人間の視覚

私たちは、世界の認知の大半を「視覚」に依存しています。自然環境という意味での外部世界はもちろん、人間社会における大半の情報が、文字・図形・静止画 像・動画像という形式で視覚に訴えてきます。さらに言えば、「人」特有の「シンボル化能力(イメージ喚起能力)」というものも、「不在の現前」すなわち、 目の前に無いものを頭の中にイメージ(視覚化)することであり、頭の中の「視覚像」が世界の認知に果たす役割は非常に大きいのです。
人間の「視覚」について、あるいは「イメージ」について考えるということは、「人」そのものについて哲学することでもあります。

不在の 現前
生後まもない乳児は、大人の指さし動作に対して「指先そのものを見る」という反 応をするが、言葉の獲得とほぼ平行して「指が指し示すものを見る」というふうに変わってくる。また「母親の不在に気づいたとたんに泣き出す」というのもほ ぼ同時期である。
指が指し示す方向に何かが「あるであろう」こと、さっきまでそこにあったものが 「ない」ということ、このい ずれもが、不在のものをイメージするという能力を必要とする。「ない」ことがわかるには「あった」ことがイメージできなければならないのである。これは 「目の前にあるものがすべて」である動物にはない能力であり、人間が予見と計画によって世界を切り開いていくきっかけとなった最も基本的な能力だと言え る。
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眼球の構造

生物の体には感光細胞というものがあります。文字通り、光を感じる細胞のことで、下等な生物の場合では体表にそれが分布していますが、高等になるにした がって感光細胞の集合は窪みの中に入り込みます(例えばオウム貝の眼はこの段階のもので、ピンホールカメラと同様の仕組みで視覚像を形成しています)。さ らにそれが進化すると、その窪みへ入る光量の調節機能をもったり、透明な膜によって覆われたりしてきます。


眼は発生学的には脳の一部です。
※カエルは縦に動くものにしか反応しない
※イカの眼のミステリー(処理装置はどこに?)

人間の場合では、窪みの中の感光細胞の集合が網膜であり、光量の調節をするのが虹彩であり、透明な膜が角膜です。また水晶体は角膜の派生として、硝子体は 窪み内部の空間を外圧から護るために発生したと考えられています。ちなみに「目」は発生学的には脳の一部です。


虹彩

虹彩は外部からの光量を調節する機構で、強い光によって感光細胞が破壊されないようにするのが本来の目的ですが、カメラの絞りと同様に被写界深度の調節機 能を副産物として与えてくれます。すなわち、虹彩が大きく(瞳孔が大きく)なればレンズの使用面積が大きくなるため、ピントの合う範囲が狭くなり(対象の 前後がボケる)、逆に小さく絞られるとピントの合う範囲は広くなります(対象の前後もくっきりと見える)。
曇り空の下ではぼんやり見える風景が、明るい日差しの下ではすっきり見えるのというも、日差しによるコントラストの問題だけではないのです。

アイリス = 絞り
絞り込む → 被写界深度大
開ける  → 被写界深度小


絞りと シャープネス
眼鏡をかけている方であれば、それをはずして時計のベルトの穴越しに風景を見て みて下さい。絞りめば(像は 相対的に暗くなるが)ピントが合いやすくなるという事実が確認できるでしょう。 ピンホールカメラのようにレンズを使わず結像するものは、原理的にはボケ とは無縁であり、すべての距離にピントが合います。

水晶体

水晶体はカメラのレンズに相当するもので、それを支える毛様体筋の弛緩・収縮によって厚みを変えることで、焦点距離を調節し、網膜上にピントを合わせま す。通常のレンズの理屈と同様で、遠方を見ている場合は薄く、近くを見る場合は厚くなります。

