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川村洸太/情報デザイン研究II/コンテンツ の変更点


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[[川村洸太/情報デザイン研究II]]
***柳川の歴史
-柳川の江戸時代
 有明海の干満差を利用して、当地方ではすでに13世紀には干拓が行われていたと考えられています。とくに江戸時代に入ると、政治体制また社会が安定したことから、大規模な干拓が行われるようになります。
 
 関ヶ原合戦後、筑後一国を与えられて柳川城に入城した田中吉政は、慶長7年(1602)に柳川市大和町鷹尾から大川市酒見に及ぶ堤防の補強を命じています。こうして出来たと考えられているのが、総延長32キロメートルに及ぶ「慶長本土居」と呼ばれる干拓堤防です。具体的なことはわかりませんが、この「本土居」築堤によってその内側の土地の耕地化がなされたと考えられます。
 この「慶長本土居」を起点として、その後の干拓は行われることになります。
 
 田中氏2代の後を受けた立花柳河藩でも、引き続き積極的な干拓事業が行われます。塩塚川と矢部川に挟まれた部分の干拓地を描く「皿垣開絵図」によって、江戸時代中後期までの干拓の様子を見てみましょう。
 
 この絵図には朱線で表された「慶長本土居」から西側に黄色の線で囲まれた魚鱗状の区画が描かれていますが、これが一つひとつの干拓地(開地)です。その干拓地ごとには名称が書き込まれています。古川開や江湖開など干拓以前の土地の有様がわかる名称もありますが、それ以外の多くは開発者の名前が付けられています。
 その名前はほとんどが藩士のものですが、なかには商人や浪人の名前も見られます。このことから、江戸時代中後期くらいまでの干拓は、藩士たちを中心として様々な主体で行われ、比較的小規模であったことがわかります。
 
 江戸後期になると、皿垣新開の東側や黒崎新開、横須・手鎌新開など藩領の南部で、藩あるいは藩主による大規模な干拓事業が行われます。こうして、柳河藩では明治初年までに2,540町の干拓を達成しています。
 
 現在でも上空から見ると、干拓地が魚鱗状に広がっていることがわかります。この風景こそ「土地に刻まれた歴史」そのものといえるでしょう。


-柳川の地名
 「柳川」という地名の由来は何でしょうか。
よく聞かれるのは、柳の木が多いからというものです。江戸時代に著された地誌「太宰管内志」には、「柳の多き処にて負わせたるべし」と、すでにこの説が引かれています。確かに現在でも堀岸に柳の木が多く生えていて、有力な説と言えます。
 
 では、「やながわ」という地名が最も早く確認できるのは、何時でしょうか。現在のところ、鎌倉時代後期の永仁4年(1296)の史料に、蒲池、田脇、間などの地名とともに「簗川」として登場するのが最も早い事例です。その後戦国時代くらいまでの史料には、やはり「簗川」あるいは「簗河」と書かれています。この「簗」とは、川に仕掛ける魚を獲る道具のことです。古い時代にはこの字ばかりが使われているので、あるいはかつて簗を使った漁がおこなわれていて、これが「やながわ」という地名の起源になっているのかも知れません。
 
 また、柳河藩士西原一甫が著した「柳河明証図会」には、音楽寺(現中町八剣神社)の裏の流れを「柳川」というと書かれています。つまり、この水路の名称が「やながわ」という地名の起源であるとしているのです。
いずれにしても、柳由来説、簗由来説、水路の名称由来説とも決め手を欠き、はっきりとした由来はわかりません。
 
 ところで、「柳川」「柳河」という表記が見られるようになるのは、安土桃山時代くらいからです。江戸時代は「柳川」と書いたのですか、それとも「柳河」と書いたのですかというご質問を多く受けますが、藩から幕府へまた幕府から藩への文書には、「柳川」「柳河」どちらも使用されており、どちらが正式ということはなかったようです。

-柳川の近代
 明治4年(1871)7月14日、「廃藩置県」の詔書が公布され、柳河藩が廃止されて柳河県が成立します。すでに明治2年6月の「版籍奉還」によって、藩主は「知藩事」となり、藩主家の家政と藩の行財政が分離されるなど藩の解体は進行していましたが、廃藩置県によって、知藩事(旧藩主)は解任されて東京在住を命ぜられ、藩が消滅して3府(東京・大坂・京都)302県となりました。
 
