構造主義
価値は所与のものではない
はじめに
ここでは、構造主義についてまったくの素人の私が、構造主義的な考え方について紹介します。いろんなキーワードが出てきますが、厳密な使い方はしていません(というより、原著の言葉使いは難しくて理解できません)。でも、ざっくりとした言葉使いでも「ああなるほどね」と理解することはできるし、その考え方を応用して面白いことを発想することもできます。人生、楽しめる程度に賢ければいい・・というのがここでの、というか私の基本的な姿勢です。*1
構造主義(Structuralism)とは、1950年代前後にヨーロッパに登場した20世紀を代表する現代思想・方法論です。とはいっても、それはもともと人類社会に共通する基本原理みたいなものですから、その意味では1950年代に「発明された」のではなく「発見された」のだと考える方がいいかもしれません。
「主義」とつくことから、何かの「イデオロギー(政治思想・社会思想)」のようにも見えますが、そうではありません。構造主義とは、言語学、精神分析学、文化人類学、社会学など、様々な学問分野においてあらゆる現象を理解・制御することができる「方法論」のひとつです。
日本では、戦後になって、近代主義(モダニズム:西欧中心、個人中心、技術振興)の考え方と同時期に入ってきたので、学校の教科書ではこれらがごちゃまぜで、他人事のように紹介されてしまうのですが、ヨーロッパにおいては、思想の時系列は他人事ではありません。構造主義は、近代主義を徹底的に批判する考え方として登場したもので、それは西欧の人々の世界観を大きく覆すものだったのです。
簡単な例で説明しましょう。デッサンでおなじみの透視遠近法。これは、近代的な世界の捉えかたを象徴するものです。視点を一箇所に定めて世界を眺める。裏がえせば、私の視点を明確にする、つまり個人としての私の存在を強く意識する・・ということです。権力から解放され、個人が自由になるということは、当時の人々にとっては画期的なことで、私を世界の中心に置くという発想は、政治・宗教・芸術と、あらゆる場面で歓迎されたわけです。しかしそれも、度を過ぎると、自分中心、西欧中心、自分たち以外は野蛮なもの・・という考え方が普遍的になってしまう。そこに登場したのが、「自分たちの考え方だけが正しいわけではない、視点を相対化せよ」とする構造主義です。構造主義は近代人の傲慢さに警鐘を鳴らす思想として登場したわけです(その意味で構造主義は「ポストモダン」の思想として位置付けられます)。透視遠近法から視点の多様化へ、ピカソの絵に象徴される視点の移動というのも、こうした近代主義への批判が背景にあると考えられます。
構造主義の背景には、射影幾何学があると言われます。遠近法をヒントに生まれた射影幾何学では、視点(主体)を移動させることによって、対象に潜む「構造」を抽象します。それは特定の視点からの「見た目」では捉えることのできない物事の本質、意識には上らない無意識の世界の構造を探る思考です。近代主義の行き詰まりの中で登場した構造主義思想の根幹には、「自らを相対化し、多様なありかたを認め、それらを同等に評価することではじめて、世界の仕組みが見えてくる」という考え方があるのです。
構造主義には「賞味期限」はありません(多分)。この考え方を手にいれれば、世界はずっとクリアに見えるようになるし、また新しい価値を生み出す面白い発想もできるようになるでしょう。
付記
ホモ・サピエンス(我々人類)のことを「万物の霊長」ということがあります。最も優れた存在であるかのような言い方ですが、とんでもない勘違いだと思います。ホモ・サピエンスは共同幻想の中に生きる「異端のサル」。時代の常識に洗脳されていて、視点を変える(常識を疑う)ということがなかなかできない。「特定の言語」を使って考えているという時点で、すでにその言語の枠組みや思考方法から逃れることができないわけですから、基本的な「洗脳状態」からは逃れようがないのかもしれません。でも、あらゆる物事に対して「そもそも何で?」という疑問をもつようにしなければ、文明は暴走してしまいます。
価値は所与のものではない。視点を相対化せよ。これは、我々人類が間違いを犯さないために、常に念頭に置くべき標語だと思います。
