混沌から秩序へ
人がビジュアルイメージを創造するとき、そこにはどのような創作の心理がはたらいているのでしょうか。作品が生まれる際の作者の心の動きを、単に「セン ス」とか「才能」とかいった言葉で片付けてしまったのでは仕方がありません。創造的な意識活動とは何か。ここでは、我々の頭の中でほとんど無自覚的に起 こっていることを、でき得る限り意識化して整理してみたいと思います。人は世界を「秩序立てて」捉えようとする生き物であり、また自ら「秩序」をつくる生き物でもあります。多くの神話が物語るように、世界のはじめは混沌とし ていて、境界・区分・目印といったものが存在していません。それが神々の力によって、天と地・昼と夜・善と悪といった2項対立的な区分を与えられ、秩序 立ったものになっていくのです。
しかしそれはユクスキュル(1973)の言う環境世界、すなわち生物が本能のプログラムによって対応・生成する秩序ある世界とは異なるもので、人の意識の 中で「恣意的な」ものとして秩序立っているに過ぎない、一種の幻想世界です(現代人が科学的に把握している物理世界とて、それが言語という恣意的記号によ る一つの世界観であることにはかわりはありません)。
人間の創造行為を考える場合、まずこの点の理解から始める必要があります。なぜなら、人間が行う、「過剰な」秩序の創造行為は他の生物に無縁のものであり、逆にそのことが人間の創造行為の根底にあるものを知る手がかりとなるからです。
誰にでも経験があるでしょう「コレクション」という行為を例にとってみます。今ここに1950 年の年号が刻まれた一つのコインがあるとします。そこへ1951年製のコインが偶然ころがり込むと、その規則性の拡大のために1952 年製のものが欲しくなります。そしていつのまにか引き出しの中には年代順という「基準」で秩序づけられたコインの幾何学的配列ができあがる・・・。
しかしこの秩序は、蜜蜂がつくる巣の幾何学的秩序とは違います。蜜蜂の巣をつくるためのプログラムは、すべての蜜蜂のDNAに記述されていますが、コイン のコレクションのための分類プログラムは、コレクターの脳の中にしか保存されていません。年代順という「基準」を知らない人には、ただ「コインがいっぱい ある」ようにしか見えないのです。人が何らかのコレクションにのめりこむ場合、まずこのような基準となる「視点・視軸」なり「知識ベース」なりが存在する もので、それを共有し得る人(いわゆるマニア)が集えば、胸躍るような秩序ある(意味のある)世界ができるのです。
一 方、その道の専門的知識を持たない門外漢には、ただ物が並んでいるようにしか見えません。切り分け方が理解できなければ、意味も見えてこない。コレクショ ンを秩序ある一つの世界として他者に理解させる(コミュニケーションを成立させる)には、その世界を見るための「視点・視軸」や「知識ベース」を共有しな ければならないのです。他者とのコミュニケーションが成立し得る世界をつくるには、その世界が何らかの基準で恣意的に秩序立てられていることと、その基準 に関わる知識を集団の成員全員が共有する必要があるのです。どのようなタイプのもので あれ、人間のつくる秩序というものには、この前提がつきまとっています。音楽も 絵画も、そして広く「文化」というものも、本能のプログラムではなく、後付けで被せたプログラムが構造化した秩序であって、したがってその「仕様」を集団 の成員が何らかの方法で共有しなければコミュニケーションは成立しないものなのです。
人間の芸術的な活動の大半も実用性・機能性を離れて、純粋に「秩序」そのものを指向します。ということは、「作品」を発想するという場合も、それが何ら かの仕様に基づいて秩序立てられていて、同時にそれが他者(鑑賞者)にも共有される必要があるわけです。コミュニケーションを前提とした創造行為というも のは、この事抜きには考えにくいものです。すべては、生命維持や種族保存といった本能的必然性に止まらない精神の過剰な働きによるものです。今日、人間の このような過剰な行為が地球の環境にとってはマイナスに作用する(無ければ無いで済むものを「便利」を理由に開発し、結果的に多くの問題を抱え込む)もの であることは誰もが認めることですが、この過剰な精神活動こそが人を人たらしめるものであり、この点を抜きにしては「創造」は語れません。
過剰な脳が「後付けで被せた」秩序は、自然・必然といったことからは自由なもので、何度でも「組み換える」ことができる可能性をもちます。秩序という枠組 みが変われば、その中にある要素の役割も変わります。同じ素材でも枠組みを変えれば、違った生かし方ができるのです。