 しかし、廃藩置県は周到な準備の後に行われたわけではなく、多くは旧藩がそのまま県になりました。そこで、明治政府はすぐに新しい府県区画の策定に着手し、明治4年11月14日、3府302県を3府72県に統合しました。その結果、柳河県はわずか4ヶ月で廃止され、久留米県・三池県と合併して、筑後一国を範囲とする三潴県となります。
 
 この時、筑前一国を範囲とする福岡県、豊前一国を範囲とする小倉県が成立しますが、明治9年4月18日には小倉県が福岡県に編入合併され(旧中津県は大分県に編入合併)、三潴県は佐賀県を編入合併しますが、同じ年の8月21日、三潴県は福岡県に編入・合併されます(旧佐賀県は長崎県に編入合併)。こうして、現在と同じ範囲の福岡県が成立します。
 
 このように、三潴県が存在したのはわずか4年9ヶ月という短い期間でした。当時は、尊攘派の拠点として反政府の動きを強めていた久留米藩に対する処分(明治4年3月)の混乱も残り、また、隣の福岡県(筑前)で「筑前竹槍一揆」(明治6年6月)が、また、佐賀県で「佐賀の乱」(明治7年2月)が起こるなど不安定な情勢が続いていました。三潴県はいわゆる「難治県」の一つでしたが、その短い期間に、不安定な情勢の中で、徴兵の実施や学校の設置、また、地租改正や秩禄処分など明治政府が進める新しい政策が実施されました。
 
 三潴県の県庁は、当初三潴郡榎津町(現大川市)に置かれましたが、同郡向島村(現大川市)に移転した後、明治5年3月に久留米両替町の旧久留米藩御使者屋に置かれました。また、山門郡柳河城内本小路(現柳川市本町)に柳河出張所が設置され、旧柳河・三池藩領を管轄しましたが、明治6年1月に廃止されています。
 
 三潴県の権令(現在の県知事にあたる)は当初は任命されず、参事(現在の副知事にあたる)の水原久雄(岡山藩士族)が代わりを務めました。その後、明治6年7月に岡村義昌(鶴舞藩士族)が初代権令に、また、明治8年10月に平川光伸(岡山藩士族)が二代権令に就任しています。
 
 明治7年5月の「三潴県職員表」(浮羽郡田主丸町三浦家文書)を見ると、権令岡村義昌、参事水原久雄、権参事塩谷良翰(全て太政官が任命する奏任官)のほかに、71人の判任官(権令が任命)と33人の等外官が、庶務・聴訟・租税・出納の4課に所属していることがわかります。
 
 三潴県が廃止され、現在と同じ福岡県が成立すると、明治12年(1879)には県会が開設され、警察費・土木費・衛生費・教育費・郡区役所費・戸長役場費など地方税から支出される経費の予算とその徴収方法が審議されることになりました。そのうち、土木費については、府県会の議決により、旧慣に基づいて支出することが認められたため、多くの府県で、土木費の支出方法が大きな争点となります。
 
 福岡県の場合、土木費の問題は、筑後(旧三潴県)地域選出議員が治水費の地方税支弁を主張し、筑前(旧福岡県)・豊前(旧小倉県)地域選出のほぼ全ての議員がそれに反対するという地域間対立として展開します。筑前・豊前地域にとっては、治水費が地方税から支出されれば、筑後川や矢部川といった大きな河川を有する筑後地域が有利となると考えられました。
 
 他方、筑後地域では、江戸時代以来三潴県の時代まで、筑後川などの治水は、藩や県が年貢米とは別に直納銀代米(久留米藩、慶応二年に傭役米と改称)や歩米・弐斗五升米(柳河藩)を徴収して実施していましたから、福岡県になって地方税が徴収されるにもかかわらず、治水費が地方税から支出されずに流域の郡・村の負担となるのは不当であると考えられたのです。しかし、県会では、治水費の地方税支弁案は、常に筑前・豊前地域の反対によって否決されました(明治24年可決)。
 
 こうした状況に業を煮やした筑後地域の人々は、明治政府に対して、筑後一国(旧三潴県)を福岡県から分離・独立し、大分県の日田地方を加えて新しい県を誕生させることを請願し、分県運動を展開します。但し、分県運動を行ったのは旧久留米藩の人々であり、旧柳河藩の人々は参加していません。そのためもあってでしょうか、明治政府は筑後地域の分離独立を認めず、分県運動は失敗に終わりました。
 