網膜

網膜はカメラでいうフィルム面に相当し、感光素子の2次元的な配列で像をとらえるようにできています。網膜に倒立像が写っていることを最初に考えたのはケ プラー(1604)と言われており、その事実はシャイナー(1625)によって(牛の眼球で)確認されています。
網膜上の各感光細胞は、それぞれに入ってくる光の量や波長に応じて化学物質を放出し、それが視神系の細胞へ伝わります。このとき、網膜の中心付近では感光 細胞と視神経細胞の連結が1対1、周辺部では多対1となっていて、中心部の像が重要であることを物語っています。
ちなみに、人の網膜を「画素数」で例えると、(中心部が高解像度になるのは当然として)視神経の数から、ほぼ1000 × 1000 画素程度であると考えられます。


像は倒立している

さて、眼球をカメラに例えて考えると、「倒立像」という言葉からひとつの疑問が湧いてきます。「我々が見ている世界はさかさまなのか?」という疑問です。 答えは、網膜上の物理的事実としては「YES」です。
これは、カメラにおけるフィルム面と同様で、網膜上には倒立像が写っているのです。この問題について、レンズやプリズムによる網膜像の逆転実験を行ったス トラットン(1896)の報告によると、「逆さ眼鏡」をかけはじめて3日目ほどで違和感がうすれ、1週間ほどで以前と同様の視覚が確立して、重力方向や触 覚、聴覚との矛盾がなくなるということです。
また生まれてすぐのネコに「逆さ眼鏡」をかけさせるという実験でも、ネコの成長過程ではなんら有意な現象は見られなかったといいます。

要するに問題は、脳の中で網膜像が他のあらゆる感覚とどう関連づけられるかにあるのであって、網膜上で正立か倒立かはどちらでもよいのです。
もともと我々には、(自分自身の手足も含めて)自分の眼に入った世界しか見えていないわけで、網膜像が世界のすべてです。したがって 「手の見えていると ころに手の感覚のある場所が結びつき、足が見えている方向と重力を感じる方向が結びつく」 ようになれば、我々は矛盾を感じずにすむのです。
脳の中で視覚像と体勢感覚が同一化していれば問題はない。感覚的には理解しにくい事実ですが、我々の世界認知にとって視覚像がいかに優位な立場にあるかと いうことを示す重要な事実だといえるでしょう。

補足:瞳孔の話

瞳孔は心的状態が積極的情報処理をしていると開く
「ものを言う目」 Hess,E.H.

光源理論
暗いところにいるとお互いが親密に
(瞳孔が広がることでお互いの関心の高まりを感じる)

散瞳は交感神経 縮瞳は副交感神経
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視点と視線


この項目は書きかけです。

まなざし

私(自己意識)は他者のまなざしに起因する

 見られずに見ることのできる環境
  → すだれ/車の中/仮面/窓際/桂離宮の卍亭(四つ腰掛け)
    そして「映画」 これらは快適空間となる
 見られているが見ることはできない環境
  → パノプティコン/試験会場/監視カメラのある場所/競争社会
    これらは緊張感の高い統制された空間となる

安部公房の「箱男」という実験小説について

好きなものと嫌いなものでの視線の集中度合いが異なる
視線はものの特徴点を跳躍移動しながら形をとらえている
視点と視線を変えると世界は違って見える
視点が10センチ変わるだけでもレイアウトは異なって見える

カメラワークには視点と視線というパラメータが必要
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視野

頭部を固定して1点を凝視した状態で見える範囲を視野といいますが、視野計による調査では、「人」の視野は左右約200度・上下約140度といわれます。 この場合左右については大差ありませんが、上下に関しては上60度・下80度と下の方が 広く、経験からもわかるとおり、日常生活ではさらに下の方が優位になります。我々の身の回りの物は大部分眼の高さより下にあって、とりあえず注意を要する のは足元なのだから、これは当然のことですが、都市生活では「頭上注意」も常識であり、人の視野と生活環境とは決して無関係ではないことは銘記すべきで しょう。

