ソーシャルデザインとは、人と社会が抱える様々な問題に「気づき」、「伝え」、そしてその解決策を持続可能な方法をもって「提案する」活動です。
まずは半径10m。自分が暮らす身近なところから世界を変えていく…。
山路を登りながら、こう考えた。 知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。 やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。 あれば人でなしの国へ行くばかりだ。 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越すことのならぬ世が住みにくければ、 住みにくい所をどれほどか、くつろげて、 束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 ここに詩人という天職できて、ここに画家という使命が降る。 あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、 人の心を豊かにするがゆえに尊い。草枕|夏目漱石
21世紀を迎え、社会と学術の接点がますます広がっている。 学術の成果が社会を変え,変わった社会が学術の新しい在り方を求める という,ダイナミックな変化が起こりつつある。 そのプロセスは、一方では人類にますます快適な生活を保障するものの、 他方では環境問題を深刻化させ、人類の未来に暗い影を投げかけている。 「持続可能な発展」を実現することは、地球が有限であるという認識が 行き渡ったことから生まれた未来への手詰まり感を克服するため、 国際的に広く合意された課題である。 この困難な課題を達成するためには、あらゆる学術を動員すること、 またそれが効果的に行われるためには 「Science for Science(知の営みとしての科学)」と並んで 「Science for Society(社会のための科学)」を 認識評価するという学術研究者の意識改革が必要である・・。
17世紀に誕生した近代科学は、人間が立てた目的や求める価値を 知の営みから切り離し、純粋に客観的な立場から 自然を探求する立場を取った。 この立場は知の合理性を高めることに大きく寄与し、 自然科学だけではなく法学、経済学、社会学など 人文・社会科学系の分野にも受け継がれた。 「あるものの探究」は知のひとつの基本範型となった。 一方で人類は、近代科学の誕生以前から、その知的能力を用いて 農耕技術、建築術、医術などさまざまな実践的な技術を獲得し、 自らの生活や社会を向上させてきた。 技術は目的や価値を実現するための、「あるべきものの探求」であり、 近代科学によって合理的な基盤を与えられはしたが、 知の営みとしては一段と低い地位に置かれた。 「実学」という呼称はこのことを象徴している。 しかし、人類が直面する深刻な課題を解決するためには、 「あるものの探究」である科学と「あるべきものの探求」である技術が 統合されなければならない。それこそが学術の真の姿である。
新しい学術の体系|日本学術会議より(一部文言省略)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-18-t995-60-2.pdf
私たちは数千年前まで小規模なバンド集団で「狩猟採集生活」をして暮らしていました。ホモ・サピエンスの30万年の歴史を遡れば、定住も農耕もつい最近のことといえます。
集団の形成原理は生物によって様々ですが、我々ホモ・サピエンスは、家族という血縁集団と、それが複数集まった共同体との二重構造を採用した特殊な生き物です。一般に社会性のある動物の脳のサイズは集団規模と正の相関を持ちますが、他の動物の脳のサイズと比較すると、人間の脳のサイズは狩猟採集社会の集団規模である 数十人から最大でも150人(ダンバー数)に対応します。
農耕文明以後の人類は、文字や画像といった外部記憶装置を持ったことで、脳のサイズを変えることなく集団の規模を急拡大させていますが、生物としての身体と心は、その後の世代交代(マイナーな進化)程度の期間ではそれに追随できるものではありません。狩猟採集生活において形成された集団の規模と構造、そこで育まれた共感・相互扶助・利他的行動といった社会的な原理は、生物種としての人類にとっては、今もなお適正なものだと感じます。
しかし近代になって、核化した家族が大都市に集合することで、共同体の機能は失われました。さらに現代では、情報端末の普及と、商業的戦略としての個室・個電・個食の拡大など、1人でも生きていける(引きこもることができる)環境が整いつつあることで、家族の存在感も希薄になっています。わずか数世代という短期間に、私たちを支えていた集団の原理は崩壊しつつあるといえるでしょう。もちろん、インターネット上につくられるバーチャルなコミュニティに新たな可能性を期待することもできますが、視覚と聴覚のみで形成される(身体性に乏しい)コミュニティに、生物としての人類が適応するには相当の時間を要するようにに思います。現状を見る限り、人は孤立し、心と身体を病む状況になっているのではないでしょうか。
インターネットの登場からわずか20年程度で、ヒトはその社会性における大きな環境の変化を体験しています。私たちはそれがもたらす影響の大きさに気づき、社会のあり方を リ・デザインする必要があります。
良いデザインとは? と聞かれたら・・
私は「問題がないモノ・コト」と答えることにしています。
私たちの身の回りには、様々な問題(problem)があります。
まずは、問題に気付くことができるかどうか?
