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Commons のバックアップ(No.7)


Commons

現代社会が失いつつあるもの



コモンズとは

コモンズとは、特定の個人や組織に所有されることなく、共同体全体が共有し利用する資源や空間のことを指します。私たちに身近な例では、世界中のさまざまな情報資源を集約するWebプラットフォーム Wikimedia Commons がそれにあたります。

コモンズは、地域社会において古くから人々の暮らしを支え、文化を育む上で重要な役割を果たしてきました。共同体によるコモンズの管理と活用は、持続可能な資源の利用や、社会の連帯感を深めることに貢献してきたと言えます。



失われつつあるコモンズ

子供たちの遊び場がなくなる・・

若い世代の方には、現在の状況が「あたりまえ」なので違和感を感じていないかもしれませんが、数十年遡れば、田んぼや雑木林は、子供たちが自由に遊べるコモンズでした。他人の土地で遊ぶということは今では想像がつかないかもしれませんが、山・川・海はもちろん、一部の私有地も自由な遊び場だったのです。今も残るコモンズといえば「神社」ぐらいでしょうか。遊び場という共有地が徐々に失われていったのには、大きく2つの理由があると感じています。

囲い込み

もともとコモンズとして共有されていたものを、「所有者」がその権限を発動して、他者による利用を制限する・・いわゆる「排他的所有」を主張する動きを「囲い込み」と言います。

この発想が最初に具体化したのは、16世紀のイギリスでおこった地主による牧場化のための農地囲い込みで、「エンクロージャ」という言葉として歴史の教科書にも出てくるので聞いたことがあると思います。それ以前、森に住む人々は、森の木を建材や薪として利用していましたが、それが突然できなくなった。「この森は私の土地だ。薪を拾うなら金払え」ということになったのです。お金がないと暮らせない・・自給自足の暮らしが不可能になったのです。この動きは人々の賃金労働者化を促し、産業革命を準備するきっかけともなりました。

18世紀の第一次産業革命期になると、資本主義的農場経営のための開放農地の囲い込みと、農民の賃金労働者化がさらに加速します(第2次エンクロージャーと言われます)。人口の増加、食糧需要の増大による穀物価格の高騰を受けて、地主・農業資本家が小生産者の開放農地(共同耕地)を囲い込み、土地を独占し、資本主義的農業経営を行った結果、広大な土地を所有する地主が、農業資本家に土地を貸与し、資本家が農業労働者を雇用するという資本主義的農業経営が一般化します。

ちなみに、知的財産権という発想も「アイデアを排他的に所有する」という、「囲い込み」の発想が情報の領域に拡大した結果と言えます。V.パパネックの有名な著書「生きのびるためのデザイン」でも語られているように*1、この発想はもともと健全なものとは言い難い・・と感じています。

国家という共同幻想について

地球上の土地は、国という組織体によって分割所有されています。あたりまえの事実ですが、なぜこうなったでしょうか?この現状は正解なのでしょうか?

(書きかけです)






コモンズを取り戻す

コモンズを取り戻す・・というと「共産主義」を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、私自身は「国家」という幻想には希望が持てないので「資本や財産などをすべて国のものして共有する社会体制 = 共産主義」とはスタンスの違う話として語っています。

土地は「神様」のもの・・と思えば世界は変わる

我々の世界を外部から見ている「超越者」がいるのか。シミュレーション仮説なども話題になっている今日、神様=超越者 の存在を想定することは、古いようで新しい話・・サイエンスのその先にある話でもあります。

多分いません。でも「いる」ということにすると、世の中の悪事や揉め事はかなり減るようにも思います。

土地は個人の所有物でもなく、国家の共有財産でもなく、神様からの借り物だと考える(感じる)のはどうでしょうか。この場合の神様は、◯◯教のような「経典(文字)」を持つ組織的なものではなく、世界をコントロールしているプログラマーでもありません。私が想定しているのは、もっと原始的な自然神で、アニミズムに見られる「あらゆるものに宿る神」のことです。

自然神の存在を措定すると、人々の考え方が変わります。

インターネットは救世主になるか

Linux に代表されるオープンソースソフトウエアやWikimedia Commons に代表されるオープンデータなど、国家の境界を超えて共有されるコモンズがインターネットというテクノロジーによって生まれました。私たちが最近よく用いるようになった「シェア」という言葉は、コモンズのシェアと言っても過言ではありません。

テクノロジーの発展は、その利便性を上回るリスクを生み出すもので、インターネットがもたらした社会問題や破滅へのリスクも大きなものと言わざるをえませんが、他のテクノロジーと異なるのは、それがオープンな思想、つまり「囲い込み」とは逆の発想で運用されているということです。

このテクノロジーは、その技術仕様が標準化されているだけで、所有者や特権的管理者がいるわけではありません。インターネットは、その仕様に則った世界中のサーバーコンピュータが、それぞれ勝手に手をつなぐことで実現された構造体で(もちろんIPアドレスの管理は一元的に行われていますが・・)、人間の脳と同様に、常にそのつながりの強弱が更新されています。

(書きかけです)