 以後、分県運動が行われた形跡はなく、明治9年に誕生した福岡県が現在まで続いていくことになります。
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***柳川うなぎの歴史
日本でうなぎの歴史として最も古いのは約5000年前、縄文時代の貝塚からうなぎの骨が出土しています。その他にも数々の貝塚からも骨が出土している事から、うなぎは古くから日本人に馴染みのある魚だったということが伺えます。

-日本におけるうなぎの歴史

うなぎが文献に初めて登場したのはかの有名な「万葉集」でした。大伴家持が吉田連老に贈った歌があります。
石麿呂に 吾れもの申す夏痩せに よしといふものぞ むなぎ(鰻)とり召せ
これは大伴家持が吉田連老の夏痩せを笑い、うなぎを食べるようにと奨めている歌です。この頃からすでにうなぎが滋養強壮に効果のある魚として知られていたことがわかります。ちなみに、平安時代の貴族はうなぎを白蒸しにして、塩味で食べることを好んでいたようです。 昔はうなぎのこと「むなぎ」と呼んでいたが、これはうなぎの「胸が黄色い」こと、形が棟木(むなぎ)に似ていること等に由来しています。そして、「うなぎ」と呼ばれるようになったのは12世紀頃からと言われています。うなぎを食べるという歴史は縄文時代と推測されていますが、本格的にうなぎが食べ物として定着し始めたのは江戸時代に入ってからです。江戸時代、徳川家康が江戸の発展を目指して開発を進めていた際に、干拓によってできた湿地にうなぎが住みつくようになったことから、うなぎは労働者の食べ物へと定着していきました。

海外ではうなぎの歴史はいつ頃から食べられていた起源があったのでしょうか。
実はヨーロッパでは紀元前431年からすでにうなぎが食べ物として食されていた文献が残っています。
 
当時ペロポネソス戦争といわれる戦争が行われていました。戦争は古代ギリシアで行われていたとされています。
このペロポネソス戦争を舞台にアリストファネスという風刺詩人が「アカルナイの人々」という作品をつくりました。
その作品中にうなぎを食している文献が残っていることから、紀元前431年にはすでに鰻を食べていたのではないかと推測されているのです。
 
また古代ローマではうなぎを背開きにし、魚醤とはちみつを混ぜたタレを塗りながら炭火で焼き、胡椒をふりかけて食べていたようで、
当時から高価な食べ物として料理されて歴史があるようです。

-蒲焼きの始まり

うなぎの蒲焼きが最初に文献に登場したのは、応永6年(1399年)に著された「鈴鹿家記」です。その中でうなぎを筒切りにして串に刺し焼いて食べた、その姿形が蒲(がま)の穂に似ていたことから、「蒲焼き」と呼ばれるようになったと言われています。他にも、うなぎを焼いた時のかんばしい香りが転化して、かんばや、香疾(かばや)、蒲焼きになったと言う説などもあります。
その後、室町時代までは塩で食べたり、酢みそ、辛子酢で食べられていたようです。室町時代末期には、ぶつ切りしたうなぎに醤油や酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる蒲焼き料理が登場しました。 この料理は、近江の宇治川のうなぎが大変美味だった事が由来と言われています。 蒲焼が現在のような形になったのは18世紀、天保年間(1781年~1789年)に、千葉県銚子にある、現在のヒゲタ醤油、五代目当主田中玄蕃が、濃い口醤油を作り出したことに起因します。 それまで良い醤油とは主に関西から入って来ていたのですが、濃い口醤油が江戸の人の嗜好に合い、大流行したのです。これは、関西の薄味に対して、関東は濃い味と言う、お馴染みの料理文化にも繋がっています。そしてこの時期に確立されたうなぎの蒲焼きと言う料理法は、完成された当時から現在まで変わらず続いています。

-「うなぎ」と柳川の繋がりとは?