そう考えれば、人間の過剰が成せる「秩序」というものも、創造の基本原理として、非常に重要なものであると感じられるのではないでしょうか。「無駄」なものこそが大切なのです。
人間の社会では「集団Aにとってはゴミにしか見えないものが、集団Bにとっては宝の山である」というようなことがたくさんあります。人間はそういうもので 楽しむことができる。もともと「過剰」に生み出された「生命レベルでは必要のないもの」なのですから、その意味では、新しい価値・秩序は無限に生み出すこと ができるといえるでしょう。
さて、楽器を前にして、あるいは白いキャンバスを前にして何かを創ろうとする場合、具体的にはどのように発想すればよいのでしょうか。それは「混沌から 秩序へ」と意識を働かせることであり、H・リード(1966)『芸術の意味』の言葉を借りれば「心楽しい形式をつくる試み」なのですが、それには様々な具 体化の方法が考えられます。以下にその発想法について整理してみよう。
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発想の前提・表現の限界(制約)
どのようなものに対してであれ、そこに何らかの「秩序」が見い出せれば、人はそれを「何者かの創造物である」と理解します。そして確かに、蜂の巣のよう な自然界の幾何形態も含めて、人間がそれを「秩序」あるものとして見聞きすることのできるものは、ある意味で美しいと言うことができるでしょう。つまり、 何かを発想するときにまず考えるべきことは、とりあえず、「何らかの基準に沿って秩序ある状態をつくる」ということです。そのアイデアに賛同が得られるか どうかは別として、それが人特有の創造行為であり、できあがるものに何らかの意味なり価値なり芸術性なりが与えられることは確かでしょう。しかし作品の制作を考えるとき、何の制約もなく自由に「秩序」をつくることができるかと言うと、事はそれほど単純ではありません。作品づくりの自由度にも 様々な制限があるのです。具体的な「秩序」構成の話に入るまえにその点を述べておきましょう。
スケール
第一に、人間の視聴覚に関わる空間的なスケールと時間的なスケールの限界があります。速すぎて聞き取れない、遅すぎて旋律がつかめない、音階のステップが 細かすぎて(12音階音楽など)つかめない、小さすぎてよく見えない、大きすぎて全体の構図がつかめない、あるいはまた長時間すぎて疲れてしまう、など、 時間や空間に関して的外れなスケールでは作品になりにくいといえます。バランス
第二に、人間の体の運動バランスと空間的なバランスとに関わる制約が挙げられます。音楽では「拍子」が大きな問題で、原則2・3・4拍子を基本としてその倍数であればリズムもとりやすいのですが、5拍子まではともかく(『Take Five』は有名)、7拍子のような変拍子となると、一般的には「ついていけない」ということになってしまいます。本来、時間軸上の秩序という意味では4 拍子も7拍子も同等であるはずなのですが、相手は機械でなく人間であり、体がついてこないものは成功しにくいというのが現実です。
空間芸術では、あらゆるものの基軸としての垂直・水平線が作品のバランスに大きく作用しています。我々の体は重力とバランスをとっていて、視覚は重力方向 に重さを感じるかたちで世界を捉えています。身のまわりのものはすべて建築空間の床面を基準とする垂直・水平の格子におさまっていて、絵画もポスターも テレビの画面もそこに収まらざるをえないのです。したがって大半の画像・映像は垂直・水平で枠取りされた長方形の空間内にレイアウトされなければならず、 またその中では本来同等の意味をもつはずの1本の線も、斜めになっていることで「不安」・「緊張」といった役割を必然的にもたされてしまうのです。見てい るのは正立した人間です。この方向は絶対的なものとしてあらゆる空間的な造形に制約を与えています。
環境
第三に、気候・風土の違いも見逃せません。例えば欧米と日本を比べた場合、気温はほぼ同じでも湿度の違いは大きく、これが「楽器の鳴り」や「絵の具の乾 き具合」といった物理的な違いとなって、表現の可能性に制限を加えてしまいます(気候・風土が異なれば、絵筆の使い方にも必然的な差が生じるものです)。 また気候・風土の違いは、当然「快適さ」や「美しさ」に対する意識の違い、すなわち文化の違いも生むもので、それは当然無視できない問題として作家の創作 意識を左右しています。気温・湿度・気圧といった自然界のパラメータが創作活動に無関係でないことは厳然たる事実でしょう。文化