アーティストとしての感性が問われる部分です。
日本語の「問題」には Question と Problem という異なる意味があります。受験勉強で問題を解くことに専念してきた多くの日本人は「問題は与えられるものである」という感覚に慣れてしまって「問題」そのものを疑うことをしないようですが、大学生が精力を注ぐべきは、検索で答えが出るような Question ではありません。人と社会が抱える Problem を見出し、これに対する Solution を提案することです。
問題は無数にあって、せっかくそれに気づいても、
忘れてしまうことが多いのも事実です。
見えやすい場所に問題を銘記し、みんなで共有することが大切です。
橋をデザインするのではなく、川をどう渡るのかをデザインする。
かたちを作る前に、そもそも何が目的なのかを考えることが大切です。
課題とは、問題を解決するための具体的な方法です。
問題(problem)と課題(issue)は違うので、まずこれを区別しましょう。
問題とは「あるべき姿と現状とのギャップ」で、
課題とは「そのギャップを埋める方法」を意味します。
例えば
「村が孤立して住民が困っている」というのは「問題」。 「物資を届ける」「住民を移動させる」「橋を架ける」などは「課題」。
一般にひとつの「問題」に対して、いくつもの「課題」が設定できます。問題が発生した段階では「何をどうすればいいか」が定まっていませんが、課題を定義すると「誰が何をいつまでにどうするか」が明確になります。
ソーシャルデザインの上流工程では、この「課題」を明確に「設定」して、
参加するメンバー全員がこれを共有する必要があります。
そもそもその問題は共有できるか
ある人にとっては「寒い」部屋でも、他の人にはちょうどいい・・・
「問題」が共有されなければ、その「解決」は混乱を招くだけです。
価値観、宗教観など文化の違いも含め、問題そのものが共有できない場合は、
「棲み分け」が必要です。
先を急ぐ人と、のんびりしたい人を一緒にすると、お互いが不幸。
実は「棲み分け」るだけで解決する問題が多いことも事実です。
問題解決型ビジネスとソーシャルデザインは違う
世の中には「問題解決型ビジネス」というものがあります。対象を定めた問題解決型ビジネスというのは、問題がなくなるとビジネスが成立しなくなります。結果、自らの存続のためには問題を生み出し続けなくてはならなくなります。
問題ではないものに「新たな名前をつけて」問題を喚起したり、必要以上に人々の不安を煽ったり・・。そのような動機づけで駆動するビジネスは、ソーシャルデザインが目指すものではありません。
ソーシャルデザインの提案は、基本的に「面白い・楽しい」ものであることが大切です。自分自身が「面白い・楽しい」と感じること、そして、それに関わる人たちも自発的に参加したくなるような提案でなければ、持続できません。
参考:「面白い!」に関する考察
モノづくりにせよ、コトづくりにせよ、仕事とは本来誰かの「ありがとう」が伴うものです。誰にも感謝されない仕事というものは、自己肯定感が得られない点で長続きするものではありません。
「自分のやりたいことがわからない」という学生さんが多くいますが、それでいいんです。そんなものは自分の中を探しても見つからないことの方が多いと思います。「自分がやりたいこと」というのは、誰かに「ありがとう」といわれたときに初めて生まれるもの。「価値」は所与のものではなく、人と人との「関係」において生成されるものなのです。
「自分のやりたいことを探す」ではなく「誰かが必要としていることを探す」という方へと考え方を変えれば、人生はもっと楽しくなります。