さて、上に述べた視野は「見える範囲」ですが、このうち実際に情報の読みに関わる領域というのは、左右20度・上下10度の範囲で、これは網膜上で言うと 錐体が集中的に分布する域にあたります。
この範囲の情報は意味あるものとして捉えられているわけで、例えば星座のように我々がかってに群として見ているものも、ほぼこの視角内におさまっていま す。

視覚情報をデザインするという観点から言えば、この「見える範囲」「読む範囲」という二つの視野のもつ意味は重要で、例えば駅のホームから見える電照看板 を計画するという場合でも、まず普通にホームに立った状態で、視認されうる範囲内に設置される必要があり(気付かれなければ意味がない)、またそこから眺 めた場合に、看板のデザイン全体がまとまって見える視角範囲におさまるかたちで判読されることが望ましいということになります(これを超える大きさのもの では、構図や配色といった画面内の設計が的はずれなものになってしまいます)。

視野と視角の問題は色彩や形態の知覚の問題に比べて忘れられがちですが、作業環境の計画、鉄道や自動車道路など交通システムにおける案内・標識の計画、公 園や都市環境全般における景観の計画、あるいは又聴覚障害者のためのコミュニケーションシステムの設計など、我々の生活に関わる様々な場面で考慮されるべ きものといえます。

補足的に他の動物との比較にも触れておきましょう。大半の動物は眼が顔面の両側にあって、各々の視野が独立するかたちでほぼ360度の視野をもつのに対 し、「人」場合は両眼とも前方を向いていて、左右の眼の視野の共通領域が広くなっています。つまり両眼での全体の視野は狭いが、両眼視による奥行き知覚 (後に詳しく述べる)が有利になるという点が特徴的です。
このことは、「人」以外の動物が障害物や外敵といった自然環境に関する情報を重視するのに対し、「人」はそうした情報よりも相手の表情やしぐさ、あるいは 文字や画像情報といった同種のもの同士でのコミュニケーションに関わる情報を重視することを物語っています。
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視覚情報の感覚 / 知覚 / 認知


この項目は書きかけです。

一次元刺激の弁別能力は7±2
※短期記憶に記憶できる項目数も同じ(マジカルNo7 G.A.Millar)

人間が知覚しているのは絶対量ではなく”関係”である
キーが変わっても同じメロディーとして知覚される
純粋な「感覚」を得ることは難しい
(すぐに何らかのゲシュタルトとして見えてしまう)
※ノイズ / 外国語・音楽・図形 / 母国語・映像
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物理像と知覚像

図と地

形態の知覚について考える場合、まず「地と図」というキーワードの理解が必要です。
「地と図」とは視覚心理学の用語で、「地」は背景、「図」はそこにあるまとまりをもって現出している対象を言います。
一般に「図」として見えやすい傾向にあるのは、閉じた領域、面積の小さな領域、垂直・水平方向にそろった領域、上下で言えば下の方、幅が一定な領域、動い ているもの、誘目性の高い色彩、輝度の高いもの、と言われています。

日常の視覚では、背景と視覚対象との関係は、ほぼ明白ですが、紙面やディスプレイといった2次元の視覚では教示のしかた次第でこの反転が生じやすくなりま す。
「杯にも見えるし、向かい合う二人の顔にも見える」という有名な「ルビンの杯」なども、この図地の反転現象を応用した図形です。

図地の 反転
特に視力が低下している場合、意識の構え方によっては、その逆転は簡単に生じる ものです。 例えば、心霊ス ポットなどで 「出る出る」という意識で見ていると、背景の影のほうが図になりやすくなって、結果 「何か」 が見えてしまうことがあります。数人で同じ景色を見ていても、自分だけが、「何か」の影らしきものを見るということは十分にあり得ることなのです。

さて、「図」になるものとは、もともと物理的にひとつの個体として存在するものなのでしょうか実はそればかりではありません。我々が通常ものを見る場合、 本来無関係のものでもそれらを「群化」させて見ている場合が多いのです(例えば星座)。
創作という能動的な行為のみでなく、「ものを見る」という一見受動的な行為の場合にも、人はなかば自動的に物事を「秩序」だてて捉えているのです。