第四に、年齢差・性差、そして様々なレベルで人間の意識に食い込んでいる「文化」の差異の問題があります。年齢や性の違いで、作品のもつ秩序が見えない、 誤解が生じる、あるいは呼び覚まされる感覚が異なるということは当然あることで、さらに、社会の中での立場や役割、生活環境、その民族に特有の「音階」や 「色彩嗜好」、そして世界認識の根底にある「言語体系」、そういった諸々の「文化」的基盤というものも、情報の捉え方に決定的な差異を生じさせるの です(むしろこの「文化」の問題が一番大きい)。その意味では作品を享受できる、言い替えれば、作者と同様の世界観に基づいて作品を共有できる人というのはある程度限られてしまうと言えるでしょう。老若 男女問わず楽しめるものというものはそう多くはありません。作家は創作の過程で、出来上がった「情報」の受け手が誰であるかを無視するわけにはいかない のです。
制作の現実
最後に、これは議論の本筋からは逸れるかもしれませんが、創作物に関する物理的・経済的・法的制約が挙げられます。純粋な「芸術」の世界では問題にはなり にくいのですが、企業活動に位置付けられて、経済的に成功することが前提となる音楽プロデューサーやグラフィックデザイナーなどにとって、この問題は避け ようのない制約で す。情報の表現媒体・記録媒体また伝送媒体に関する物理的制約、制作費という経済的制約(素材の妥協・技術の妥協が強いられる)、印刷コストの問題から生じる サイズや色数や解像度の制限、さらに(著作権法は当然としても)広告表現などでは、効能書きの文字サイズに関する制約など一般には知られていない法的制 約もかかります。 そして「大衆受け」・「スポンサー受け」せねばならないという最大の検討項目があって、プロと呼ばれる作り手の大半はこれら数々の制約 をトータルに計算したうえで、作品を発想せねばならないのです。我々をとりまく大部分の音楽や映像がこうした制約と計算の上に成り立っていることを忘れて はならないでしょう。
逆転の発想
「芸術的発想」というものは様々で、「A」という作品があれば、あらゆる意味での「非A」もまた作品になる可能性を持つことも事実です。「作品をつくらな い」という「芸術」も、そうすることで「作品とは何か」を考えさせる、あるいは逆説的に「作品」を定義するものであるし、「反秩序」・「破壊」・「脱構 築」・といった一見否定的なキーワードを掲げる「芸術」も、「新しい価値観」・「新しい形式」を模索して「非・旧芸術」↓「新・芸術」として、新たな時代 の秩序へと組み換えを促す運動だと言えます。人間がすることは、表向きは無為であったり破壊であったりしても、結果的には何らかの「秩序」を志向しているように思われます。それは言って見れば「無秩 序なネットワークが枝を落としながら秩序化していく」という人の脳の宿命なのかもしれません。
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「鍵Key」を意識する
何をつくるにせよ、「秩序」を貫く鍵が必要である。それは「視点・視軸」・「準拠枠」・「方向性」・「順番」・「階層」・「規則」・「法則」・「テー マ」・「コンセプト」など、様々なレベルのものが考えられるのですが、要は「何がしたいのか」・「何を基準にまとめるか」を明確に意識化することが重要だ と言えるでしょう。単に文字を並べるという行為にも、「画数で並べる」・「音(あいうえお順)で並べる」・「形で分類する」・「文章になるようにならべる」など様々な基準が 考えられます。また「現在の並びに対して、ある一定の演算を行って新しい並びをつくる」ということをすれば、新旧の間に歴史的な法則ができるし、「とりあ えずコンピュータでランダムに並べることを繰り返し、面白い並びのものを採用しよう」というオートマティスムもいいでしょう。とにかく「秩序のつくりかた」にはいろいろな鍵があり、その発想の可能性は無限にあるのです。
もちろん、場合によっては法則もテーマもなしにその場の勢いで作って成功する(この場合、あとから法則やテーマが発見される)ということもありますが、我 々の身の回りにあるテキスト・音楽・映像、さらには工業製品・建築物・都市空間まで、勢いで偶然的にできたというものはほとんどありません。ものづくりに 携わる大半の人間が、何らかのかたちで自分なりのあるいは企業なりの発想の鍵を定め、それに従って秩序ある構築作業に関わっていくのです。