ソーシャルデザインの成果は、特別なものとしてではなく、あたりまえのこととして日常化されるのが理想です。その存在を意識することはないけれど、それがなければ生きていけない、「水」や「風(空気)」のような存在。実は、私たちの生活は、すでにそうしたものに囲まれていて、それを再認識することも必要です。たとえば「道」は典型的なソーシャルデザインの成果物です。ソーシャルデザインは「森の中に道をつくること(筧裕介)」と例えられます。
法・制度の静的固定は、秩序の動的変更・循環を阻害する悪玉コレステロールのようなものです。ソーシャルデザインは「立法」とは異なる視点で問題の解決を考えます。
現在の私たちは、生物としてのヒトのスケールをはるかに超える量の資源とエネルギーを消費しています。人間も地球上の生物の一種にすぎません。自然の道理を無視して環境を破壊すれば、その先には間違いなく破綻が訪れます。
太陽エネルギーによって水と土(無機物)から、葉や実などの有機物を作り出す植物、動物の排泄物や死がい、枯死した植物などを無機物に分解する微生物、すべてが共生関係にあることを意識した活動が求められます。
まずは自分自身が楽しいと思える「自分ゴト」からはじめる。組織を急に大きくしたり、大きな施設や設備を投入したりすると、リスクも大きくなります。
行政や企業といった大きな組織による支援も、それがあるとプロジェクトの外面はいい(マスコミも取り上げてくれる)のですが、手続きがめんどくさい、しがらみが多くなる、自由に動けない・・など、現場のモチベーションが下がって短期間で立ち消えになる「取り組み」が多いのも事実です。助成金などの支援がなくなったとたんに破綻するようではダメなのです。
昭和の町に見られた個人商店のように、小さな規模で自力走行する「小商い」のスタイル。「足るを知る」という言葉のとおり、儲けはそこそこに・・少し儲けて、長〜く続けられる仕事がいいのではないでしょうか?
いきなり「世界を変えよう」などと考える必要はありません。Webが世界をつないでいます。小さな石でも、投じればその波紋は大きく広がります。
小さいことをうまくやる|UNIX の哲学
生物の細胞は、おとなりの細胞とうまくやることだけに専念しています。それでも全体はうまく動くのです。
社会は中央集権(ツリー構造・トップダウン)ではうまくいかない・・というのは現実を見れば明らかです。生物の世界と同様に「うまく動く小さなもの」が「自律分散的に協調する」というしくみ(セミラティス)をデザインする必要があります(インターネットの登場は、この「自律分散協調システム」を飛躍的に拡張する契機となりました)。
BAND(結束・絆)は、音楽のバンドを意味すると同時に、かつて人類が狩猟採集生活を行なっていたときの基礎集団を意味する言葉ですが、まさにこのBANDの集合体として社会が構成されることが、生物としての人類の道理にかなう方法ではないかと思います。
プロジェクトを企画したデザイナーがその役目を終えて不在となった後も、地域(現地)の人たちだけで継続できるものであることが大切です。プロジェクトの推進役には現地の人をあてる(あるいは予定する)。デザイナーが目立ちすぎてはいけないと思います。
ハイテクの井戸を物資として提供するのではなく、現地の人の技術と現地にある道具でつくることができる井戸の作り方を伝える・・現地の人が主役になれるような「知識」や「情報」を伝えることが大切です。
地産地消という言葉にも象徴されるとおり、モノを動かすのは人が普通に移動できる半径10km、つまり「地域」をベースに考えるのが基本です(「地方」ではありません。「地域」です)。また、資源とエネルギーを使って新たにモノをつくるのではなく、既存のものを転用する(見立てる)という発想も日本人が得意とするコンセプトです。
その場限りの「支援」や「提案」は、結果的に問題をリバウンドさせます。ゴミや負の遺産を増やすことにもなりかねません。続けることで成熟するような、サスティナブルな提案が望まれます。