柳川と「うなぎ」の歴史を紐解いていくと、史料などに現れるのは江戸時代の中期~後期ごろ。江戸時代後期の柳河藩領内にて、「うなぎ」は「漁方」という役所の統制下におかれていたようです。
「うなぎ」を好きに捕ることはできず、「鰻漁札」という鑑札を藩から得なければいけませんでした。また、うなぎ漁には「漁方」という「うなぎ」の計量を専門に行う人がいたこともわかっています。
このことからこの時期には柳河藩が「うなぎ」を特産品として扱っていたということに他なりません。
「うなぎ」は、当時、まず漁師から仲買に売られ、仲買から問屋へ納入されていたようです。漁師たちは「うなぎ」を仲買に安く買いたたかれていたようで、仲買を廃止し問屋に直接納入できるよう藩に嘆願を提出していたこともわかっています。
旧藩主立花家に残される史料によれば、大阪にある川魚問屋と柳河藩の間で「うなぎ」の購入に関する契約を結んでいた期間があったこともわかっており、柳川の「うなぎ」は当時より全国的に注目されていたようです。
現在では「うなぎ」は養殖が多く、天然物は少なくなっている状況にあります。

-「うなぎのせいろ蒸し」発祥のお店『元祖本吉屋』

柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」が登場するのは、1681年。
今から約330年以上前、現在も大人気の老舗店『元祖元吉屋』で、せいろ蒸しという調理法が発祥しました。
当時、江戸で刀鍛冶をしていた『元祖本吉屋』の初代ご主人が関東で「うなぎ」の蒲焼きを知り、柳川に戻って後に「せいろ蒸し」の調理法を考案されました。
皮が堅い「うなぎ」をより柔らかく、そしてホカホカの状態でお客様にお召し上がり頂きたいとの温かな思いやりから生まれた『元祖本吉屋』の「せいろ蒸し」。
創業当時から受け継がれてきたタレに継ぎ足しを行い紡がれてきた『元祖本吉屋』ならではの秘伝のタレは、柔らかで濃厚なお味で「うなぎ」とご飯を包み込みます。
創業当時から変わらない味を提供し続けている『元祖本吉屋』。

-現在のうなぎに関する問題

ニホンウナギは実は絶滅危惧種に指定されています。
2014年に 「絶滅危惧1B種」 として国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストに掲載され、「近い将来、野生での絶滅の危険性が高い」とされました。
絶滅危惧1B種は、ラッコ、トキ、ジャイアントパンダなどと同じ2番目に危機度の高いランクです。絶滅が危惧されている原因は3つほど挙げられます。

原因1. 乱獲
ニホンウナギの生息数減少の原因として考えられるのが、乱獲による減少です。
うなぎ漁では、ほとんどの場合、成魚になる前の稚魚(シラスウナギ)の段階で捕獲します。
産卵を終える前のうなぎを捕獲してしまうため、獲りすぎれば、当然ながら絶対数は減っていきます。

原因2. 環境破壊
うなぎは産卵のために海に出ますが、生活拠点はあくまで川です。
川の流れが遅く、石や岩の隙間環境を好みます。しかし近年では河川は洪水などの被害を防ぐために直線的形状へと改修され、川の流れは速くなりました。三面コンクリート張りのような河川開発も多くなり、うなぎにとって住み心地の良い生息環境は減少してきています。

原因3. 海流の変化
ニホンウナギの多くは、太平洋のマリアナ諸島付近の海で産まれ、そこから海流に乗って、日本の川にたどり着きます。ところが、近年ではエルニーニョ現象などにより、海流が変化して、日本にたどり着かずに死んでしまうシラスウナギの数が増加しているそうです。

解決策について
これらの解決策としては、持続可能な漁業の推進や養殖技術の向上が挙げられます。漁獲制限や生息地の保全、回遊経路の復元も必要です。国際的な協力が不可欠であり、これらの取り組みを総合的に進めることが、ウナギの絶滅問題への対処に役立ちます。
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***柳川お土産

-柳川まり

「柳川まり」は、雛節句に欠かせない祝いの品です。
 江戸時代、藩の腰元たちが作り始め、それが町家の女性たちにも広まりました。母から娘へと受け継がれてきた柳川まりは、菊や椿、花しょうぶなど華やかな模様が中心です。
 縁起物だけに赤やピンクなどの明るい色使いが多いのも特徴です。


-さげもん

「さげもん」は、日本の祭りや行事で、神輿(みこし)や祭りの儀式で使用される飾りや装飾を指す言葉です。これらの飾りは、祭りの豊かな雰囲気を演出し、伝統や信仰の象徴として重要な役割を果たします。
一般的には、色とりどりの布や飾り緒(かざりお)が結ばれ、神輿や神事に華を添えます。さげもんは地域ごとに異なるスタイルや模様があり、地元の職人や神社の信者が手がけることが一般的です。
これらのさげもんは祭りの一環として制作され、祭りが終わった後も一部は保存され、次の年の祭りに再利用されることがあります。そのため、伝統と芸術が融合した祭りの重要な要素となっています。