そして当然のことですが、そうしたものづくりの鍵とは「自分は何がつくりたいのか、もともと何が好きなのか、そして何故それが好きなのか」といったことを 自問自答することでしか見えてこないものといえるでしょう。
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加算型の発想と減算型の発想
さて、ここから具体的な「秩序をつくる」ための手順の話になるのですが、まず源初の「混沌とした状態」(すなわち何もない状態や素材が山積みされた状態) をどのように攻めるかについて、二つのタイプの攻め方が考えられます。一つは何もないところに何かを加えていきながら次第に秩序ある状態に組み立てていく 方 法で、もうひとつは逆に山積みの状態から何かを削除していくことで次第に秩序ある状態に整理していくという方法です。前者は「加算型」の発想、後者は「減 算型」の発想といえるものですが、人間が何か事を起こすときは大体このいずれかの発想をとるものです。例えば、「話をする」という身近な行為でも、頭の中では、テーマにそった話題を集めながら、テーマにそぐわない部分は削除するということをしているし、 「写真を撮る」というときも、ファインダーを見ながら足りないものを視野の中に加えたり、またじゃまなものをどかしたりしている。また例えば、都市計画と いう大きな事業を例にとっても、「現状の景観をそのままに、そこへ当てはめ得る建造物を次々に加えていく」という加算型の性格のもの(一般にアジアに多 い)もあれば、「沼地を埋め立て、小高い土地を削り、まがった河川をまっすぐに矯正してすっきりさせていく」という減算型の性格のもの(一般に西欧に多 い)もあります。
一般的なことで言えば「選択」という日常的な行為も、加えることと引くことの両方で成り立っているわけで、その意味では人間の意識的な行動はすべて加算と 減算で成り立っていると言ってもいいでしょう。我々が日常あたりまえに行っていることを意識して見直せば、アイデアはいくらでもころがっているのです。
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リフレイン
リフレインすなわち反復という行為は、あらゆる素材を秩序あるものへと構成する基本的かつ重要なテクニックです。ノックの音は2回であることで、それが人 の行為であるとわかるし(秩序あるもの・意味のあるものとして聞こえる)、単なるインクのしみも折り畳んで複写すれば、左右対称な模様になり様々なイメー ジを喚起します(ロールシャッハ・テスト)。ひとつのリズムパターンも、音程を変化させながら繰り返せば楽曲になり、簡単な図形も並べればタイルパターン になり、また全体を部分へと再帰的に反復すれば雲や海岸線の美しい輪郭となります。反復すること・複製をつくること・まねること、それは未知の生々しいもの・名付けようのないものにひとつの「基準」を付与して意識化します。我々の意識の 中では、何らかの観点で同様とみなされるものが二つ以上あってはじめてイメージが一般化され名付けられるのです。混沌としたものが秩序化されるということ は、このようなイメージ・概念の生産をも意味しています。
まねる
「まねる」は「まねぶ」すなわち「学ぶ」の語源とも言われ、人間が何かを秩序づ けながら意識化するというときの基本です。
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選択的制約
制作の過程で「あれもしたい、これもしたい」と、いろいろな可能性が見えてきて、収集がつかなくなることがあります。「あれもこれも」を秩序化する発想で 攻める場合は別として、素材やそれを扱う技術に無限の可能性があると、かえって首尾一貫しなくなって「濁った」ものが出来上がるものです。そこで逆に、自ら素材や技術に制限を加えることで骨格を見えやすくする、という発想も大切です。小学校低学年で習う言葉だけを使ってみる(作詩)。楽器の 数や音域を制限し、重複する音は省いてみる(作曲)。色数を数種類に制限する(絵画)。文字のフォント・スタイル・サイズを限定する(ポスター)。モノク ロにする(写真)。撮影に使うカメラやレンズを一本にしぼってしまう(映画)。特殊効果のパターンを数種類に限定する(テレビ)。生成アルゴリズムやパラ メータに制限を加える(CG)。そうした制限をかけると、自分が取り組みたい主たる骨組みに意識を集中することができ、結果的に「要素間の関係がわかりや すい」すなわち「伝わりやすい」ものができることになります。