どこかに「秩序」をつくると、別のどこかにエントロピー(無秩序・複雑さ)が生じます。人間の行為すべてに言えることですが、人が何かを発明したり、組み換えたりすれば、必ず人間社会や自然環境にインパクトを与えてしまいます。
新しいメディアの登場によって新たな犯罪が生まれたり(電話の発明が「誘拐」を生んだ)、新たな製品が結果的に大量の粗大ゴミを生んだり、新たな法律の整備を必要としたり(近年ではドローンの登場で航空法が改正・複雑化)、新しい物質の開発が「毒」を撒き散らしたり・・。もとはといえば科学者や技術者の好奇心・「面白い!」に端を発したものです。そして一般に多くの資源・エネルギーを費やすもの(≒多くのお金がかかるもの)ほど、副作用も大きくなります。人が何か事を起こせば、必ずどこかに歪みは起こる。デザイナーが何かを創造すれば、新たな問題が生じる可能性がある。その「・・かもしれない」を想像する力も必要です。
通常プロジェクトといわれるものには、目標、手段、予算、期限、評価方法といったものを設定するのが常識ですが、私たちの日常の「楽しみ」の多くは、そうしたものとは無縁です。ソーシャルデザインはコマーシャルデザインではないので、競争社会の常識にとらわれない「ゆるさ」があっていい。近現代の製造業やビジネスの常識を無理に適用する必要はないのでは・・とも思います。
獲物が現れるのをじっと待ち続ける習慣がある我々にとって、 重要なのは物事が達成されることであって、 いつ達成されるかは問題ではない。 … イヌイットの環境大臣
現代社会は、技術的には便利で快適になりました。しかし「人は幸せになったのか?」という観点で考えると、歴史は逆向しているようにも見えます*1。誰もが「成長」という言葉を無批判に受け入れていますが、成長のための「競争原理」が結果として何をもたらしているのか、人類の歴史を振り返るとともに、現代人の常識を疑ってみることも必要だと思います。
何かをはじめるときは、「その仕事は人を幸せにするのか?」、「その仕事はみんなを笑顔にするのか?」という問いかけが必要だと思います。
誰にも「ありがとう」と言われない仕事は・・
人を幸せにする仕事には、「ありがとう」という感謝の声が上がるものです。現代人が取り組む「ビジネス」には、誰にも「ありがとう」と言われないような仕事があまりにも多すぎるように思います。
日本では小中高大から就職までが単線化してパイプラインのようにイメージされやすいせいか、多くの人が「大学に入る」、「会社に入る」といった表現を無意識に使っていますが、個人が既存の器に「入る」という感覚はあまりお勧めできません。それでは「入れ物」が主役で、人はそれを越えることができません。人生の主役は「あなた」であって、そのあなたが「◯◯大学の◯◯専攻 Get!」、「◯◯会社のデザイナー職 Get!」する。人はそんなふうに様々なアイテムを得て成熟するのだと考える方が、人生はずっと楽しくなります。自分の軸をしっかりと地に据えて、世界を捉えなおす。ソーシャルデザインは「自分ゴト」からはじめる・・というのが基本です。
新たな意味・価値が生じる場面=「面白い!」を感じる場面
関係の組み換えが生じる場面=「面白い!」を感じる場面
認識の更新・価値の転倒が生じる場面=「面白い!」を感じる場面
関係の構築が生じる場面=「面白い!」を感じる場面
知の共有・関係の更新が生じる場面=「面白い!」を感じる場面
価値の転倒が生じる場面=「面白い!」を感じる場面
KJ法の生みの親である川喜田二郎氏によれば、科学には、書斎科学、実験科学、野外科学の大きく3つの分野があり、それぞれ演繹、帰納、発想(アブダクション)という方法が研究の中心的役割を果たします。ソーシャルデザインは、フィールドの観察から、問題を発見し 仮説を発想する野外科学の方法が参考になります。
参考:学問の方法
私たちが使う「みんな」という言葉は愉快であると同時に怖い言葉です。
みんなができるのに、何であなたはできないの?
