イメージの起源
絵画のはじまり
ホモ・サピエンスはいつごろから絵を描くようになったのでしょうか。現在までの調査では、石に刻まれた模様程度の痕跡が南アフリカのブロンボス洞窟で発見 されていて、それが約8万年前。壁画というレベルの痕跡であればフランスのショーベ洞窟で発見された約3万5千年前です。ちなみに、3万年前まで共存して いたと言われるネアンデルタール人の遺跡からは、石器などはあっても、壁画のような「ビジュアルメモリー」は発見されていません。※ただし、大型類人猿は ラクガキをします。ショーベ(仏)・ラスコー(南仏)・アルタミラ(ス)などの洞窟壁画に描かれているのは、自らの存在証明と思われる「手形」、スパゲッティ状の線や丸・三 角などの抽象的な図形による幾何学模様、狩猟・食の対象であった動物(生命維持)、そして、通常「ヴィーナス」と呼ばれる裸婦像(種族保存)などです。自 意識や抽象的思考の痕跡を外の世界に残すという人間の最大の特徴が、生命維持と種族保存という生物としての2大条件と並んで遺されていることになります。
洞窟の壁画には「枠」や「順序」がなく、画像として独立した世界を構成するためのパースペクティブ(ものの見方)も存在しません。つまり「システム」が存 在しないのです。通常、コミュニケーションを成立させるためには、要素間を関係づける「システム」が必要で、その痕跡が希薄である以上、それらはコミュニ ケーションのための画像というよりも、遊びに近い行為として描かれたものと推測せざるを得ません。
一般に先史時代は、遊びも生産も呪術も未分化の時代だと言われます。先史時代の画像や音とは、人と人との間のコミュニケーションの問題というより、もっぱ ら人と動物、あるいはアニミズム的な意味での神々とのコミュニケーションのために存在したと考えられます。
影
影は、オリジナルの複製であると同時にその代理をするもの(アナロゴン)として最も原始的な存在です。絵画や写真のように対象から分離することがなく、そ のことが「影」とその「主」との心理的距離を縮めます。影踏みという遊びも、影がその主に最も近い代理物であるという心理的な前提によって成立しているも ので、「イメージを所有することはその対象そのものを所有することに等しい」という映像に対する人の根源的な心象を物語っています。自然の造形
煙など、自然が偶然につくりだす造形は、あるときは動物の形であったり、人の顔であったり、あるいは神や仏のイメージであったりと、様々です。 特に、岩石の表面や樹木の表面などの場合は、外輪郭だけでなく、全体の形がそれと似ているという点で、また実体としてそこに存在するという点で、影よりも 独立性の高いイメージとなります。人はそうしたものに対し「そこに霊的な力が宿っている」あるいは「その対象と神秘的な力でつながっている」と考えがちで、そこに呪術や信仰の対象としての「像」の起源を想像することができます。道具が作り出すイメージ
日常的な道具をイメージとの関係で考える場合、大きく2つのタイプに分類することができます。一つは筆記具となるもの、すなわち人の頭と手を使って像を生成するための道具で、もう一つは鏡や針穴など自動的に像を形成する道具です。前者には大地や岩を引っ掻いて描くための棒や鋭利な鉱物、ふりかけて形にする砂(砂絵)や顔料、植物からとった染料とそれを塗る筆・刷毛の類の組み合わせ、といったものがあって、これは現在我々が用いる各種の画材の原型であるといえます。
後者は水を張った器(水鏡)、磨き上げた金属(銅鏡)、そして室内に外界の倒立像をつくる針穴と暗い部屋(カメラオブスキュラ)などで、これは後に写真機に発展するものだといえます。
描かれたイメージ、とらえられたイメージ、原始の心象ではイメージはその主(対象)と神秘的に結びついており、像が対象から霊的な力を写取ると考えられた り、代理物としての像に対して行う行為が現実に起こると考えられたりすることもあります。日本に写真術が伝わった幕末、「写真を撮ると魂が抜かれる」とい う迷信が流布しましたが、このような思考は、現代人の感覚にも無いわけではありません(平気で写真を踏んだり破いたりできる人は少ないと思います)。