群化

物理的にはバラバラな視覚刺激を、我々の視覚がこちらの都合に合わせてまとめてしまう。このような性質を、心理学では「ゲシュタルトの法則」といいます。
ウェルトハイマー(1923)は、「バラバラなものがまとまって見えるための要因」を、近接・類同・閉合・よい連続・よい形・共通運命・客観的構え・過去 経験の8つに分類して説明しています。例えば、
近くにあるもの同士がまとまって見える(近接の要因)、
<>や()など「閉じた形」はワンセットに見える(閉合の要因)、
群集の中を2人の人物が同じ速さで走っていると、その二人が主役として浮き立って見える(共通運命)、
「三角形に注目して下さい」と言われるとバラバラな3点でも三角形に見える(客観的構え)、
「朝顔を見ると思い出す」という文の解釈(「(朝の)顔」か「朝顔」か)が人によって異なる(過去経験)など、
ウェルトハイマーのまとめた群化の要因は、様々な現象を説明できます。

群集 (モブ)シーン
群衆の中で、走っている2人をカメラが固定点でとらえるようにフォロー撮影する と、さらに主役が浮き立つ映像になります。この場合2人の役者とカメラとの3者が共通運命にあることになります。

近接/類同/閉合/よい連続/よい形
自然界の生物のカムフラージュは これを逆手にとってい る・・ナナフシ等

我々の視覚は、その認知において、視覚情報量の経済効率を考えているでしょう。バラバラなままで記憶するより、要素の関係を見出して、その関係を記憶する 方がはるかに効率的です。
例えば「○○○○○○○○○○」は「○が十個」と書けば6文字分圧縮できます。
また例えば文章も、一文字一文字見るよりは、前後の文脈を頼りにありそうな「単
語」に予測をつけて単語単位で読んでしまう方が早い。
情報量が少なくなるようにまとめて見る。要素ではなく要素間の関係を把握する。それが人間の知覚の基本方針と言えるでしょう。

「知覚とは仮説を作り出すプロセスである」 Gregory
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幾何学的錯視と主観的輪郭

実験(垂直・水平の錯視)
5cmの水平線を書き目測で同じ長さの垂直線をくと・・・
(おそらく4.5cmあるかないか・・)

幾何学的錯視

ここまでの話でも明らかなように、ものの見え方というのは、対象となっているものの物理的な特徴と、それを見る我々の脳の働きの両方に原因があることにな ります。ここで、さらに我々見る側の問題が大きく関わっている幾何学的錯視その他の現象をみてみましょう。

幾何学的錯視(Geometrical Optical Illusion)とは、大きさ・形・方向などの幾何学的パラメータが実際の値とは異なって見える現象のことです。
最も簡単な例は、「正方形が縦長の長方形に見える」というもので、我々の視覚では水平線より垂直線の方が長く見える(垂直・水平錯視)ことが確認できま す。
幾何学的錯視には様々なタイプのものがあり、はじめに発見・報告した学者の名で○○錯視などと呼ばれています。

一般に、錯視現象は「細く見せる」、「高く見せる」などの目的に応じて視覚情報のデザインに応用されています。

主観的輪郭

その他、物理的には描かれていないのに輪郭線が存在するように見える現象(主観的輪郭)や、物理的にも主観的にも見えていない存在が視覚情報処理に影響す るという現象も、見る側の心理に大きく依存した現象です。
特に後者は重要で、例えばレイアウトグリッドのような「不可視のガイドライン」は、無意識のうちに我々の視覚に捉えられて、それが全体の構図や秩序感を大 きく左右しているのです。
例えば、教室という空間の中でも、通常は机が「不可視のガイドライン」に沿ってならんおり、それからずれるものがあると、そのずれた机の輪郭線の延長にさ らに新しい「不可視のガイドライン」が生じて、空間は雑然と見えてきます。
描かれた線のみならず、図形の線の延長に感じられる「非在の線」も、画面全体の構図・秩序に大きく関与するものであることを銘記しておきましょう。
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奥行き知覚