特にコンピュータによるデジタル加工処理が一般的になった今日、何でもできてしまう道具を前にすると「あれもできる、これもできる」と発想の鍵がしぼり込 めなくなることも多くあります。そこで逆に自ら利用する技術を制限し、作品に一貫性をもたせるという発想は必須のものとなるでしょう。
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対称性を破る(未完の美)
我々は、創造的思考において確かに「秩序」を指向するものなのですが、いわゆる「シンメトリー(対称)」という完全なる秩序に対しては、それを忌避する傾 向があることも事実です(シントロフォビアと呼ばれるシンメトリーに対する忌避症もある)。古代ギリシアの伝統をひく文化圏では非対称なものは美的によく ないものとして退けられる傾向にありますが、特に我々日本人の文化について言えば、あえて非対称とするような造形が多いようです。造園や建築空間の構成を 見ても完全なるシンメトリーは少なく、むしろ対称を意識しながらわざとそれを破るというつくり方をしたものが多く見られます。もともと自然界に存在する樹 木も動物の体も、基本的なかたちはシンメトリーで力学的にバランスをたもってはいますが、ディテールは左右異なっていて、それがそれぞれの表情を豊かなも のにしています(例えばもし人の顔が中央を軸に完全に左右対称な「ウルトラマン顔」であったとすると、それはなんとなく気持ち悪いものになるでしょう)。情報量という観点から言っても、非対称なもののほうが豊かな情報をもつことが説明できます。完全なる左右対称なものは、例えばそれが画像だとすると、送信 側が左半分の情報を転送するだけで受信側では全体を復元できます(単純に1/2に圧縮可能)。すなわち半分だけですべてが表現されているわけで、情報量は 半分しかないのです。一方非対称なものはある程度の秩序感・バランスを保ちながらも半分に圧縮することは不可能で、その分大きな情報量をもつと言えます。
これは冗長度という言葉で言えば、シンメトリックなものは冗長度が高く、アン・シンメトリックなものは冗長度が低いということです。一般的に「冗長度が高 い・伝わりやすい・情報量が小さい・つまらない」ということに対して、「冗長度が低い・伝わりにくい・情報量が多い・驚きが大きい」ということは、情報の 観点から対置できるものですが、創造された秩序というものを美的なる情報と考えれば、冗長度の高すぎるものは、相手に通じやすいけれども、驚きがない、そ れ以上の関心を呼ばない、つまらない、というものになってしまいます。秩序はそれがあまりにも単純な言葉で説明できてしまうようであると、意識を素通りし てしまうのです。例えば、先に述べた「反復」によって形成された「秩序」も、それがあまりにも簡単な規則性で成り立っていると意識を素通りしてしまいま す。したがって、逆に反復の過程に若干のズレが与えられれば、「反復」という秩序構成の「基準」はより生き々きと意識化されるのです。
情報はそれがわかりやすいだけでは退屈します。かといって驚きの連続では疲れてしまいます。対称性を破るという発想には、創造物の秩序とそれを破壊する力との微妙なバランスを考えることが重要なのです。
・退屈と驚き(ツッコミとボケ)
漫才には「ツッコミ」と「ボケ」という役割分担があります。話の筋道を秩序立 てていこうとするのが「ツッコミ」の役割で、話の筋道をはぐらかしてい くのが「ボケ」の役割です。「ツッコミ」はあたりまえの話を繰り返して冗長度を上げ、「ボケ」は意外な(出現確率の低い)言葉で話の情報量を上げます。 一般に「笑い」は、人の頭の中で凝り固まった常識や習慣的思考がゆさぶられる時に生ずるものといえます。
・九鬼周三の「『いき』の構造」
「軽微な平衡破却」
・土佐光起(みつおき、江戸の絵師)の「画論」
「絵は詩のごとくあっさりと描いて、ととのっていないように、
空白部分を生かし・・」
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欠如をつくる
・欠如、不完全は、見るものの「完結しようとする」意識をさそう
→ プレグナンツの法則(対象を簡潔なよいまとまりとして見ようとする傾向)
→ アモダール完結(知覚の”完全化過程”)
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変換する