こんな言葉に傷ついた経験のある方も多いのではないでしょうか。人はみなそれぞれ異なるキャラクターを持った存在です。みんなにできて自分にはできないことがあっても何ら不思議なことではありません。逆に、自分だけができてみんなにはできないことも存在するはずですが、みんなにできないことというのは、それが顕在化することがないので気づきにくい・・というだけの話です。
さて、「みんな」を理解するには「みんなの外部」が見えるところまで、視点を引いて俯瞰することが必要です。学問は「引きで見る」ことからはじまります。
文化人類学者の山口昌男は、その著書「文化と両義性」の中で、「中心と周縁」という思考の枠組みを提唱しました。
我々は通常、我々を取り巻く世界を、 友好的なものと敵対的なものに分割する思考に馴れている。 「文化と両義性」山口昌男
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社会の構造はあらゆるレベルで「中心」と「周縁」をモデルとして考えることができます。「中心」は秩序、「周縁」はそれを動的に再生産する力です。「周縁」は空間的には、村はずれ、川向こう、峠の向こうにいます。また時間軸で考えれば、夕暮れ時(逢魔時)、夜、そして祝祭日(日常の価値が逆転する日)にあります。日本の昔話をいくつか思い出して下さい。多くのお話は、この中心と周縁の交流を描いたものであることに気づくはずです。
周縁は「他界」と捉えることもできます。我々とは異なる「神」=超越的ものが存在する他界は、我々の「常世」の中心とも繋がっていて、周縁のその先は、中心につながる・・というクラインの壺(メビウスの輪)のような関係にあるとも言えます。
現代社会はは、産業革命以後の資本主義社会、特に製造業の思考に適応した人たちの子孫がマジョリティを構成しています。
社会はマジョリティに「最適化」されているので、マイノリティはそこで様々な「生きづらさ」を感じています。
関連記事:差別の構造
中心と周縁の空間的図式は ハレ / ケ / ケガレ という時間軸における循環構造を対応させることができます。「周縁の先が中心へと回帰する」という話はこの循環によっても説明できます。
アイデンティティー(identity)とは直訳すると「同一性」ですが、日本人としてのアイデンティティー、企業のアイデンティティーなど、一般に「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」を意味する言葉として用いられます。
アイデンティティー(集団への帰属意識)は、集団秩序の安定と、そこに所属する個人の自我の安定に重要な役割を果たしていて、例えば、国旗、ユニフォーム、CI(ロゴマーク)などは、それを視覚的に見える化するものと言えます。
アイデンティティーを生み出すアイテムのデザインはソーシャルデザインの重要なテーマと一つとなります。
しかしそうしたアイテムも活用の仕方によっては、集団間の対立を助長したり、個人のアイデンティティーを侵害するなど、負の側面を持つことも事実です。
集団組織は、大きくツリー型(中央集権型)とセミラティス型(自律分散協調型)に分けることができますが、負の側面が出てくるのは、ツリー型組織がアイデンティティー強化のために、ユニフォーム等のツールの利用をメンバーに強制する場合です。集団のアイデンティティーに関わるアイテムをデザインする際は、集団をセミラティスとして捉え、個々のメンバーが自信のアイデンティティーを保ちつつ、同時に集団の一員としてのアイデンティティーを持てるような発想が望まれます。
主語(私)のない表現が可能な日本語文化圏(日本社会)では、個人よりも集団の方が上位にあって、アイデンティティー強化のためのツールが受け入れられやすく、それを受け入れない個人を排除することで対向的(ネガティブ)に組織を強化する傾向があるのですが、そのような体質は、無意識のうちに集団の暴走(他の集団との争い)や、マイノリティーの排除を助長してしまう危険があります。過去の失敗を反省し、問題を生まないデザインの方法が求められます。
アイデンティティーを活性化するためのアイテムデザインは、メンバーへの強制を前提とするのではなく、メンバーが自発的に「それを利用したい」と感じるようになされるべきだと思います。
オルテガ・イ・ガセットはその著書『大衆の反逆』の中で、烏合の衆と化した人々(マジョリティー)を痛烈に批判しました。
みずからを、特別な理由によって − よいとも悪いとも − 評価しようとせず、 自分が「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を感じることもなく、 むしろ、他人と自分が同一であると感じていい気持ちになっている・・ 凡俗な魂が、その権利を大胆に主張し、それを相手構わず押し付ける
そんな烏合の衆の「同調圧力」が現代社会には蔓延しています。