本来2次元である網膜像をもとに、我々は奥行きを含む3次元の世界を認知しています。
第3の軸である、この奥行きを知る手がかりには絵画的要因・生理的要因・運動要因などがあります。

絵画的要因とは、大きさ・上下・重なり・きめの勾配・色調・コントラスト・明暗・影のできかたなどで、配置や描きかたによって奥行きを知る手がかりが得ら れるというものです。

生理的要因には、水晶体の調節や視線の収斂といった筋肉の動きに関わるものと、両眼の網膜像のズレによるものとがあります、特に両眼視差 (Binocular Parallax)はステレオグラムの基本原理でもあり、他の要因とは違う生々しい立体感を得ることができます。

主として視点が移動している場合には運動要因が効いてきます。
視点を移動しながら風景を眺めていると、近くの風景と遠くの風景とでは移動のスピードに差ができます。このことから感じられる遠近感を、運動視差 (Motion Parallax)といい、セルアニメーションなどの風景描写に応用されています。

ステレオグラムについて


この項目は書きかけです。

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運動知覚

運動の知覚には2種類の機構があると考えられており、それぞれ、像―網膜システム、眼―頭システムといいます。

像―網膜システムは視線を固定した場合に動く対象の網膜上での位置が変化することを運動として知覚するもので、眼―頭システムは動く対象を追視した場合の 眼球や頭の動きから対象の運動を知覚するものです。

我々は一般にこの2つの情報を関連づけながら処理することで、運動を知覚していると考えられます。

ただしこの運動も、実際に対象が運動している場合にのみ知覚されるとは限らず、「運動しているように見える」という仮現運動の場合もあります。
仮現運動には自由運動・誘導運動・運動残像・β運動・α 運動・γ 運動など様々なタイプのものがあるので、以下、簡単に説明しましょう。

自由運動

自由運動とは、暗い場所で一つの光点を凝視していると、ゆれて見えはじめる現象です。
「感覚遮断されると幻覚が見えはじめる」あるいは「入眠幻覚」などの現象とも似て、「人」は刺激情報が少ない場面では、物理的には存在しない架空の現象を つくりだす場合が多いようです。

誘導運動

誘導運動とは、静止した対象が、周囲のものの動きによってその逆向きに運動して見える現象をいいます。特に、自分の周囲のものの動きによって自分自身が動 きだすように感じられる場合を自己誘導運動といい、「ビックリハウス」などに応用されています。
運動残像は、滝の水の流れを見つめた後、静止した物体を眺めると物体が上に動き出すように見える現象で、回転する螺旋が止まった後など、運動が停止したあ とその運動とは逆方向に感じられる動きはすべて運動残像です。

α運動・γ 運動

α運動はミューラ・ライアの錯視図で2種の矢羽根の図を交互に提示すると、水平の線分が伸縮して見える現象をいい、光刺激が出現・消失する際にそれが膨 張・収縮する運動に見える現象をγ 運動といいます。

β運動

β運動は、我々にもっとも馴染み深い現象で、電光掲示板で文字が動く、映画やテレビで現実的な動きが再現される、といった運動の知覚がそれです。
これには「視野の持続性」と「ファイ現象」という2つの視覚の要因が作用しています。
前者は「光(像)の点滅が秒間30回以上まで速くなると、それは点滅ではなく持続して見える」というもので、視覚の情報伝達速度の限界から生じる現象であ ると考えられています。
したがって映画では秒間24コマという画像素材を1コマにつき3回シャッターをあけるという形で秒間72コマにしており、テレビは秒間30コマという画像 を1フレームにつき2回(2フィールド)走査するかたちでちらつきを防いでいます。
後者は「空間的に位置の異なる2つの光点を一定時間あけて見せると、光が動いて見える」というもので、これには刺激の強さ・刺激間の距離・時間間隔などが 適切に計画された場合にきれいな運動に見えます。時間間隔のみに注目すれば、一般にそれは60ミリ秒程度と言われており、30ミリ秒を下回ると2つが同時 に見えてしまうことなどがわかっています。