・「フィルタリング(ぼかし・モザイク・色調変換他)」「デフォルメ」
・「置き換え」「倒置」「90度回転(重力への違和感)」
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異なる文脈に置く
・日常的な文脈から切り離すことで、その存在を生々しく再認識させる
・アイロンの底に鋲をつけたオブジェ(マン・レイ)
・「ready made = 既成」の発想 リチャード・マット(デュシャン)の「泉」
・「解剖台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったように美しい」
・地球の水 → 水の地球
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既成概念からの逸脱
・メディアを変形する(紙を**してみる)
・メディアを置き換える(紙に描くかわりにガラスに描く)
・既成概念からの逸脱(既成概念をゆさぶる)
・惰性化した日常を「触発」することを考える
・何かを伝える「情報」であるためには「秩序感」も必要
例えば
・通常、異次元の文脈にあるもの同士をつなげてみる・傘立て以外のものを傘立てとして使ってみる
コップをコップ以外の用途に使ってみる
・○○が必要だと感じたとき、それを異なる場面から探す・・
それができるかどうかが「頭の柔らかさ」を物語る。
・筆に代わるものはいくらでもある
・画材の使い方次第で様々な発想ができる
・画面サイズは√2矩形とは限らない
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情報量と秩序
「秩 序」について
情報とは、外界から得る知識内容のことであり、記号のセリーが担っている秩序の尺度である。(N.ウイナー)
人間は自ら秩序を作る生き物であり、また記号的に世界を
秩序立てて見ようとする生き物だといえます。
人間の作る秩序には、先行するイメージとしての設計図、
すなわちデザインがあります。
「最も巧みな蜜蜂と最も無能な建築家の違いは、
建築家が設計図にもとづいて仕事をすることである。」
P.J.Wilson(『人間-約束するサル』佐藤俊訳)
秩序(情報)を捉える知識ベース
あらゆる情報の認知には、「基準」や「準拠枠」が必要です。それらは見る者の「構え」を形成し、情報要素はトップダウン的にその基準からの
偏移によって測られます。
(音楽では曲のキーやスケールが「基準」に該当)
桜が美しくみえるかどうかは、見る者の桜についての
知識ベースが大きく影響しています。
情報量の定義
情報量 log 2 可能性の数 (bit) あるいは - log 2 出現確率 (bit)計算例1 コインの賭けで「表が出ている」という情報は
可能性の数で考えれば log 2 2 = 1 (bit)
出現確率で考えれば - log 2 (1/2) = log 2 2 = 1 (bit)
計算例2 音域1オクターブのメロディーで1音が担う情報量は
可能性の数で考えれば log 2 8 = 3 (bit)
出現確率で考えれば - log 2 (1/8) = log 2 8 = 3 (bit)
日本語 log 2 50 = 5.644
7音階→8音 log 2 8 = 3bit
5音階→6音 log 2 6 = 2.585bit
冗長度 r = ( H0 - H ) / H0
英語の場合 r = ( log 2 26 - 1.3 ) / log 2 26 = ( 4.7 - 1.3 ) / 4.7 = 0.72
となり、72%が節約可能であることがわかります。
人間の意識と情報量(適度な情報量)
情報量過小:単調 退屈 おもしろくない
情報量過大:複雑 難解 不快感
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視覚情報デザインへの応用
平面構成と情報量

文脈(コンテキスト)によって変化する情報量
文脈からある程度推理できる情報要素の出現 → 情報量小文脈からは推理しにくい情報要素の出現 → 情報量大
筆箱とペンと三角定規 → 土曜日とペンと腕時計
筆箱と三角定規の中の「ペン」と 土曜日と腕時計の中の「ペン」では、
明らかに後者の方が出現確率が小さく情報量が大きなものになります。
後者の「ペン」は、筆記具としての意味以上に
具体的なイメージの広がりを持ちます。
空を見上げて→ 空を持ち上げて