-蒲池窯

蒲池窯(がまちがま)は、日本の陶芸で知られる窯業の一つです。主に佐賀県唐津市に位置し、その歴史は古く、伝統的な陶磁器の生産地として栄えています。
この窯は、唐津焼(からつやき)としても知られ、その特徴は色鮮やかな絵付けや独自の技術にあります。伝統的な唐津焼は、白い胎土に対して青や緑、赤などの鮮やかな絵付けが施され、風景や自然のモチーフが描かれることが一般的です。
蒲池窯では、古くからの技術を守りながらも新しいアプローチやデザインも取り入れ、その作品は地域や国内外で高い評価を得ています。窯元を訪れれば、陶芸家の作業風景や製品にまつわる歴史に触れることができ、唐津焼の魅力を堪能できるでしょう。


-清酒

清酒(せいしゅ)は、日本の伝統的な米を主原料としたアルコール飲料です。清酒は通常、水、米、麹(こうじ)、酵母を使用して醸造され、発酵と熟成を経て造られます。
日本の清酒は、その多様な風味と品質の高さで知られており、吟醸酒や大吟醸酒など、醸造プロセスや原料の違いによってさまざまな種類が存在します。清酒は一般的に、冷酒や燗酒といった異なる温度帯で楽しまれ、日本の料理との相性が良いことでも評価されています。
地域ごとに独自の銘柄や蔵元が存在し、清酒文化は日本の食文化と深く結びついています。清酒はまた、伝統的な行事や祝い事、様々なシーンで親しまれ、その文化的な重要性が広く認識されています。


-本場柳川みそ

本場柳川みそ(ほんばやながわみそ)は、福岡県柳川市が誇る伝統的な発酵調味料です。主に大豆と米を原料とし、独自の製法で仕込まれます。柳川みその特徴は、豊かな旨味と深い風味が調和した味わいであり、その独自性が地元の食文化を彩っています。
製法は丹念な手仕事と伝統の技術が結びついており、長期間の発酵と寝かせることで独自の風味が生まれます。柳川みそは、味噌汁や料理の調味料として広く用いられ、地元住民や観光客に親しまれています。
地元のみそ蔵では、製造過程や歴史に関する情報を学ぶことができ、柳川みその工芸的な魅力に触れることができます。


-柳川凧

柳川凧(やながわのたこ)は、福岡県柳川市で伝統的に作られている風の玩具です。手作りの技術と美しいデザインが特徴であり、地元の工芸文化を象徴する存在とされています。伝統的な製法に則り、軽くて丈夫な素材が使われ、風に乗って優雅に舞うその姿は、観光客や地元住民に親しまれています。柳川市の工芸品店や観光地で入手可能であり、地域の伝統を感じることができます。

-柳川白桃

柳川で有名な果物としては、柳川白桃が挙げられます。この白桃は瑞々しくて甘みがあり、地元で評価されています。他にも、柑橘類や梨などが地域の特産品として知られています。


-有明海苔

有明海苔は、日本の有明海地域で生産される海苔のブランドで、その高品質な海苔で知られています。有明海は九州に位置し、独自の海洋環境を有しており、これが海苔の成長と品質向上に寄与しています。有明海苔の製造プロセスには、注意深く選ばれた海苔の原料、特有の加工、そして曝曬プロセスが含まれており、最終的な製品が優れた風味と食感を持つようにしています。
この海苔は一般的に、寿司、手巻き寿司、その他の日本料理に使用され、その薄くてサクサクとした特性から幅広く愛されています。有明海苔の製造には長い歴史があり、伝統的な技術と現代の科学技術が融合し、日本の海苔市場で重要なブランドとなっています。