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構造主義のエッセンス
さて、その構造主義の基本的な考え方とは、「人間の思考や世界認識は、彼が使う言語、彼が属する民族や国家の構造に規定される」というものです。これはそんなに難しい話ではありません。例えば、もしあなたが「自国の常識だけが正しいわけではない。世の中にはいろんな考え方があって、それぞれに言い分があるようだ・・」というふうに考えることができるとすれば、あなたはすでに構造主義的な考え方をしているといえるでしょう。
その意味では、構造主義の考え方は、多くの人に共有されているのですが、それでも十分に浸透しているとは言い難いのが現実です。例えば、「犬を食べる」という食文化を持つ民族に対して「とんでもない、なんて野蛮なんだ。時代遅れだ」などと腹を立ててしまう人は多く存在します。
構造主義を学んだ人であれば、「犬も牛も鳥も生命の重みに違いはない。食用や非食用かの違いに科学的な根拠などなく、文化の違いが価値の差を生み出しているにすぎない」というふうに考えることができるでしょう*2。
構造主義にはもうひとつ重要な論点があります。それは「意味や価値は所与のものではなく、要素間の関係において生成する」というものです。
事物とその名称の関係について、多くの人は「世界には様々な事物が存在していて、人間がそのひとつひとつに名前を与えていった」と考えます。「神があらゆる事物に名を与えた」という宗教的な世界認識が前提にあればなおさらです。でも、様々な言語を研究した言語学者や、「未開」社会の暮らしを調査した文化人類学者が、そうではないことに気づいた。はじめに事物があってそれらに名前がつけられたのではなく、言葉の存在(差異)が環境や事物を区分けして、世界を立ち上がらせたのだと。「言葉は『ものの名前』ではない」。構造主義の祖といわれる言語学者ソシュールの言葉です。
私たちが目の前の事物に見いだす意味や価値は、はじめからあったのではない。私たちが見ている世界は、言語(記号)によって切り分けられ、再構成された擬似的な現実(共同幻想)だというわけです。
簡単な例を紹介しましょう。私たちの顔のまんなかにある「鼻」とはどのような部分でしょうか。こう問われてはじめて、どこにその境界があるのか実はよくわかっていないということに気づきます。結論からいうと、これは言語圏(文化圏)によって異なります。例えば"nose"という単語は我々日本人がいう「鼻」とは違って、おでこのあたりまでを含みます。つまり"nose"の訳は「鼻」ではありません。完全な翻訳ははじめからできないのです。
英語圏の人が描く漫画の顔が、日本人の描くものと異なるのは、顔を部品に分解する際の境界線の位置が違う・・つまり、もともと「顔の見え方」が違うからです。
こんなふうに構造主義的な見方をすると、私たちにとっての「世界」とは絶対的なものではなく、擬似的に再構成された仮想の現実であることがわかります。
構造主義を考えるキーワード
とりあえず、リンクでご紹介します(時間のあるときに解説を追記します)。
- 汎時的文化と特定共時的文化
人間の「文化」は以下の2つの位相を持ちます。
- 汎時的文化(コスモス)
インセスト・タブー、カニバリズムの禁忌など、禁止=交換の命令、すなわちコミュニケーションの成立、社会共同体の形成につながるルールで、人類すべてに共通に見出されるものです。
- 特定共時的文化(ノモス)
当該文化圏にのみ見られるタブー、表層の言語(ラング)、硬直化・惰性化した「常識」を意味します。
ノモスは<構成された構造>としての特定共時態であり、コスモスはこれをも包摂する流動的な文化であるところの<言分け構造>である。ノモスは、コスモスの発生状態における流動性とダイナミズムが、硬直化し惰性化し物象化した制度であり、静態的・閉鎖的なコードであると言ってもよい。
丸山圭三郎, 文化とフェティシズム, p.90
関連する人物と著書(前構造主義〜構造主義〜ポスト構造主義)
- カール・マルクス(1818-1883)|経済学「資本論」
- フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)|哲学「道徳の系譜」
- ジークムント・フロイト(1856–1939)|精神分析学「精神分析入門」
- フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)|言語学「一般言語学講義」
- マルセル・モース(1872-1950)|社会学「贈与論」
- ロマーン・ヤーコブソン(1896-1982)|言語学「一般言語学」
- ジャック・ラカン(1901-1981)|精神分析学「エクリ」
- クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)|文化人類学「親族の基本構造」
- ポール・リクール(1913-2005)|哲学「時間と物語」
- ロラン・バルト(1915-1980)|記号学「零度のエクリチュール」
- ルイ・アルチュセール(1918-1990)|哲学「資本論を読む」
- ミシェル・フーコー(1926-1984)|哲学「言葉と物」「監獄の誕生」
- ジャック・デリダ(1930-2004)|哲学「エクリチュールと差異」
- ジュリア・クリステヴァ(1941- )|記号学「セメイオチケ」
構造主義的思考|未整理メモ
言葉と意味
- 自由に思考することは難しい
- 私たちはいつの時代においても、あるイデオロギーが「常識」となった「偏見の時代」を生きている。その社会は非・常識を無意識的に排除しており、通常は意識の上ることもなく、思考の対象にもなっていない。人はまずこのことに気づくべきである。思考は自由ではないのだ。
- フロイトは言っている。「意識というものは、私が置かれた文脈にとって不都合・無関係な記憶や思考を無意識に追いやって鍵をかける」という仕組みをもっていると。はたから見れば「逃げればいいのに」と思えることでも、その文脈に置かれた「私」には「逃げる」という発想が出てこない。私の自我は他者によって規定されているので、その他者との関係を根本から解体するという発想は出てこないのである。関係の修復に必死になってしまうと、関係を切ればいいという発想自体が出てこない。自殺の原因のひとつがここにある。
- 人は自ら進んで奴隷になる生き物である
- 人はなぜ組織に洗脳されるのか。人は「私」という「幻想」を安定させてくれる人間関係を求めている。私の自我を安定させてくれるのであれば、人は自ら進んでその奴隷になるのだ。
- 奴隷の最大の特徴は自らが奴隷であることに気づかないことである。どんな組織であっても、そこが自我の成立基盤になっている以上、そこから離れるという発想自体が抑圧されている。
- 同時代の常識を疑うこともせず、みなが同じ方向を向いて群れる。ニーチェはこのような非主体的な群衆を「畜群」と名付けた。畜群道徳の基本はひとつ。「他の人と同じようにふるまう」ことである。ニーチェはここに喜びを感じる人間のことを「奴隷(sklave)」といった。
- 言葉は「ものの名前」ではない。F.ソシュール 「一般言語学講義」
- 「蝶」と「蛾」には分類上の区別はないが、日本人はこれらを区別している。「こういうのが蝶」、「こういうのが蛾」、と異なる名を使ってコミュニケーションするうちに、自然にそれらが「対象化」される。世界に共通する生物学上の明瞭な区分があるわけでもないのに、日本では見た目の特徴から2者が区分けられて、蝶という名を与えられた対象は好まれ、蛾という名を与えられた対象は忌み嫌われる。これが文化というものだ。ちなみにドイツ、フランスではすべてpapillon(パピヨン)であってこれらに区別はない。
- 「対象」ははじめから存在するのではない。名付けられることによってはじめて「対象化」されるのだ。
- 我々には名付けられていないものは見えない。もちろん網膜像上にはあるが、意識化されない、意識のフィルタを素通りしてしまうという意味だ。
- 我々がいきいきとした意味を感じるのは、言葉のセットが対象を切り分けて意味が生まれる瞬間である。「分かった」というのは、文字通り脳内で「分離」が生じるということである。
- 一方、我々は名前を得て対象をつかんだと思ったとたんに、生の「もの」を見なくなってしまう。網膜に映るものは「名前」に置き換えられて処理されるという単純な回路にはいってしまう。こどもの頃にあらゆる事物に対して感じた「いきいきとした感覚」はもはやそこにはない。