眼はもともと運動の発見器としてスタートしたとも言われ、外界の動くものを知覚するということは、生物一般にとってその生存に関わる重要な問題でした。
しかし、現代の「人」にとってはそのような外界の運動知覚はもちろんですが、虚構の世界の運動知覚である「仮現運動」が非常に大きなウエイトを占めていま す。
我々は日常において、多くのものの動きの情報を、現実の運動ではなく、仮現運動(テレビの映像)によって得ているのです。

像ー網膜システム(image-retina system)
 ・・固定視野内の物体の移動の知覚
眼ー頭システム(eye-head system)
 ・・追視による物体移動の知覚
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情報認知におけるボトムアップとトップダウン

情報の入力に際し、脳の知識ベースを利用して刺激を待ち受ける、つまり、上から下へ降りてくるプロセスをトップダウンプロセス(概念駆動型処理)、逆に刺 激情報が目から脳へと上がっていくプロセスをボトムアッププロセス(データ駆動型処理)といいます。

我々はほとんどトップダウンで世界を見ている
だから日常はスムーズにストレスなく過ごせる

逆に、幼少期の知覚や、新しい環境での知覚では
ボトムアップ処理が中心となりストレスが大きい

日常において惰性化した知覚をゆさぶるもの
→ アート
→ 機械の知覚(写真など)は100%ボトムアップ
  であり、我々の知覚を異化する力をもっている

「言語」はものの見方に影響(日本の漫画とアメリカの漫画)
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視覚のフレーム・オブ・リファレンス

日常的な視覚・文字・静止画・動画などに対して、見る意識の構えは様々に関与しており、それは視覚のフレームオブリファレンスとして、その時々の視覚世界 の構築と精巧な読み取りを手助けしています。

日常の視覚では聴覚の場合の話と同様、頭の中の単語の辞書と文法構造が最も大きなフレームオブリファレンスとして作用しており、すべてを言語的に了解しよ うとする「カテゴリー態度」が効いています。もちろん視界に「名付けようのないもの」が出現した場合には、このフレームオブリファレンスは効力を失い、緊 張感や不快感が高まる状況が発生することになります。

日常の視覚におけるフレームオブリファレンスは、さらに様々な次元に存在します。「人の顔を見る」という状況を例にとると、我々は単にそれを「顔」とカテ ゴライズして見る以上に、表情の細かな読みが可能です。しかし顔全体がさかさまに見えている状態ではその判別が難しくなります。すなわち、この場合、顔の 目鼻の正立した位置関係がひとつのフレームオブリファレンスであり、それが有効な場合には、表情の違いを敏感に読み取ることができるけれども、フレームオ ブリファレンスが無効になるさかさまの状態では読み取り能力が落ちることを意味します。
同じことは文字などにも言えることで、さかさまでも文章を読むことはできるが、内容が頭に入ってこない、あるいは誤字や左右反転した文字などを発見する能 力が落ちるなど、全体的な情報処理能力は落ちるのです。
 「さかさまでは読みにくいのはあたりまえ」だという感想もあるでしょうが、「機械」の視覚の場合に、像が正立であれ倒立であれ、その分析能力に差がない ことを考えれば、「人」、あるいは「生物」に特有の現象と考えることができるでしょう。

次に画像を見る場合についてですが、一般に「像」として与えられるものには、言語情報における「辞書」・「文法」といったものがないため、それに代わる 「何か」が様々なレベルで数多く存在することが考えられます。

