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AudioAndVisual/PrimitiveImagery

イメージの起源

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影は、オリジナルの複製であると同時にその代理をするもの(アナロゴン)として最も原始的な存在です。絵画や写真のように対象から分離することがなく、そのことが「影」とその「主」との心理的距離を縮めます。影踏みという遊びも、影がその主に最も近い代理物であるという心理的な前提によって成立しているもので、「イメージを所有することはその対象そのものを所有することに等しい」という映像に対する人の根源的な心象を物語っています。

自然の造形

煙など、自然が偶然につくりだす造形は、あるときは動物の形であったり、人の顔であったり、あるいは神や仏のイメージであったりと、様々です。 特に、岩石の表面や樹木の表面などの場合は、外輪郭だけでなく、全体の形がそれと似ているという点で、また実体としてそこに存在するという点で、影よりも 独立性の高いイメージとなります。人はそうしたものに対し「そこに霊的な力が宿っている」あるいは「その対象と神秘的な力でつながっている」と考えがちで、そこに呪術や信仰の対象としての「像」の起源を想像することができます。

道具が作り出すイメージ

日常的な道具をイメージとの関係で考える場合、大きく2つのタイプに分類することができます。一つは筆記具となるもの、すなわち人の頭と手を使って像を生成するための道具で、もう一つは鏡や針穴など自動的に像を形成する道具です。

前者には大地や岩を引っ掻いて描くための棒や鋭利な鉱物、ふりかけて形にする砂(砂絵)や顔料、植物からとった染料とそれを塗る筆・刷毛の類の組み合わせ、といったものがあって、これは現在我々が用いる各種の画材の原型であるといえます。

後者は水を張った器(水鏡)、磨き上げた金属(銅鏡)、そして室内に外界の倒立像をつくる針穴と暗い部屋(カメラオブスキュラ)などで、これは後に写真機に発展するものだといえます。

描かれたイメージと物理現象として捉えられたイメージ。原始の心象ではイメージはその主(対象)と神秘的に結びついており、像が対象から霊的な力を写取ると考えられたり、代理物としての像に対して行う行為が現実に起こると考えられたりすることもあります。
 日本に写真術が伝わった幕末、「写真を撮ると魂が抜かれる」という迷信が流布しましたが、このような思考は、現代人の感覚にも無いわけではありません。例えば、誰かが写っている写真を平気で踏んだり破いたりできる人は少ないのではないでしょうか。

夢と幻覚

人はよく「夢は経験があるが幻覚は経験がない」と言いますが、「入眠幻覚」という言葉があるように、眠りに落ちかけた時、あるいは睡魔と戦っている時に人はそれと気付かぬままに幻覚を見ていることも多いはずです。超自然の存在として話題になる妖怪や幽霊も、その9割以上が幻覚であると言われ、その意味では、夢や幻覚というものも、異界からのメッセージとして大切に受け止められていたと考えられます。

幻覚について
ペンフィールド(1952)による側頭葉の電極刺激実験もそうです、外界からの電磁気的な刺激によって、「光」のみならず「鮮明なイメージ」が浮かぶことがあることが近年の脳研究でも確認されています。ちなみに、心霊スポットと言われる場所が地質的に磁場の変動が大きい場所であるということも最近よく知られるようになりました(脳科学による種明かしが進んでしまうと、世の中若干味気ないものです)。

起源の問題としては余談になりますが、幻覚や夢は、今日我々が普通に映像を見るという場合にもつきまとっています。映像には「知覚」と「想像」の両方が作用していて、この「想像」の部分が(無自覚的に付加されるという意味で)幻覚や夢と同類なのです。

映像を見るというとき、ほとんどの場合、我々はカメラの枠の外を勝手に想像して「確かにそんな風景を見た」と思い込んでいますが、例えばテレビに映しだされる風景も、枠の外はこちらの勝手な想像です(テレビで見た場所に実際に行って、思い描いていた風景との違いに愕然としたという経験が誰にでもあるのではないでしょうか)。映像の面白さは「覚醒したまま夢が見られる」という点にもあります。無自覚的にわき上がるイメージというものは、現代の我々にも身近な存在だといえるでしょう。





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*1 鏡について:鏡の存在はまた別の意味でも重要です。J・ラカン(1936)流に言えば、人としての出発点はこの鏡像に同一化することであり、この自分自身の鏡像こそが人間にとって最も関心のあるイメージであることはまちがいありません。
Last-modified: 2020-05-11 (月) 15:55:50