鏡 : 鏡の存在はまた別の意味でも重要です。J・ラカン(1936)流に言えば、人としての出発点はこの鏡像に同一化することであり、この自分自身の鏡像こそが人間にとって最も関心のあるイメージであることはまちがいありません。
夢と幻覚
人はよく「夢は経験があるが幻覚は経験がない」と言いますが、「入眠幻覚」という言葉があるように、眠りに落ちかけた時、あるいは睡魔と戦っている時に人 はそれと気付かぬままに幻覚を見ていることも多いはずです。超自然の存在として話題になる妖怪や幽霊も、その9割以上が幻覚であると言われ、その意味で は、夢や幻覚というものも、異界からのメッセージとして大切に受け止められていたと考えられます。幻 覚 : ペンフィールド(1952)による側頭葉の電極刺激実験もそうです、 外界からの電磁気的な刺激によって、「光」のみならず「鮮明なイメージ」が浮かぶことがあることが近年の脳研究でも確認されています。ちなみに、心霊ス ポットと言われる場所が地質的に磁場の変動が大きい場所であるということも最近よく知られるようになりました(脳科学による種明かしが進んでしまうと、世 の中若干味気ないものです)。
起源の問題としては余談になりますが、幻覚や夢は、今日我々が普通に映像を見るという場合にもつきまとっています。映像には「知覚」と「想像」の両方が作 用していて、この「想像」の部分が(無自覚的に付加されるという意味で)幻覚や夢と同類なのです。
映像を見るというとき、ほとんどの場合、我々はカメラの枠の外を勝手に想像して「確かにそんな風景を見た」と思い込んでいますが、例えばテレビに映しださ れる風景も、枠の外はこちらの勝手な想像です(テレビで見た場所に実際に行って、思い描いていた風景との違いに愕然としたという経験が誰にでもあるのでは ないでしょうか)。 映像の面白さは「覚醒したまま夢が見られる」という点にもあります。無自覚的にわき上がるイメージというものは、現代の我々にも身近 な存在だといえるでしょう。
このページは書きかけです。
神・メディア・人間
今日、私たちが「芸術」としてとらえている音楽や画像、それらは、いずれも人類の起源にまで遡れば、非日常的に神々の世界と交感するための媒体(メディ ア)としての意味あいが強く含まれるといえます。 日本の芸能で言う「道」の概念も、それを究めることによって、「神」の域に到達することを目指していま す。| PAGE TOP |
ヒトと類人猿
イメージの起源について考えるとき、人間と類人猿の比較も参考になります。以下、人間と類人猿をいくつかの項目で比較してみましょう。その違いが、「予見と計画」すなわち「デザイン」というキーワードに関わる差であると考えると、無関心ではいられません。
ニホンザルもチンパンジーも含めて「サル」と一括されることがありますが、実はそれは非常に乱暴な区分で、ニホンザルとチンパンジーでは大きな差があります。逆に、人とチンパンジーでは遺伝子レベルで98%程度一致していて、わずかな差しかありません。
遺伝的なターニングポイント
・顎の筋肉細胞 200~240万年前 人間は非常に弱くなった→ 頭蓋骨にかかる負担が減り、脳の拡大を促したと考えられています。
・FoxP2遺伝子 20~30万年前(ホモサピエンス)
この遺伝子がないと言語障害になると言われています。
短期記憶
目の前のパターンを瞬時に記憶するということについては、チンパンジーは人間よりも能力が高いといわれます。人間はその能力を犠牲にして、他の能力(長期記憶? 言語?)の開発に脳を使うことを選んだと考えられます。イメージ認知
チンパンジーなどの大型類人猿は、鏡による自己確認や写真の認知が可能で、またペンを使った落書き行為もします(ニホンザルなど旧世界ザルは落書きはしません)道具活用能力
智恵というレベルでは、チンパンジーも意外に優秀です。「パイプの底に落ちたピーナツを取る」という課題に対しては、子供のチンパンジーでも「水を流し込んで浮かせて取る」ということをやります。人間の場合は8歳以上でないと正解できません。しかし、道具を使って道具を作ること(二次製作、例えば石斧を使って弓矢を作る)となると、難しくなりますし、もちろんコンピュータのような「形式的な知識」を要する機器操作は人間に軍配が上がります。