ヒトは「自己家畜化」する生き物である・・と言われることがあります。日本語の「家畜」という言葉は、「社畜」と同様にあまり良い意味では用いられないものですが、本来の Domesitication は「グループに馴染ませる」といった柔らかい意味で、協調・協働・共生といった社会に必要なことでもあります。
ただ、これが強制的に行われたり、極端な選択と集中につながると「多様性が失われる」という問題に発展します。
社会の拡大とその効率化のために、生活様式や価値観は一元的になりがちで、現在の人類は、一元化された安全な環境のもとでしか生きられなくなっています。拡大一元化する文明という人工的な環境へのヒト自身の「自己家畜化(Self Domestication)」は、人類を絶滅の危機にさらします。つまり、特定の環境に適応しすぎた生物は(多様性を欠いた生物は)、環境変動やウイルスによって絶滅する可能性があるのです。
グローバル化は、文明の必然として生じていますが、だからこそ「多様性」は尊重されなくてはならないと思います。
地域の活性化は企業活動の活性化とは異なります。社会共通資本を基礎とする地域社会では、「成長」よりも「持続」、「排他的な所有」よりも「非排他的な共有」がフィットします。何かを生み出すことよりも、何かが動き出す仕組みをつくること(「生産」ではなく「生産性」)が重要だと思います。
非日常的なもの、異質なもの、「神」的なものを措定することが、地域を「動かす」原動力になります。
地域社会の停滞には、政治・経済的な問題もありますが、すべてが日常化したこと、すなわち、ポテンシャル?の差異が消失し(エントロピーが増え)、熱的死に陥ったことにも原因があるのかもしれません。
地域のデザインには「神」あるいは「闇」といった「非日常」を内包させた秩序の動的更新が必要であると思います(闇のない秩序は面白くない)。
人は大型動物としては稀な「定住」という道を選択しています。大型動物が定住に耐えるには、食料の安定確保はもちろんですが、日常空間の中にそれ自身を動的に変革する仕組みが必要です。「神」の存在が措定されたことは、生活世界の動的更新、閉塞感の解消を可能にする上で、重要な意味があったのではないでしょうか。科学的には説明不可能でも、共同幻想として「神」を存在させることはできます。「神」は最小限の環境負荷で人間社会を持続させるための最大の発明であると思います。
一般にデザインというとポスターのビジュアルや家電製品の外装形状といった、「カタチ」のデザインが注目されがちですが、むしろその根底にある「仕組み」のデザインや「考え方」のデザインがとても重要です。人や社会を元気にする「仕組み」のデザイン、心を豊かにする「考え方」のデザイン。
ソーシャルデザインは、何かをつくる仕事というより、その社会の当事者に対して、本質的な問題がどこにあるかを気付かせる仕事です。
コンクリートジャングルに石を投げても何も起こりませんが、水面に石を投げれば遠くまでその波紋が広がります。Webは社会の水面です。
体積の計算ができない複雑な形のケーキがある。これをAとBが喧嘩にならないように平等に切り分けるにはどうすればいいか?
上から目線の「平均化」と、現場の声を聞く「公平性」とは別物です。民主主義の形式だけを取り入れた明治以後の日本は、前者をそれと勘違いしたために、結果的に多くの可能性を失いました。
おにぎりが欲しい人、缶コーヒーが欲しい人。人はそれぞれ、「今、欲しいもの」が異なります。その声を聞かずに、すべてに両方を均等配分したのが明治以降の日本の考えた「公平性」でした。
現場のみんなが納得できるような「大岡裁き」が必要です。
ソーシャルデザインはコマーシャルデザインではない・・という点で、市場の原理をそのまま適用することはできません。
人間という生き物は、ひとつの原理ですべてのことがうまくいくと思いたがるようです。現代社会におけるそれが「市場の原理」です。現代人の多くが「いいものをより安く享受すること、すなわち俗に言う「コスパ(Cost Performance)の良さ」に価値を見出しているようです。そして、多くの人は「消費者」に成り下り、口をあけてサービスを待つだけの存在になりました。自ら価値を生みだす力をなくしてしまったように感じます。
計画的陳腐化という言葉があります。ニューモデルが以前のものよりカッコ良く見えるように、あえて中途半端なカタチに完成度を下げる。モノのカタチには必然性というものがあって、自動車のような明確な目的を持った道具のカタチは、本来であれば一定の形状に収斂するはずです。しかし、あえて変なカタチを含ませることで、以前とは違う新しさを感じさせ、そして新製品が出るときには、それが古臭く見えるようにする。そうした、次々に不要なモノを買わせる消費社会の発想には、そろそろ見切りをつける必要があると思います。