- ちなみに、このいきいきとした事物との関係を取り戻す方法は・・・ある。それは、その事物から既存の名前・意味を剥奪する方法である。偏見をもたない機械の目としてのカメラ(写真)を通して見ること、日常とは異なる文脈にその事物を置いて眺めること(デュシャンのレディ・メイド)、事物は日常的な意味を一旦失うことで、それそのものとしていきいきと意識に立ち上がってくる。
- 意味は関係において生まれる
- 信号の「赤」は「青」との関係においてのみ、「止まれ」という意味をもつ
実際に赤いか青いかは関係ない。必要なのは色に差異があること。
※ちなみに、信号の「赤」に対して美しいという価値が生じるのは、写真や映像になったとき。つまり日常(交通ルール)とは異なる文脈に置かれたとき。
- Designの語源のラテン語Designareは、de+signであり(deは,from, out of, descended from, derived from, concerning, because of, according to, in imitation of, などの意味)、 記号を表出する行為、表出された記号自体、対象や意味を明確に示す行為、他との境界を限定して形状をはっきり示す行為、対象や意味に相当する代理物を用意すること、複写や記述、表示する要素の選択、 特定の対象や意味に他者の注意を向ける作為、感覚器官で捉えられうる刺激の集合によって対象や意味を代替えする行為、をさす。(参考:記号学大辞典)
- 作品は作者の創造物であるという発想は、「神」の文化がもたらした。
- 人間は神によって創造された。この発想が「作品とは作者の創造物である」という「著作権」の大前提となる発想を生み出している。
- 著作権の発想は、神の行いが文書(聖書)として敷衍した西欧社会に生まれたもので、アジア・日本で「常識」となったのは最近のことである。
- あらゆる作品は、既存の作品、既存の言説の織物であり、作者が自分の作品についてすべてを知っているわけではない。
- 偶然でもパクリでもない、作品が似てしまうことには「必然」もある。
- 日本語は主語がなくても使える言語。会話というより「ひとりごと」のように使用される日本語には「作者」の存在は希薄である。日本語の構造が「作者」の存在を西欧とは異なるものにしている。そこには西欧的な著作権の発想は馴染まない。
- ロラン・バルトは「作者の死(『物語の構造分析』に収録)」や『テクストの快楽』において、「作者=作品の創造主」という考え方に疑問を投げかけている。私たちは、ある芸術作品の意味を作者に求めたがる。これは「作品の鑑賞=作者の意図を正確に理解すること」という発想であるが、しかしバルトは「作者=神」ではないという。作品とはさまざまなものが引用された織物であり、そこに意味を見いだすのは読者なのである。自身の文章が国語の試験問題に採用された際、作者が「作者の意図」を理解できないケースは多い。
- ロラン・バルトは今から30年も前に、コピーライトというものを原理的に否定する立場を明らかにしていた。
- 「テクストとは「織り上げられたもの」という意味。・・今後私たちはこの織物は生成的なものであるという考え方を強調したい。すなわち、テクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げてゆくのだ。主体はこの織物に呑み込まれて解体する。」(テクストの快楽)
- 「テクストは様々な文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話を交わし、模倣しあい、いがみ合う。しかしこの多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。」(作者の死)
- 我々は今、インターネットの存在によって、古典的な意味でのコピーライトの発想が根本的に無意味であることに気づきはじめている。
- ロラン・バルトは、意味の充填を欲しない「零度のエクリチュール」こそが美的価値をもつといい、日本の俳句を高く評価した。
- ヨーロッパの言語は対象を裸にして、すべてを露出させ、意味を充満させることを目指す。その意味で、対象を「欲情」する言語である。
