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Commons のバックアップ(No.9)


Commons

現代社会が失いつつあるもの



コモンズとは

コモンズとは、特定の個人や組織に所有されることなく、共同体全体が共有し利用する資源や空間のことを指します。私たちに身近な例では、世界中のさまざまな情報資源を集約するWebプラットフォーム Wikimedia Commons がそれにあたります。

コモンズは、地域社会において古くから人々の暮らしを支え、文化を育む上で重要な役割を果たしてきました。共同体によるコモンズの管理と活用は、持続可能な資源の利用や、社会の連帯感を深めることに貢献してきたと言えます。



失われつつあるコモンズ

子供たちの遊び場がなくなる・・

若い世代の方には想像がつかないかもしれませんが、数十年前、田んぼや雑木林は、子供たちが自由に遊べるコモンズでした。山・川・海はもちろん、一部の私有地も自由な遊び場だったのです。今も残るコモンズといえば「神社」ぐらいでしょうか。遊び場という共有地が徐々に失われていったのには、大きく2つの理由があると感じています。

囲い込み

もともとコモンズとして共有されていたものを、「所有者」がその権限を発動して、他者による利用を制限する・・いわゆる「排他的所有」を主張する動きを「囲い込み」と言います。

この発想が最初に具体化したのは、16世紀のイギリスでおこった地主による牧場化のための農地囲い込みで、「エンクロージャ」という言葉として歴史の教科書にも出てくるので聞いたことがあると思います。それ以前、森に住む人々は、森の木を建材や薪として利用していましたが、それが突然できなくなった。「この森は私の土地だ。薪を拾うなら金払え」ということになったのです。お金がないと暮らせない・・自給自足の暮らしが不可能になったのです。この動きは人々の賃金労働者化を促し、産業革命を準備するきっかけともなりました。

18世紀の第一次産業革命期になると、資本主義的農場経営のための開放農地の囲い込みと、農民の賃金労働者化がさらに加速します(第2次エンクロージャーと言われます)。人口の増加、食糧需要の増大による穀物価格の高騰を受けて、地主・農業資本家が小生産者の開放農地(共同耕地)を囲い込み、土地を独占し、資本主義的農業経営を行った結果、広大な土地を所有する地主が、農業資本家に土地を貸与し、資本家が農業労働者を雇用するという資本主義的農業経営が一般化します。

現代社会においては、これが「公共サービスの民営化」によって加速しています。また、知的財産権という発想も「アイデアを排他的に所有する」という、「囲い込み」の発想が情報の領域に拡大した結果と言えます。V.パパネックの有名な著書「生きのびるためのデザイン」でも語られているように*1、この発想はもともと健全なものとは言い難い・・と感じています。

囲い込みがもたらす問題

コモンズをどう守るか?

コモンズは、単なる資源ではなく、人々の暮らしや社会のあり方を形作る重要な概念です。囲い込みの問題は、私たち一人ひとりが向き合うべき課題であり、持続可能で公平な社会を実現するためには、コモンズの価値を再認識し、その保護に努めることが不可欠です。

コモンズを取り戻す

コモンズを取り戻す・・というと「共産主義」を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、私自身は「国家」という幻想には希望が持てないので「資本や財産などをすべて国のものして共有する社会体制 = 共産主義」とは異なるスタンスで語っています。

囲い込めないものにこそ価値がある

資本主義社会では、囲い込めないものは金にならないので、その利活用に関する知識や技術が停滞します。例えばエネルギー。石油は掘削する土地を所有するものが権利を主張しやすく、また、得られた資源もドラム缶に詰めることで明確に所有権を主張することができますが、太陽光、風力、地熱といった自然エネルギーは、境界を設定しづらく、排他的所有権を主張しにくい。境界がはっきりしないことによる揉め事が絶えず、事がなかなか進みません。

しかし、大気、水も、太陽光、風力、地熱・・「商品」にはなりにくいコモンズとしての自然エネルギー資源に注目し、それらをうまく活用すべく、公的資金を投入すれば、より少ない環境負荷でエネルギーを得ることが可能になるのではないでしょうか。

例えば、アイスランドは再生エネルギー100%。その3割を担う地熱発電には日本企業の技術が使われているのですが、地熱資源量が世界第3位と言われる日本では、温泉事業者との調整が必要などの事情で地熱の活用が進んでいません。技術があるのにそれが使えない日本。何でもかんでも民営化では、この種の問題は解決できません。公的な組織がそれを推進する必要があります。