文脈的に推測しにくい言葉が出現するという点で、上と同様に
後者は情報量の大きな表現といえます。
編集によって変化する情報量
要素が単体で存在する状態 → 情報として認知されにくい (Fig.1)
要素を反復(リフレイン)すると → 秩序感が生まれる(人間の意志を感じる)
秩序のルールが単純・強固になると → 情報量は減少 する (Fig.2)
秩序に偏移を与える(対称性を破る)と → 緊張感増大/情報量増大 (Fig.3)

偏移が激しくなると → 情報量は増大するが、それがあまりにも過度になれば、
単に無秩序な状態に見え、情報として認知されにくくなる
地球の水 → 水の地球
同じ情報要素(映像で言うショット)も、編集によって情報量が変化する。
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「編集」について
「要素」と「関係」
・重要なのは素材そのものではなく、素材と素材の”関係”である・美しい”赤”があるというより、他の色と”赤”との美しい ”関係”がある
※「良い人・悪い人」ではなく、「良い人間関係と悪い人間関係」がある
「分節」について
・言語の二重分節 マルチネ・人間は母指対向性を得たことから、数を数えることを覚えた
「連辞」と「連合」
・連辞:個々も語の意味と機能を決定する線的な関係(時系列)・連合:時空間から解放された意識の中でおこる「連想」、並列的関係
※ソシュールの用語
※イエムスレウは連辞VS範列と言い、バルトは連辞VS体系と言った
「情報デザイン」の観点から
・つながるデザイン 文脈に合うまとまりやすい要素をつなげてみる※情報量を下げる ←エントロピー・バラバラ感に対立する
※デザイングリッドも情報量を下げる工夫の一つ
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レイアウトの基礎知識
紙の寸法
A列:A4判やA3判など、Aと数で表されるグループ。A1(594×841)を基準として、A1を半分にするとA2、A2をさらに半分にするとA3・・という関係になっています。ちなみにA0の面積は1平方メートルです。
B列:B5判やB4判など、Bと数で表されるグループ。B1(728×1085)を基準として、B1を半分にするとB2、B2を半分にするとB3・・という関係です。
版面率
レイアウトを行う際に、文章や図版、写真を入れる誌面の基本領域を版面(はんずら)といいます。版面率はページの印象に関わるもので、一般的に、文学書のような文字中心のものは版面率60~70%、雑誌やパンフレットでは75~80%程度です。マージン
版 面以外の余白をマージンといいます。マージン各部の名称は、ページ上部を「天」、下部を「地」、見開きページの内側を「のど」、外側を「小口」といいま す。左右ページの一体感や連続性を実現するために「のど<小口」、また、安定感を生むために「天<地」とするのが一般的です。総合して、「のど<天<小口 <地」とする説が一般的で、例えば、ウイリアム・モリスは、この比率を 1:1.2:1.44:1.73などと提案しています。文字のジャンプ率
ジャ ンプ率とは、見出し、本文、キャプションといった、画面内に出現する文字のサイズ比率のことです。本文の文字サイズを基準に、簡単な整数比になるように、 あるいは、等比数列をなすように設定すると全体にバランスが良くなります。一画面の中には、タイトル・見出し・小見出し・本文・注釈とせいぜい5種類ぐら いの文字サイズですべてを割り付けることをお勧めします。特にグリッドシステムを使用したレイアウトでは、文字サイズのコントロールは重要です。項目ごと に場当り的に大きさを決めて配置するといったことはせず、本文最適サイズ(大人がターゲットなら9ptなど)を基準にシステマティックにコントロールしま しょう。文字のジャンプ率は、個々の目的に応じて様々ですが、媒体ごとに基本的な傾向があります。雰囲気の差は直感的にわかると思いますが、ポスター、新聞、チラシ、若年層向け雑誌などは一般にジャンプ率が大きく、専門誌、学術雑誌などではジャンプ率が小さくなります。
組版
組版(くみはん)とは、文字や図版などの要素を配置して紙面を構成することをいいます。もとは活版印刷の用語ですが、現在ではDTPソフトを用いてそうした作業を行うことを意味します。段組
1ページを読みやすくするためにページを分割すること。例えばA4の紙面では、2段組が多く見られます。これはA4で横一行まるまる使うと40文字以上入ってしまい、読みにくくなるためです。約物
