はじめに議論の前提を確認します。私は人間という存在を「本能が壊れた生き物」であり、本能に替わるものとして「言語によって構造化された擬似現実(共同幻想)」を共有することで、自然界に適応している・・と考えています*1。
神々の物語(フィクション)は、世界各地で同時多発的に進化した言語ととにあるもので、人間が、異なる言語(文化)で分断されている以上、その世界認識の違いや価値観の違いがもたらす揉め事を 0 にすることはできません。
重要なことは、一つの言語、一つの共同幻想で世界を統一することではなく、異なる言語、異なる共同幻想、異なる価値観の存在を、お互いに認めあうということ。「わかりあえるはずだ」という前提に立つのではなく、「わかりあえない」ことを前提に、言葉を交わしながら共有部分を広げるとともに、お互いの価値観の違いを認め合うしかありません。世界中のみんなが、自らを相対化し、多様性を認めるというメタレベルの思考ができるようになることが、重要であると考えています。
人間が発明したものの中で最もすぐれたものは「神」である
瀬名秀明(他),1998,「神」に迫るサイエンス, 角川書店
神々の物語というフィクションをみんなが共有するという「認知革命」以後、人類は「神の言葉」によって世界を捉え、物事を良し悪しを判断していました(現代における「科学」は最も信者の多い「宗教」とも言えます)。
神の存在を措定して、神の教えに従って社会を統治することは、法を整備するよりもシンプルかつ効率的。自分たちが神の監視下にあると感じる社会では、その秩序が自発的に維持されます。
人類が発明した「神」といっても、文明以前からある原始的なものと、文明以後の社会において誕生したものとでは大きく異なります。
原始的な信仰では、神とは「人間にはコントロールできない自然」とほぼ同義で、それはいたるところに遍在し、我々に様々な影響を及ぼす存在。人間を超越した存在として畏れの対象となります。
例えば、アイヌ信仰における神(カムイ)は以下のような存在です。
人間の周りに存在するさまざまな生き物や事象のうち 人間にとって重要な働きをするもの、 強い影響があるものをカムイと呼びます。 カムイはあらゆるところに存在していて、 いつも自分たちを見守っていると考えます。 例えば、動植物や火、水、風、山や川などもカムイ・・
https://ainu-upopoy.jp/ainu-culture/
原初的な自然信仰における神は、善悪を超越した存在として、私たち人間に、幸いも災いももたらします。人間は神(自然)に対して、謙虚でなければならないし、それをコントロールしようなどとも考えません。
ちなみに、日本人は宗教意識が低いと言われますが、超越的な存在を意識していないということではありません。日本人の信仰心は、文明以前の原始的なものを継承していて、その証拠に(神道には)「経典」がない(つまり文字以前の文化)、具体的な「像」が存在しない、神社本殿がなく「ご神体」が山や滝などの自然物の場合がある・・、などの特徴があります*2。つまり日本人の信仰心のコアにあるのは、文明以前からの原初的な自然信仰だと考えられます*3。
現代の日本人は、いわば 基本OS としての 自然信仰のシステムの上に、仏教やキリスト教といったアプリを乗せている・・。そう考えると、結婚式は教会で、葬儀はお寺で・・といった、他の国から見ると異様な現象がおこることも説明ができるように思います*4。
お天道様が見ていますよ。悪いことすると罰があたりますよ。
メジャーな宗教を基底にもつ諸外国から見れば「信仰心が希薄なのに社会的モラル意識が高い日本人」は不思議な存在なのかもしれません。しかし、それは信仰(畏敬の念)の対象の違いで、身の回りのいたるところに神様がいて(八百万の神)、悪いことをすれば罰があたる・・という感覚を多くの人が共有していることが、日本人のモラルの根底にあるからではないでしょうか。
多くの人々を一元的に集約した世界的な宗教は、基本的に人類が農耕文明に手を染めた以後に成立したものです。その証拠に、それらは「文字」という文明の象徴を用いた「神話」や「経典」を持っています。
文明の発展とともに、頭でっかちになった人間は、人間 VS 自然、天使 VS 悪魔、など、あらゆる現象を二項対立的に捉えるとともに、「一方が他方を制することができる」という発想を展開するようになります。
異なる神を崇拝する集団間が対峙した場合、「こちらの神」が「あちらの悪神」とみなされる場合があります。歴史を見れば明らかなとおり、宗教と戦争とは無関係ではなく、善と悪は表裏一体となって同時に誕生します。
現代社会では、サイエンス、テクノロジーという名のグローバルな「原理」が、私たちの思考を洗脳しています。
私たちは、大量のデータ(根拠)にもとづく、収益の最大化や、効率アップを目指して、AI の判断を仰ぐようになっています。
AI の提案にもとづく経営判断、AIの提案にもとづく採用人事、AIの提案にもとづく医療行為、AIの提案にもとづく教育(学習)・・、より具体的には「AIの提案にもとづいて犯罪が起こりそうな場所をパトロールする」などの仕組みが、すでに運用されています。
あらゆる商品の宣伝文句として「AI搭載」がまかりとおる状況は、すでに人類が「自分で考えるよりAIに任せた方がいい」という思考停止状態になっていることを示しています。
「罰があたりそうだからやめておこう」という程度のものであれば、人間は考えることを止めませんが、それが体系化されてテキストとなり、「それに従う方が楽だ」となると、人間は思考停止状態になってしまいます。
例えそれが「一定の手続きを経て制定された法」や「科学的な知見によって裏打ちされたテクノロジー」であっても同じ。それを無条件に信用する社会は、同様の問題を孕むことになります。
AI を「天使」として無条件に受け入れる社会には、その外部に「悪魔」の AI を誕生させます。我々の思考は二項対立が基本で、「天使と悪魔」の概念は「善と悪」、「生と死」と同様、同時に切り分けられて生成します。異なる超越者を崇拝する者同志が争うのと同様、異なるシステムに依存する者同士は争うことになることが予想されます。
居眠りする人間よりも AI 自動運転の方が事故は少ない。AI よりも「ヤバイ人間」の方がよほどタチが悪い・・だから AI を人間のコントロー下には置かず、AI を神として位置付ける方が安全だ・・という議論もありますが、私は「天使と悪魔は同時に誕生する」と考えるので、AI の起動・停止だけは、人間のコントロール下に置くべきであるという立場をとります。
AI が自分自身をアップデートしはじめる(シンギュラリティーの一種)前に、AI が暴走する前に、生じうる様々な問題を想像して、それに備える必要があるでしょう(生命倫理の問題と同様、利害が衝突することは容易に想像できるので、実際にはかなり困難なことだと思われますが・・・)。
AI をどのような存在として、この社会に組み入れるか・・技術の進歩の方が早過ぎて、社会的な合意形成ができていない状況を重く受け止めて、みんなが知見を深める場を設けていくことが必要です。