ここでは、人の造形的な思考を介して描かれた絵画・漫画と、カメラで自動的に記録された写真やテレビの映像との区別(前者が明らかに「様式」や「文化的な 約束事」といった伝え方の枠組みを持つ)をふまえた上で、いくつかの事例を紹介しましょう。

例えば漫画を読む(見る)という場合について一つ例をあげると、(日本人の場合)右上から左下へ向かう「方向」が、ひとつのフレームオブリファレンスとし てその読みを拘束していて、右↓左は順方向で「行くもの」として読まれ、左↓右は逆方向で「やってくるもの」として読まれる傾向があ ります(絵巻物などではそれは典型的である)。
これは「縦書き」という文字文化に由来するもので、西洋の場合では逆に左から右が順方向となります。
絵画・漫画表現にはこうした様式・約束事が多く存在し、それを読み慣れた者には、作家の意図がスムーズに伝わりやすいと考えられます。現に、いわゆる活字 世代と漫画世代では、漫画を読む(見る)スピードや視線の配分に大きな差が見られます。

また、カメラがとらえた映像を見る場合には、例えば、その映像から逆投影的に読み取れるカメラの切り取った「ワク」・位置(視点)・角度(視線方向)と いったものがフレームオブリファレンスとなって、我々の映像の読みに参画する。映画の理論が誕生して間もないころのアルンハイム(1933)やベラ・バ ラージュ(1949)もすでに指摘していたように、世界を「ワク」に切り取り、一定の視点から一定の方向を与えるということは、見る者に「世界の見方」と いうフレームを与えるものであり、そのこと自体がある意味をもつ、あるいは意味を生むものと考えられます。

これらの要素の重要性は、我々の日常的な映像体験からもわかる。例えば、「ワク」に関して言えば、 「地面を這う演技が、岩山を登るように見える」 などのトリックはその効果を利用しています。すなわち、我々は与えられた「ワク」を基準に世界を再構成して見ていることから、撮影時のカメラが90度倒れ ていてもそのことには気付かないのです(実際には、気付いてもそのようには見えにくい)。また、位置と角度についても、我々はそれがフレームとして機能し なくなると、どこからどう見て撮られたものかわからなくなり、なにが写っているのかすらつかめなくなってしまいます。
「ワク」・カメラの位置・角度、我々は通常それらを意識して感じてはいませんが、映像を見る場合に究めて重要な役割を果たしているのです。

描かれたものにせよ、カメラでとらえられたものにせよ、そこには(言語コミュニケーションにおける辞書や文法のようなかたちで取り出すことはできないが) 様々なフレームオブリファレンスが存在して、見る者の読みを支えています。それは経験的に身についてくるものでしょうが、音楽における「音階スケール」の ごとく、その修得に臨界期があるかどうかは定かではありません。

最後に慣性系に関わる特殊な問題にも触れておきましょう。世界に対する我々の関わり方には、アウトサイド・インとインサイド・アウトという2種類のフレー ムオブリファレンスがあると言われます。この問題は、航空機の操縦における視知覚を考察する場合によく引き合いにだされるものですが、アウトサイド・イン とは「航空機の外の世界(地球)が基準座標であり、航空機(自分)はそれに対して傾いている」というように、フレームオブリファレンスを外部において視覚 世界を捉えている状態を言い、インサイド・アウトとは「航空機の内部(自分)の上下左右が基準座標であり、外の世界が傾いている」というように、フレーム オブリファレンスを内部において視覚世界を見ている状態を言います。
一般に航空機の操縦では航空機自体が慣性系であるために、インサイド・アウトが有効なのですが、離陸や着陸時にはアウトサイド・インが有効にならざるをえ ません。この切り替わる
タイミングが航空機の操縦で最も危険な瞬間であるとも言われます。自分が傾いているのか
外が傾いているのかわからなくなる瞬間というのは、体勢感覚にも視覚にも違和感が生じてあらゆるコントロールに障害が発生しやすくなります。VRシステム を実用化する過程でもこの問題には注意が必要です。
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「脳」における視覚像