計画性
ゴリラは、餌場へ向かう際に、餌をとるための道具を持参するという計画的行動をします。ただし14時間以内。長期的な先読みはできないようです。
協力
人間は幼児でも無条件に人に協力しますが(たとえば大人が落としたものをサッと拾って渡してくれます)、チンパンジーは見返りがなければ協力しません(自分 に利益があることが必要条件です)。「見返りのない協力」「共通の目標に向かって協力」・・これはチンパンジーにはない、人間の特徴です。シンボル操作
チンパンジーは、死体を埋葬する(墓づくり)のような、高度なシンボル操作に関わることはありません。また下の例でもそうですが、指差し、つまり指という記号が指し示すもの、を理解・活用することは難しいようです。実験事例(餌の入ったカップの二択)
実験者が餌を取ろうとするしぐさをする → チンパンジーもそちらのカップを取る実験者が餌の入ったカップを指さす → チンパンジーの選択は分散(正解率低下)
つまり、チンパンジーは「指さし」を理解しない。実験者が餌の位置を教えてくれるとは想定していない・・ということです。逆に、人間は、コミュニケーションすることが前提の生き物だといえます。
言語
音声によるコミュニケーションは、もちろんチンパンジーも行います。しかし、人間が用いる音声言語の最も重要な特徴は「二重分節」つまり、音素という音の単 位の組合せで単語という意味の単位が構成されているという点です。ユニット単体には意味はなく、その組合せで情報ができる。これは5音階、7音階といった 音階を用いてメロディーをつくる音楽も同じです。この「二重分節」が、取り扱える情報量を無限大にしたという事実が、最も大きな差であると考えられます。実験事例(学習方略の違い)
ブラックボックスから餌を取り出すのに、実験者が一定の形式手順を見せる→ 人もチンパンジーもそれをまねて餌をとる
ホワイトボックス(中の様子が見える)から餌を取り出すのに、同じことをする
→ 人はそれをまねるが、チンパンジーは見えている餌をすぐにとる
つ まり、人間は「形式を学ぶ」という学習方法をとるのです。なぜそんな無駄なことをするのか不思議になりますが、この学習方法のちがいが文明の発展に寄与し たと考えると、「むやみに形式を重んじる」ということも、決して無意味なことではないと推察されます。現代人は、宗教儀式や祈りの行為を「形式的なもの、 無駄な行為」と考えがちですが、 おそらくチンパンジーがそれをまねすることはないわけで、その差がチンパンジーと人間の差を生んだと考えると、その意味を考えてみる必要もありそうです。
チ ンパンジーは運動能力と短期記憶において人間よりも優位です。一方、人間は、言葉・複雑な道具(二次製作)、協力、そして「形式」「関係」の重視という特 性をもちます。人間が捨てた戦略を訓練する試み(例えば短期記憶能力を訓練する)は、人間の進化のベクトルから考えれば、成功するとは考えにくいでしょ う。チンパンジーから枝分かれしたときに、何を捨て、何を選んだのか・・人間の未来のデザインを考えるときには、その再確認が必要です。
余談ですが
「形式(ルール)を提案し、それを全員が共有する」ということは、エコロジカルなデザインにつながります。例えば、「会議室の中に王様と家来の席をつくる」と いう場合、単純にこれをモノのデザインで実現しようとすれば、豪華な王様用の椅子と質素な家来用の椅子をつくるということになります。一人の王様のために 一つの椅子を作るというのは、エネルギー効率の悪い仕事です。しかし、椅子など作らなくともいいのです。「入り口から最も遠い場所が王の座で、入り口に近 くなるほど格が下がる」というふうに形式(ルール)を決め、それをその国の全員が共有する・・という「情報デザイン」をすれば、王様も含めて誰も不快に感 じることはありません。この場合はコストゼロです。