- 一方、日本の俳句は「語法の刻印を押された秩序へのいかなる隷従からも解放された白いエクリチュール」であり、「俳句を詠むという営みは、言語を欲情させることではなく、言語を中断すること」である(ロラン・バルト「表徴の帝国」)。
- 西欧は「意味の帝国 」:記号に意味を充填することを欲する西欧の言葉
- 日本は「表徴の帝国」:記号を記号のままで保留する日本の言葉(俳句)
- 日本では「ものを考えること」が「世界の認識」ではなく、人が生きる上でのある境地を目指す。日本の仏教にも儒学にもその傾向があり、禅、俳句や和歌もその方向を向く
- 「有の思想」:世界は区別される、収集して手に入れる(博物学の誕生)、世界のすべてを見聞したい、欲望の膨張、帝国主義・植民地主義、拡張の論理
- 「無の思想」:一期一会、私とものが溶け合う、芭蕉の旅、利休の茶、無の場所に於いてある、ひとつのものとの邂逅にそのすべてがある
参考:「西田幾多郎」佐伯啓思
- 身体もひとつの社会制度として構造化されている
私たちは、自分の体の動かし方、姿勢というものが、文化的に矯正されたものであることに気づいていないことが多い。
- 「歩く」という身体動作も「文化」の支配下にある。現代人の歩行「ねじり歩き」は軍隊式の教育訓練によって身についたものであり、ホモサピエンスの自然体というわけではない。農耕、長距離歩行にはナンバの方が向く。ねじりは速く走ることに向いているが、そもそも人類は速く走ることを生存戦略としたわけではなく、走る必要自体がない。ねじり歩きは生物としての自然体ではなく、つくられた標準形である。おそらく自然体では、手を振る動作はあまり関係がなく、絵巻などを見ても、人が逃げ惑うシーンでは、人は両手を挙げている(藤子不二雄の漫画にも多い)。
- 日本人は江戸時代まではナンバ歩きをしていた。これを矯正したのは明治政府である。(ナンバ歩きが常態であったかについては、映像資料がなく推察の域を出ないのですが、絵巻、浮世絵等では多くの人がナンバのかたちで描かれています。ちなみに、佐川急便の旧マーク・飛脚はナンバになっています。)。
- 体育座りは、手を動かせない、首もまわらない、大きな呼吸もできない。人を最も拘束する姿勢である。この形で整列するのは日本ぐらい・・
- 「肩こり」と"Pain in the Back"
事務作業等で首のうしろから肩、背中へかけての部位が凝る、痛むなどの現象を日本人は「肩がこる」といい、アメリカ人は"Pain in the Back"という。実際には部位のはっきりしない現象に対し、異なる言葉が与えられることで、日本人は肩に痛みを感じ、アメリカ人は背中に痛みを感じるようになる。これも文化の違いである。
「私」
- 私を成立させるのは他者である
- 夫としての私、父としての私、社員としての私、同窓生としての私、猫の飼い主としての私・・
- 私は置かれた文脈において「私」になる
- 私は常に今置かれた場所でふるまうに必要な記憶をアクティベートしている
- 自我は所詮、他との関係において生じる「幻想」にすぎないので、自我の前提となる「他者」がいなくなれば、簡単に崩壊する。
- 人格も性格も所与のものではない。
- 初めての出会いに恐怖が先行するか好奇心が先行するか・・といった生物としての基本体質のような部分は、ある程度生得的(遺伝的)な性格の一部であって、それは所与のもの考えられますが、「この人はこういう人である」というときの性格というのは、彼がどんな人間関係の中に置かれているかで大きくかわります。職場では目立たない人が、地域のサークルではリーダー的な存在・・というような話はよくあります。「私」の性格とは、私に付随するものではなく、他者との関係において生じるのです。
- 「いい人」というのはいません。「いい人間関係」があるだけです。
- 才能は所与のものではなく、それが置かれた場所で生まれる
- 置かれた場所で咲きなさい / 働くとは「傍を楽にする」ということ
共同幻想
- 我々は共同幻想を生きる存在です。幻想であるから安定しない。それを安定させるには「動かし続ける」必要があります。生命現象と同じく「動的状態」が必要なのです。そのためには、あえて構造を破綻させ、バランスを崩す必要があります。
