本語(文献の代表は『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』など)では、万葉仮名の分析から、現在の i, e, o の母音について2種類あったと考えられています。また、ラリルレロが語頭に立つ言葉はなく、濁音ではじまる言葉もなかったようで、今日用いられる、龍(りゅう)、礼(れい)、極楽(ごくらく)などは、いずれも漢語に由来します。
前段で紹介した言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)つまり「言語が我々の思考を決定する、あるいは我々の思考に影響する」という話は、これを強調しすぎると異文化間のを相互理解の可能性を否定してしまう点で賛否あるようですが、言葉が思考に与える影響を説明する上では有効な仮説であると思います。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 川端康成 著 The train came out of the long tunnel into the snow country. エドワード・サイデンスティッカー 訳これらの情景を絵にすると、日本語の場合、トンネルの向こうに雪の世界が見えている絵になるのに対し、英語の場合、汽車がトンネルから出てくるのを上空から眺めている絵になる・・という話があります。
名詞 + する > 動詞 名詞 + い or な > 形容詞 名詞 + に > 副詞一般に文には名詞と動詞が必要で、名詞の修飾を形容詞が、動詞の修飾を副詞が行いますが、そう考えると、名詞として取り込んだ外来語だけでも文が作れてしまう。これが日本語というシステムの柔軟性です。外国の文化・技術を柔軟に取り込んでいく日本人の特質は、ここに理由があるのかもしれません。
大和言葉とは、太古の昔から日本人が使い続けてきたと考えられる言葉です。日本語の文章の中の、漢語、外来語、また「〜する」という形の動詞以外のもの。つまり、大半の動詞、形容詞、助詞が大和言葉にあたります。例えば、訓読みする漢字とひらがなだけでできた文は、大和言葉の文です。
大和言葉ではないもの
ちなみに、今日、論理的な思考に用いる言語表現の多くは、音読みする漢字熟語が中心となっていて、これは大和言葉ではありません。
敬語に現れる大和言葉の性質
丁寧語に「お」をつけるものと「ご」をつけるものがあります。
好きな歌を口ずさんでもらえばわかると思いますが、歌詞の大半は大和言葉で書かれています。つまり、歌詞の中で漢字で表記される部分も「訓読み」になっていることが多い・・。
音読みの音(中国渡来の漢語)は、同じ音でも異なる意味のものが多数あります(かし:歌詞、菓子、可視、下肢、瑕疵)。音を聞いて、前後の文脈からこれだという「表意文字」を推測するというのは、音楽にとっては負担となります。
大和言葉の歌詞であれば、ひとつの発音が複数の意味を持つことはありませんから、音と同時に意味が伝わります。大和言葉=仮名=表音文字・・もともと日本人にとって言語とは、まず「音」なのです(だから「音読しなさい」といわれるのです)。
ちなみに、俳句も和歌も七五調。これは現代風に言えば8ビートです。
|●●●●●・・・|・●●●●●●●|●●●●●・・・|
この国(日本)には「言葉には霊的な力が宿る」という思想があります(残念ながら今日では、そのような感覚を持つ人は非常に少ないようです)。これを「言霊思想」といいますが、その世界観においては、声に出した言葉が現実の世界に影響を与えると考えられており、いい言葉を発すると良い事が起こり、逆にわるい言葉を発すると悪い事が起こるとされます。日本は言霊の力によって幸がもたらされる国なのです。
敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ 柿本人麻呂
日本の言霊思想では、言葉は発せられた時点で目的が達成されるので、伝えるための論理構造は必要ない・・、つまり日本語は情報伝達の手段としては弱い・・といえるのかもしれません。歌の中にある「あなたの・・」といった表現も、あなたを前にして伝えているというよりは、「ひとりごと」として語っている。歌会は、意見交換会ではなく、みんなの「ひとりごと」を鑑賞する会です。
参考:日本の映画・ドラマにおいて二人の関係(あなた)を描く時
・二人が敵対して言い合うとき、構図は対峙
・二人の関係が寄り添うとき、二人で同じ方向(海)を見ている
日本人はコミュニケーションが苦手だといわれます。現代国際社会においては、言葉はコミュニケーションの重要な手段のひとつであり、主語・述語を明確にして、情報をわかりやすく相手に伝えることが求められますが、日本語がこのような性質をもつ以上、コミュニケーションが苦手なのはあたりまえなのです。黙して語らない。少ない言葉数で、阿吽の呼吸で事を進める。そういうスタイルは国際社会では通用しませんが、でも、それが日本人の自然体なのではないでしょうか。