ここで、大脳の視覚領に関する脳科学の知見を補足紹介しておきましょう。
網膜が捉えた像は、ほぼそのままのイメージ配列を保って大脳に向かうのですが(V1野
からV3野までは、ほぼ網膜の配列がそのまま)、大脳には視覚に関わる複数の領野があっ
て、領野ごとにかなり明確な役割分担があります。
例えば、V1野(第一次視覚野)では初期的な情報の処理と振り分け、V3野では方向・線すなわち「形」の検出、V4野では「色彩」の検出、MT野では「運 動」の検出など、それぞれタイプの異なる処理が異なる視覚領野で行われています。
ま た、その処理の流れにも分担があって、例えば、右視野の像が左脳へ左視野の像が右脳へと分岐していること、「空間視」に関わる情報と「形態視」に関わる情 報がそれぞれ大脳の背側と腹側に分岐していることなど、大脳は、かなり複雑に機能分化しているといえます。もちろん、それらがどのように連合されるのかと いった複雑な問題は未解決ですが、このような視覚に関わる領野が少なくとも30以上あって、大脳皮質の60%以上が視覚情報処理に関わっているという事実 は銘記しておくべきでしょう(ちなみに、霊長類は皆同様の「視覚動物」です)。

さて、今の段階で確認されている非常に重要な知見は、「視る」ことにも「想像する」ことにも、ともに側頭葉連合野の連想記憶ニューロンの活性化(すなわち イメージ表象の活性化)が関わっているということです。
目 からのボトムアップ信号(視覚)、そして前頭葉からのトップダウン信号(想像)、この2つのタイプの信号は、同様のふるまいで我々のイメージ表象を活性化 しています。すでにサルトルは「想像力の問題」の中でこのことを哲学的に考察していましたが、我々の視覚と想像が、脳の中でおこる「イメージ喚起」のプロ セスを共有しているという知見は、特に「映像」に関する領域では、あらゆる考察の根幹をなすものとして注目すべきものです。


顔の認知には右脳の働きが重要(右損傷 → 顔貎失認)

顔の右半分(左視野:右脳担当)のイメージをフリップして顔をつくると
本人イメージと一致しやすい


第一次視覚皮質(V1)における
視覚像
(右 図)



※ 視覚に関連する細胞
v1, v2 , v3 , v3a , v4 , v5
           方向・線  色 運動



右脳と左脳

我々の体は対側制御、すなわち体の左半分を右脳、右半分を左脳が制御しています(左視野は右脳、右視野は左脳に入る)。
また、あまり正確な根拠はないようですが、一般に、感覚的・空間的・音楽的な情報 処理を右脳、論理的・言語的な情報処理を左脳、というふうに、右脳と左脳ではそれぞれタイプの異なる処理がなされていると言われます。
右脳が活発に動く人と左脳が活発に動く人では、情報の受け止め方や、発想の仕方が異なることが予想されるのです。もちろん左右の脳は連携しているのです が、言葉・音楽・映像の受取り方には「右からささやかれたか、左からささやかれたか‥」と同様の問題が無関係ではありません。
ちなみに、子音+母音の音声(『か』=K+A)を用いる日本人は、子音中心の言語を用いる西洋人と比較して、左脳(言語脳)で処理される音声の種類が多 く、このことが「虫の音(母音と構造が似ている)をも文学的な素材とする」日本人特有の文化を作り出したとも言われています(角田忠信「右脳と左脳」)。

人間の脳の記憶は引き出し式ではなく、複数の細胞が複数の記憶に同時に関わっています。よって「思い出」のイメージも絶対とは言い切れず、時間とともに変 質していると考えられます。
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主観的輪郭
多義図形
群化の要因
ステレオグラム

脳の機能局在