-柳川うなぎ

柳川うなぎは、日本の有名な鰻(うなぎ)料理で、主に福岡県の柳川市で提供されることで知られています。この地域は、美味しい淡水鰻の産地として有名であり、柳川うなぎはその新鮮で上質な鰻を使用した料理です。
柳川うなぎは、特有の甘いたれ(タレ)で焼かれ、その絶妙な味わいが特徴です。一般的に、蒸し焼きや蒲焼きなどの調理法が用いられ、脂がのった鰻がやわらかく、ジューシーな食感を生み出します。
この料理は柳川市の観光名物の一つであり、地元の食材と伝統的な調理法が融合して、食通や観光客から広く愛されています。柳川うなぎを味わうことは、日本の郷土料理の魅力を楽しむ素晴らしい機会となるでしょう。


-柳川うなぎラーメン

柳川うなぎラーメンは、日本のラーメンの一種で、主に福岡県柳川市で提供される独特のラーメンスタイルです。このラーメンは、地元の名産であるうなぎ(鰻)とラーメンが組み合わさった美味しい料理として知られています。柳川うなぎラーメンのスープは、通常は鰻の出汁をベースにしており、その独自の風味が特徴です。具材には、蒲焼きにしたうなぎのほか、緑黄色野菜やネギ、メンマ(竹の子の酢漬け)などが使われ、バランスのとれた味わいを生み出しています。このラーメンは、柳川市の観光名物として親しまれ、地元の食文化を訪れる人々に紹介する一つの手段となっています。柳川うなぎラーメンを食べることで、地域の特産物と独自のラーメン文化を楽しむことができます。


-柳川うな巻

柳川 うな巻は、日本の福岡県柳川市で生まれた独自の寿司の一種であり、地元で親しまれている郷土料理である。その特徴的な製法と風味から、観光名物としても知られています。
柳川のうな巻は、蒲焼きの鰻が特に贅沢な味わいをもたらし、口に入れた瞬間にふんわりとした香りとともに広がります。地元の鰻や食材を用いることで、他地域のうな巻とは異なる独自の風味を楽しむことができます。


-うなむすび

「うなむすび」は、日本の伝統的な食文化における一品であり、鰻(うなぎ)を主成分としたおにぎりの一種です。その特徴的な製法や風味から、日本国内外で親しまれています。
うなむすびは、鰻の蒲焼きが具材として使用され、その風味がおにぎり全体に広がります。香ばしさとほどよい甘みが絶妙なバランスを生み出し、一口食べると日本の伝統的な味覚を感じることができます。

-柳川むつごろう

「柳川 むつごろう」は、日本の福岡県柳川市に伝わる伝統的な和菓子です。形状や風味の特徴から、地元の人々や観光客に親しまれ、地域の文化や歴史を感じさせる一品です。
むつごろうの特徴は、もちもちとした食感と、甘さがほどよく調和した味わいにあります。一般的には手のひらサイズで、見た目も可愛らしく、贈り物やお土産としても人気があります。
柳川のむつごろうは、江戸時代から続く歴史を有しており、地域の伝統や文化を引き継いでいます。地元の行事や祭りなどで提供され、地域住民や観光客が柳川の歴史と味を感じる手段となっています。
柳川市では、むつごろうを楽しむことができる和菓子店や土産物店が点在し、観光客が地元の味わいを堪能する場として親しまれています。地域の風土や伝統が反映されたむつごろうは、柳川市の食文化を象徴しています。
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***柳川の住みやすさ

柳川市は、福岡県の南西部に位置する人口約62,000人のまちです。水路が網目状に巡る日本でもここだけしか見られない町並み、福岡市や佐賀空港までのアクセスが良い立地と、有明海などの自然に恵まれたちょうどいいバランスの良さが魅力的な地域です。

-柳川市の3つの特徴

特徴1:町中を水路が走る風情ある風景

柳川市の特徴として一番に上げられるのが、掘割(ほりわり)です。掘割とは、簡単に言うと地面を掘って人工的に造った水路のことです。柳川がもともと湿地帯であったことから、土地の水はけを良くすること、掘った土を住宅地や堤防に活用すること、水を蓄える溜池の役割を果たすことなどを目的に造られました。
現在でも柳川市全域で約930kmの水路が張り巡らされており、柳川市でしか見ることのできない風情ある風景が残っています。掘割を活用した川下りは一年を通して体験することができますが、夏の期間限定で夜の川下り「灯り舟」が運航されたり、秋には柳川市所縁の詩人・北原白秋の命日を挟んで3日間行われる「白秋祭」で水上パレードが行われたりと、柳川市は正に掘割と共にある街だと言えます。
日本でも柳川市だけでしか見られない風景に、街への愛着も生まれそうです。