「俳句」を読むといつも感じることですが、素材を自由に切り・つなぎしてできる日本語表現のゆるさは、「映画」に近いのかもしれません。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
一般に日本人は、欧米式の論理的な文章構成が苦手だといわれますが、それも「言葉がゆるくつながる」日本的思考に慣れているせいと言えるでしょう。西欧文化を模範とした明治以降の日本社会では、そのような言語表現のゆるさは悪しきものとされますが・・・個人的にはゆるいのが好きです。
うた(作品)は詠み人(作者)のものではなく、発したと同時に誰のものでもない万の霊となる。こうした言霊思想が背景にある日本では、西欧流の著作権の考え方はなじみません。本歌どり、浮世絵構図の定型パターン、二次創作。そういえば「作者の死」を語ったバルトは日本好きでした。
自我のゆるさ、アンチパースペクティブ、視点の解体・・これらは、すべて共通しています。
歌をコレクションする、またそれを教養のひとつとして大切にするという知的価値観は、日本人に特有のものです。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、 見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、 いづれか歌をよまざりける。 力をも入れずして天地を動かし、 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、 男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。 紀貫之
日本人(倭人)は、漢字の伝来以前に固有の文字をつくることはなかったと考えられます(いわゆる「神代文字」は存在の確証が得られていません)。
参考:万葉仮名の事例
はじめに事物があってそれに名前がつくのではなく、言葉をつくること、すなわち「名付け」によって切り取られた事物が私たちの世界に立ち現れる。言語学におけるこの知見は、「名」がいかに重要なものであるかを教えてくれます。名付けること、名を知ること、名を変えること、複数の名をもつこと、いずれも私たちの社会生活において、非常に大きな意味を持ちます。
「この世で一番短い呪とは、名だ」といったのは、夢枕獏の小説「陰陽師」に登場する安倍晴明です。「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」です。
余談ですが、
Designの語源はラテン語の designare = 印を付ける、区分して描く
また、Designate = 示す、指示する、任命する、名付ける、呼ぶ
つまり、Design には文化を創造する・・という意味もあるのです。
ここで重要なことは、私たち日本人が、この2種類の文字が混在した文章に日常的に接している・・ということです。これは世界的にはめずらしいことです。文字それ自体が視覚と聴覚の両方に関わる特殊な情報体であると同時に、視覚優位の漢字と聴覚優位の仮名が混在するという点で、日本人の言語処理は視覚と聴覚の連携が非常に強いものになっている。マンガという日本独特のコンテンツの存在もそれを象徴しているといえます。
状態と音声とのリンクは世界共通。おそらく、発音の際の口の動きが体感としてリンクするものと考えられます。
GoogleImage:ブーバ キキ
言葉とは識神のようなものです。それは、私に代わって人をコントロールすることができます。例えば、誰かのデスクにメモを残す。文字は、時空を超えて私の代理を務めてくれます。
人間は言葉を通して世界を捉えているので、ある人にとっての世界とは、その人がもっている言葉そのものとも言えます。子供のころは、桜の花を見ても何とも思わなかったのに、桜の歌を知ると、桜の見え方が一変します。同様に、多くの文学と関わることが、世界をより豊かに見せてくれるのです。
多くの賢者が「本を読みなさい」といっているのはそのためです。それは単に国語の成績が上がるといったレベルの話ではなく、人生そのものを豊かにするための重要なヒントなのです。
お金でもない、名誉でもない、言葉が人を幸せにするのです。和歌において人が平等である。同様に言葉を使うことにおいて人は平等です。これだけは、誰にも妨害できるものではありません。
あなたの好きな言葉は何ですか?
ノートに書き写す、ツイートする、何でもかまいません。
言葉と言葉がきれいにつながると、脳内には快感物質が走ります。
その意味においても、言葉は人を幸せにします。