また「音楽」というものも、本来は消費されるものではなかったはずです。アメリカのヒットチャートという発想が、そして最近では iTunes のようなものが音楽というものを賞味期限つきの「商品」にしてしまいました。「昔の歌」という言い方がありますが、音楽に新しいとか古いとか・・そもそもその発想自体がおかしいと思うのですが・・
日本人は、嫌なことでも我慢して頑張ることを美徳とする傾向がありますが、それでうつ病になってしまうのでは本末転倒です。高収入エリートのうつ病患者がいる一方で、収入が少なくとも人生を豊かに楽しんでいる人がいることも事実です*2。考え方を変えるだけで大きく人生が変わることも事実です。そもそも幸せとは何か。生きるとはどういうことか。しっかりと考えることが大切です。大学というのは、そういう「哲学」をするためにあるのです。
頑張ることは大事ですが、その頑張り方はズレていないか?*3 楽しい・面白いと感じることができる仕事、そしてそれが自分だけでなく、みんなの幸せにも貢献する・・そんな仕事でなければ続けていくのは難しいと思います。
みなさんは、いわゆる「就活指導」に違和感を感じていませんか。大人たちは、学生さんの働くモチベーションを上げるべく、様々な不安を煽り、就活に有利な条件を紹介し、自己分析を推奨しますが、学生さんの多くはそれに共感できないどころか、苦痛さえ感じているのではないかと思います。
内定をゲットするために、学生さんが投げ込まれるラットレースの世界は、どれだけがんばっても報われないことが目に見えていて、就職活動のモチベーションが上がらないのも当然かと思います。
働きたくても仕事がないという人が大勢いる一方で、働くモチベーションが湧かないというのは贅沢な悩みだと言ってしまえばそれまでですが、この社会で働く意味が見出せない、自分に自信がなくて就職活動の一歩が踏み出せない、という悩みも「生きづらさ」の重みは同じであるように思います。
働きたくても仕事が得られないことと、働きたくない気持ちが生じることとは、一見、置かれた状況が正反対であるかのようにも思えますが、そこには、「競争原理」によって全てが決まる、人間が商品と同様に価格づけされて扱われるという、共通の構造的問題が潜んでいるように思います。
で、私は思うのですが、働き方(働かせ方)の問題というのは、そもそもの前提となっている「人は自分のために働く」という発想自体が、本義からズレているせいではないかと・・。人は何のために働くのか。働く側も、雇う側もそれを「本人のため」と勘違いしていることが、このような生きづらい世の中の元凶であるように思えてなりません。
え?どーゆこと・・と思った方。それぐらいこの世の中は時代の空気に洗脳されてしまっているのです。視点を引いてメタレベルで思考しましょう。
人類はもともと「助け合わなければ生きていけない」という状況に対応すべく、様々な協働の仕組みを作り出してきました。しかし、戦争や自然災害のない平和な時間が数十年続いたな現代社会では、多くの人が、助け合うことよりも、自分のために他者と競争すること(つまり「利他」から「利己」へと)その行動原理をシフトさせました。結果、働く側は「自分の収入を増やすこと」を目的とするようになり、雇う側も「競争させておけばパフォーマンスは上がるだろう」と考えるようになった。人間はみな自分が食うために働いている、頑張ればひとりでも生きていける・・と思えるのは、かつて稀に見る「平和」な時代が続いたことが(それ自体は良いことですが)、その背景にあるのかもしれません。そしてその見かけ上の豊かさを前提に、社会の仕組みが大きく変わった。
働く意欲が湧かないのも、収益が上がらず人を解雇せざるを得なくなるのも、人が働く動機を「本人のため」だと勘違いしたからではないでしょうか。
こんな「たとえばなし」があります*4。
働く=はたらく=傍(はた)を楽にする=みんなを幸せにする。
ちなみに、日本国憲法第二十七条一項には、勤労の義務が規定されています。
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う
これは「労働者として賃金を得よ、自分の糧を得るために働け」という意味ではなく、そもそも人は助け合わないと生きていけないので、あなたの持てる力を社会に提供してください・・という話だと、私は解釈しています。
人は他者を「鏡」として、その自我(セルフイメージ)を構築しています。セルフイメージが上昇すること(自我が理想的な高さで安定すること)が何よりも大きな幸福感につながることは少し考えればわかることで*5、他者の存在(他者からの感謝)がなければ、生きがいを感じることもできません。つまり「自分のため」ではなく「誰かのため・相互に助け合うため」を前提にすることではじめて、働くモチベーションも湧くし、組織のパフォーマンスも上がるのではないかと思います。