文字組版に使用する記述記号類の総称です。具体的には、句読点・疑問符・括弧・アクセントなどです。禁則処理
約 物などが行頭・行末などにあってはならないという文書作成上の禁止事項のことをいいます。例えば句読点(、。)や閉じ括弧(」』)】など)は行頭に位置し ないように、処理する必要があります。ソフトウエアにはこれを自動的に回避するための仕組みがありますので、通常は「禁則処理:ON」の状態で作業します。| PAGE TOP |
レイアウトのセオリー
以 下に記載することは、あくまでも経験則であって、「こうしなければいけない」とか「こうすれば必ずうまくいく」というような単純な話ではありません。実際 の制作では、個々の素材の色やかたちによって最適解は異なるものですし、また見る人の「好み」というものも大きく影響します。しかし、あと少し右・・もうちょい左などと微調整に迷うときに、幾何学的なセオリーに基づく分割や位置決めは大変便利なガイドとなります。
黄金比 A : B = B : (A+B) (1 : 1.61)
一般的に多くの人が美しいと感じる比率です。この比を縦と横の比率として適用した矩形を黄金矩形といいます。身近なところでは、名刺やタバコのパッケージがこれに近い比率になっています。フィボナッチ数列(1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,・・・)は、最終的にこの比に近づきます。
白銀比 1:√2
我々が普通用いているA4やB5といった紙の縦横比がこれにあたります。例えばA3を半分にすればA4が得られるといった具合に、半分に分割してもやはり同じ比率が得られることから、工業的な紙の生産に利用されています。数列の応用
等差数列、等比数列、フィボナッチ数列など、幾何学的根拠にもとづく分割は画面構成上の有効なガイドとなります。三分割法 3×3の領域に分割(写真撮影用のガイドはこれ)
画面を水平・垂直各3等分して、それらの線上、または交点上に構図上の重要な要素を配置すると、バランスのよい安定した構図になります。写真の技法書などでは必ず紹介されています。開いた構図と閉じた構図
開いた構図とは、カメラが空間を切り取るように得られる構図で、画面内の要素が画面の枠外に広がる、あるいは画面の外つつながっている印象を与えます。逆 に閉じた構図とは、画面内の要素が枠内にバランスよくまとまって、枠の外とは独立した印象を与える構図です。グリッド・システム
ス イスのデザイナー、ミューラー・ブロックマン(1914~1996年)がその著書で唱えた紙面レイアウト用のガイドの構築技法です。画面を文字の大きさを 基準にガイドをつくっていくもので、現在大半の印刷物がこのグリッドシステムを用いてレイアウトされています。このガイドを活用すると、迷うことなくス ピーディーに割付けできて、仕上がりが幾何学的に美しいというメリットがあります。もちろん好みの問題はありますので、絶対にグリッドを使わなければなら ないということではありません。構図上のNG
中心の喪失 ・・・ものがバラバラになって重心がない。要するにどこを見て欲しいのかわからないような構図。複数の要素をあれも見せたいこれも見せたいという感じで空 いているところに配置するとそうなります。特にポスターやチラシでは見せたい情報が複数あるのはあたりまえなので、それに優先順位をつけて、見るところを はっきりさせることが重要です。勢い・流れを止める交差・・・画面には中心があり、流れはその中心へ、あるいは中心から外へ向かいます。その線を殺すような交差物がくると、中心が勢力を失ってしまいます。
頭打ち/壁ぴったり・・・事物の頂点が画面の端にくるような配置。無理やり画面内におさめたような印象を与えます。
串刺し・・・人物の真後ろに電柱があるような構図。
首切り ・・・人物の首の位置に水平線がくるような構図。
レイアウトに影響する画像内の要素
撮影の構図・パースぺクティブ被写体のまなざし
被写体のベクトル(例えば拳銃、指差し)
被写体の演出(例えば「正面」の扱い、安定・不安定など)
その他参考
ゲシュタルト要因 : 要素のグループ化(群化)による情報の整理対称(静)と非対称(動) : 対称は終止感にもつながる
重心 : 要素の重さは明度と面積によって決まる
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