土地は「神様」のもの・・と思えば世界は変わる

我々の世界を外部から見ている「超越者」がいるのか。シミュレーション仮説なども話題になっている今日、神様=超越者 の存在を想定することは、古いようで新しい話・・サイエンスのその先にある話でもあります。

多分いません。でも「いる」ということにすると、世の中の悪事や揉め事はかなり減るようにも思います。

土地は個人の所有物でもなく、国家の共有財産でもなく、神様からの借り物だと考える(感じる)のはどうでしょうか。この場合の神様は、◯◯教のような「経典(文字)」を持つ組織的なものではなく、世界をコントロールしているプログラマーでもありません。私が想定しているのは、もっと原始的な自然神で、アニミズムに見られる「あらゆるものに宿る神」のことです。

自然神の存在を措定すると、人々の考え方が変わります。

インターネットは救世主になるか

Linux に代表されるオープンソースソフトウエアやWikimedia Commons に代表されるオープンデータなど、国家の境界を超えて共有されるコモンズがインターネットというテクノロジーによって生まれました。私たちが最近よく用いるようになった「シェア」という言葉は、コモンズのシェアと言っても過言ではありません。

テクノロジーの発展は、その利便性を上回るリスクを生み出すもので、インターネットがもたらす社会問題や破滅へのリスクは大きいと言わざるをえませんが、他のテクノロジーと異なるのは、それがオープンな思想、つまり「囲い込み」とは逆の発想で運用されているということです。

このテクノロジーは、その技術仕様が標準化されているだけで、所有者や特権的管理者がいるわけではありません(もちろんIPアドレスの管理は一元的に行われていますが)。インターネットは、その仕様に則った世界中のサーバーコンピュータが、それぞれ勝手に手をつなぐことで実現された構造体で、人間の脳と同様に、常にそのつながりの強弱が更新されています。

異文化の相互理解、多様性の承認、インクルーシブ、シェア、脱成長・・
インターネットに親しみ、オープンな情報共有のメリットを体感することで、人々の社会に対する考え方が少しづつ変わってきているように感じます。



APPENDIX

国家という「囲い」について

地球上の土地の大半は、国家という組織体によって分割所有されています(ただし南極大陸は1959年に締結された「南極条約」に基づいて世界のどの国の領土にも属さない大陸、北極は国際法上では「公海」)。あたりまえすぎて、考えることもないかと思いますが、なぜこうなったでしょうか?この現状は人類にとって正解なのでしょうか?

第2次大戦後の日本で育った私たち日本人にとって、海に囲まれた日本という国の境界はわかりやすく、日本語を使う人がそのエリア内で数千年にわたって生活し続けているので(日本は現存する国家の中では世界最古)、国家の存在はあたりまえすぎて意識することもないのですが、世界を見ると、国家の枠組みは離散集合を繰り返していて、その境界をめぐって常に争いが生じています。土地は、それ自体が資源を含む生産力を持ったものなので、集団の心理としては、それを拡大したいと考える国家があっても不思議ではありません。

簡単な思考実験でわかりますが、国家という枠組みがなければ(国家を運営していると思っている政治家がいなければ)大規模な戦争は起きません。核兵器をつくるには莫大なお金が必要で、これは小さな集団では不可能です。個人のレベルでは誰も戦争をしたいなどとは思っておらず、むしろ文化のレベルで世界に友達をつくろうとしているし、兵士にしても、自らの感情で他国と戦っているのではなく、上からの命令に従っているだけ。要するに「国家という幻想」(あるいは同様の幻想である宗教的なつながりによる大規模な集団)が戦争を生み出していると言っても過言ではありません。

国家というのは恐ろしいものですからね。手が付けられませんよ。梅棹 忠夫

「世界都市関西」シンポジウム特別講演録 帝国と国家の解体

一方で現状を見ると、資本主義経済圏においては、規制レベルに差はあるものの外国人が土地の売買をできる国は多数存在します。インターネットで世界中のモノが簡単に買えるように、グローバル化した経済圏の中では土地も「商品」として買えるわけで、要は「お金持ち」であれば、戦争をするまでもなく、国境関係なく事実上土地を囲い込める(排他的所有権を主張できる)というのが現状です。武器買うお金があるんだったら不動産屋に行けばいい・・。

国境という囲いにしても、「商品」として扱われる土地にしても、人間の排他的所有欲の現れなのかもしれませんが、地球上に共に暮らす生き物として、もう少し謙虚になれないものですかね。好き勝手してると必ずバチがあたると思うんですが・・。「足るを知る」昔の人の方がずっと賢いような気がします。