- 多くの人間社会は、秩序を組み換えるための仕組みを、別の方法で用意していました。「社会を同一状態に保たない」ための仕組み、それが祝祭であり、芸術です。このような方法で、既存の価値を転倒、あるいはゆさぶる行為は、社会の動的状態を保つの最も平和的な方法といえます。
共同幻想の維持のためには、更新しつづけるか、拡大か・・・。今は拡大(グローバル化)の戦略がとられていますが、拡大の先には破綻があるだけです。秩序は固く維持されると、大きな力で破壊しなければならなくなります。はじめからゆるくしておくのが賢明です。
交換と価値
- すでに価値のあるものは、交換されにくい。そこで人類は、それを独り占めしないためのルールとして「禁忌(タブー)」を設定した。親族を成立させる婚姻関係について、人類すべてに共通するのは唯一「近親相姦の禁止」である。これは生物学的根拠にもとづくものではなく、人を交換することによる親族関係の構造化のためのルールである。
クロード・レヴィ=ストロース「親族の基本構造」
- 侵犯してはいけない=「とっておく・将来に備えた蓄積」というのは人間に特有の現象である。そこには人間特有の「予見する力」が効いている。
禁忌・タブーの起源には、「本来人間がそれを欲している」「ほおっておくと奪い合いになる」ということが前提にある。
- 贈与と返礼はすべての人間社会に共通に見い出される。その効果のひとつは「社会を同一状態に保たない」ということである。レヴィ=ストロースによれば、人間の作り出すすべての社会システムは「同一状態にとどまらないように構造化されている」。存在しつづけるには、絶えず変化することが必要なのである。以下2種類の社会、いずれもが、構造的な「変化」を確保するような社会構造を持っている。
- 熱い社会:絶えず新しい状態へと歴史的に変化する社会(文明社会)
- 冷たい社会:歴史的変化を排除し、新石器時代と変わらぬ無時間的な構造を維持している社会(野生の思考が領する社会)
- 贈与交換:人が求めたのは物資ではなく、他者に認められること。
贈与交換が主であった時代、物資は拡散し、争いはわずかであった。
- 価値のあるものが交換されるのではない。交換によって価値が生まれるのである。交換とは価値の創出のためにある。 M.モース「贈与論」
- コミュニケーションは、受け取った側が「贈り物」と勘違いすることからはじまる。贈り物は、等価に交換できない、「価値のわからないもの」であることが重要である。等価交換では、そこで話が終わってしまう。
- サル同士は贈り物をしない(多分)。しかし、人間と犬の間には、贈り物・コミュニケーションがあったのではないか(家畜化と言語の誕生)。
- 人間の自我の安定は、他者からの「ありがとう」によって成立する
- 感謝を契機としてコミュニケーションを立ち上がらせる最大のシステム・・それが「神」である。
- 価値は所与のものではない
- 誰かがその存在に「感謝」することで、はじめて価値が生じる
- どんなものにも価値が生じる可能性がある
- 「こちらのゴミがあちらの宝」になる例はいくらでもある
意味も価値も所与のものではない。何かが差異化され、区分けられ、名づけられると同時にそれが生まれる。だとすれば、価値はいくらでも生成できる。組み合わさることのなかった何かと何かを組み合わせて、そこに何らかの「関係」ができれば、新たな意味・価値が産み落とされる。つまり、何でもネタにできるのだ。創造するということは、とても簡単に、そして無限に可能なのだ。これを楽しまない手はない。
参考
- akademeia.info|構造主義
- 内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書
- 丸山圭三郎「言葉とは何か」ちくま学芸文庫
- 岸田秀「ものぐさ精神分析」「続・ものぐさ精神分析」中公文庫
- 橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社現代新書
- 池上 嘉彦「記号論への招待」岩波新書
- 浅田彰「構造と力―記号論を超えて」勁草書房
- ロラン・バルト(宗 左近 訳)「表徴の帝国」ちくま学芸文庫
- ロラン・バルト(渡辺淳・沢村昂一訳)「零度のエクリチュール」みすず書房
- 「現代思想のキーワード」 宝島社
- 「現代思想入門 I, II」 宝島社