食うには困らない核家族の中で、誰の手伝いをするわけでもなく、自分のためにお勉強を頑張ってきた人は、人から感謝される機会に恵まれなかった点で、働くことの意味を捉え損ねている。あなたの「行い」が、誰かの「ありがとう」や誰かの「笑顔」を引き出したときに得られるインパクトは、何よりも大きいものなのですが、その体験がないと、働くことも「お勉強」の延長で「自分の年収を上げるため(人としての商品価値を上げるため)」と思い込んでしまう。
幸福の指標が「年収」で測られるというのは、メディアに洗脳された現代人の単なる思い込みと言えるでしょう。一般に「自分のための仕事」は賃金と等価と感じた時点で手が止まりますが、賃金目当てではない「他者のための仕事」は想定以上の成果を出します。得られるのは「感謝の言葉」や「誰かの笑顔」。でも、その方が人は頑張れる。
労働というのは、基本的にオーバーアチーブメント(達成過剰)なもので、労働と賃金はもともと等価ではありません(だから利益が出る)。人類の基本的な性質である「過剰」が文化を成熟させ、人類の存続に寄与したは、人の行動が他者の存在によって喚起されているからなのです。
労働というのは「働いた分だけ賃金をもらう(与える)」という単純な話ではありません。過剰なものの「贈与」が、また別の人への「贈与」を生む(「返礼」は自分に戻ってくるものではありません)。「贈る人」と「贈られた人」のアンバランスな状態が動的に構成する「贈与のネットワーク」が社会をプラスのスパイラルに載せて活性化する。それが、人の労働が生み出す最大の価値ではないかと思います。
現代社会は、何もかもが「商品」とみなされ、誰もが自分のことを「職場においては人的商品」、「日々の暮らしにおいては消費者」であると思い込んでいますが、買い物同様の「等価交換」(それはその場で即完結)は人を「孤立」させ、組織のパフォーマンスを下げるだけで、社会を活性化することはありません。
労働というものを単純に等価交換可能な「商品」と思い込んでしまったこと(そしてそれが現代社会の常識になってしまったこと)が、人から働く楽しみを奪い、社会から元気を奪っているような気がしてなりません。
現在の就活関連の「ご指導」では、一言でいうと「あなたの商品価値を高めましょう」という話がなされます。◯◯のスキルを身につけましょう。◯◯を体験しましょう。それ自体はいいことですが、その動機づけが「商品価値を高める」ことにあるとなると、「いえ、私は結構です」と感じる人が出てきても不思議ではありません。要するにそれは人類に共通のモチベーションではないのです。
ちなみに「人材育成」という言葉に何の違和感も感じない人が多いようですが、私にはそれが「人間を商材とみなしてその商品価値を高めるための教育」と聞こえて違和感を覚えます。
実際に社会が必要としているのは「商品価値の高い人」ではありません。そのレベルであれば、やがて AIやロボットに代替可能です。社会が求めているのは、人類史を通じて変わらず、「贈与」が社会を動的に活性化するということを自覚して、それを楽しむことができる人です。
働くことに不安を抱えているみなさん。とりあえず働いてみないことには、働くことの楽しさ・価値は体感できません。まあ、おじさんに騙されたと思って、誰かの「笑顔」を見るために働いてみましょう(そもそも国民の義務ですし)。
あなたの「贈与」が生み出す「ありがとう」のインパクトを体感すれば、働く意味がわからない・・という感覚は一掃されるのではないかと思います。
ただし「働くことの意味を勘違いした人たちが集まっている企業」は間違いなくブラック化しているので、そういうところは避けた方がいいでしょう。まともな企業であれば、その企業の活動自体が誰かの「ありがとう」によって支えられているはずです。
国の違い(文化の違い)、時代の違い、「常識」というものは多様です。そもそも「常識」とは、当該集団が争い事なくうまくやっていくために恣意的に作られたルール。それはある意味「共同幻想」*6であって、自然科学的な根拠をもつものではありません。なので、その構造は一挙に組み換えることが可能です。人も社会もどんどん動いているので、常識に囚われず、自由に発想してみることが大切です。
大人たちが押し付ける「社会人としての常識」の大半は、産業革命以後の社会の常識です。それは10万年の歴史をもつ人類に普遍的なものというわけではありません。とても簡単な例をあげてみましょう。今私たちは「住所」に定住するのがあたりまえですが、100年も遡れば、あるいは世界を見渡せば「移動生活」を常態とした暮らしがあるのです。あたりまえだと思っていることを疑う。様々な価値観や生活様式があることを認める・・ものごとの関係を再編集することで、面白い暮らしが可能になるかもしれません。
優れた芸術家はみな人と社会の問題について深く考えています。そして芸術家の仕事の多くが、人と社会が抱える問題を暴き出し、多くの人に考える契機を与えています。我々が「常識」としていることを疑い、問題の本質に気付くことが必要です。