日本人は、客人を迎えるときに、座布団をひっくり返して差出します。このルールは非常に形式的なものです。しかし、形式的な慣習を主人と客人が共有す
る・・・ということで、「普段使うことのないお客様用の座布団をわざわざ用意する」などという資源の無駄使いをせずに済んでいるのです。
座布
団、風呂敷、折り紙・・・、日本人は、モノを特定の機能に特化させてデザインするのではなく、モノの使い手を訓練しそれを情報として共有する、というデザ
インの能力に長けています。これからデザインを学ぶ皆さんにとって、日本人のこの特性は、是非学んで欲しいことのひとつです。
も うひとつ。多くの人を楽しませるエンターテイメントにはそれなりのお金がかかる・・・というのが常識ですが(お金が動くということはそれだけ二酸化炭素を 排出するということを意味します)、例えば、野球というゲームを思い出して下さい。極端に言えばこれはボール1個あれば成立します。ボール1個をめぐって 数万人の観客が楽しんでいます。同じ数の人間が遊園地で遊ぶのと比べると消費するエネルギーには極端に少ないでしょう。何がそれを可能にするのか? それ は「全員が野球のルールを共有している」からです。ルールを知らない人が野球を見ても何が起こっているのか、何が面白いのかまったくわかりません。つまり 「一個のボールと形式(ルール)の共有」が「省エネエンターテイメント」を可能にしているのです。
「ものをつくること、エネルギーを使って事を起こすことだけデザインではない。形式をつくって提案するだけでも、人と社会を快適にするデザインはできる」・・・という一つの例え話です。
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補足:「身振り」というビジュアルイメージ
絵筆をもつこともできない乳児が最初に発信する視覚情報、それが身振りです。
脳科学の分野で、近年ミラーニューロンという概念が話題になっていますが、
それは「他者の身振りはイコール私の身振りである」ということを説明する概念です。
人間が他者の行為を見る際の脳の状態を調べると、自分自身がその行為を行う場合と同様の部位が興奮している。つまり人の身振りというものは、見る人を同一 の感覚に駆り立てる視覚情報であり、ただ単に「体の動く形が見えている」という以上にコミュニケーションを体感的なものにする特殊な視覚情報なのです。
ビデオ映像でも「あくび」がうつります。身振りは、それが映像に映し出された人物のものであっても、非常に重要な情報を担っているのです。
さて、身振りという視覚情報の中でも最も重要なのは、「手の動き」と「顔(まなざし)の動き」です。このことは、手品師の動作を見ればよくわかります。観 客は手品師の行う指差し動作や、小道具を見つめるまなざしに最も誘導されやすいものです。
アニメ・キャラクターの動き、パントマイム、手話、いろいろな表現を思い出してみよう。身体を情報源とした視覚情報の大半はまなざしと手の動きが担ってい ます。
蛇足ですが、確認の意味で付け加えておきます。視覚情報には照明が必要です。
身振りも当然「光の下」でなければ見えないし、光の方向が変われば印象も変化します(能面・あごから懐中電灯)。立体である身体(顔)も、形と照明の両方 に依存した視覚情報でなのです。
人は音 声を発することはできるが、「光」を発することはできない
言い換えれば、人は音源をもっているが光源はもたない。
もちろん、気功術などを修得することで、遠赤外線の一種をコントロールしつつ 放射することが可能になるという例もあるが、これはきわめて稀な例であり、 ここでの議論の対象ではない。
「光」は数百nmという非常に波長の短い電磁波であり、我々の身体スケールでは これを音声と同様の仕方でコントロールしながら放射することなど、とうてい不可能である。
したがって、我々が視覚情報を生成するという場合は、 もっ ぱら頭と体を使うことによって直接あるいは間接的に空間的な形状(情報源)をつくり、 それを光源で照らすという手段をとることになる。
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