特徴2:福岡市や空港へのアクセスが良い立地

柳川市は掘割や農地が広がり、南西部は独特の生態系を有する有明海に面しているという豊かな自然に恵まれていながらも、交通アクセスが良い立地にあるのが特徴です。
例えば、西鉄柳川駅から福岡市の中心である西鉄福岡駅までは、乗り換えなしで45分~1時間ほどで行くことができます。また、九州佐賀国際空港までは車で25分ほどで行くことができるため、東京はもちろん、上海やソウル、台北などのアジア圏に行く際の飛行機利用にも便利です。
柳川市は穏やかな暮らしを楽しみながらも、都市部へ出たい時には容易にアクセスできる良さがあります。

特徴3:農作物も海の幸もB級グルメも豊富なまち

柳川市のグルメと言えば、うなぎのせいろ蒸しが思い浮かぶ方も多いかもしれませんが、柳川市の食の魅力はそれだけではありません。農業が盛んなことはもちろん、有明海にも面していることから漁業も行われているので、アサリなどの新鮮な海の幸も手に入れることができます。また、昔ながらの洋食や、実はソウルフードとして愛されているちゃんぽんなど、観光地であることも手伝って美味しい飲食店がたくさんあります。

-柳川市の暮らしに関する情報

柳川市は盆地で山がなく、坂もない平坦な土地のため夏の暑さは全国平均並みです。冬に雪が積もることはほとんどなく、大雪の時でも1~2cm積もる位で、九州らしい気候と言えます。
もともと城下町である柳川市は、本城町(ほんじょうまち)や沖端町(おきのはたまち)などに住居が密集しており、観光の中心地でもあります。一方で西鉄柳川駅の周辺には、マンションやホテルが建てられ、近代的な様相を見せています。
市の中心部に住めば大きなショッピングモールや、買い物のできる施設が多くあり、ある程度の交通の便も担保されるため、車がなくても生活はできますが、やはり車があった方が利便性はぐっと高まります。

-【仕事】近隣都市も含め求人数は多い。市外への通勤も視野に

大手求人サイトで「柳川市×正社員」で検索したところ、約1,300件の求人情報が見つかりました。車で30分以内の通勤圏内(市内から25km以内)で検索したところ、求人情報は約35,000件まで広がりました。柳川市の基幹産業は農業と漁業ですが、市内には製造業や運輸業、サービス業などのさまざまな職種があります。また、福岡市や熊本市まで車で約1時間で行けるため、市外へ通勤する人もいます。

-【住まい】賃貸物件は多い。物件取得には支援制度あり

大手住宅情報サイトで柳川市の物件を探したところ、賃貸が可能なアパート・マンションは約300件見つかりました。福岡市中央区は広さによって、家賃平均にかなりの差がありますが、柳川市はあまり差異がありません。家賃の手頃さも移住する後押しとなりそうです。戸建てを考えている方におすすめなのが、「U-45マイホーム取得支援事業」と「新婚世帯マイホーム取得支援事業」です。いずれも年齢制限などの条件のある制度ですが、当てはまる方は活用を忘れないようにしましょう。
また、柳川市では空き家バンクである「住まえるバンク」も行っています。賃貸物件と売り物件の両方を取り扱っているので、中古物件を検討している方はこちらもチェックして下さい。

-【子育て】遊び、娯楽、交流と、目的に応じた施設がある

柳川市内には、大小さまざまな公園がありますが、その中でも特に人気なのが、有明海に面した「柳川むつごろうランド」です。大型遊具が設置されていることから、週末になると多くの家族連れで賑わいます。子育て世帯の交流の場としては、「地域子育て支援拠点このゆびとまれ」が活用されています。毎週月曜~土曜の10~16時に開館しており、プレイルームや屋根付きのデッキスペースなどを無料で利用できます。主に0~3歳までの子どもとその家族を対象としているので、保育所などに入る前に友達を作るのにもぴったりです。市民向けに演劇やダンス、音楽などのイベントやワークショップが行われているのは、「柳川市民文化会館」です。キッチンカーなどが来たり、学生が自習の場として使ったりと、多様な年代層が活用しています。柳川市は目的に応じて遊べる場所がたくさんあります。週末や休日を過ごす選択肢はいろいろあるので、暇を持て余すことはなさそうです。

-柳川市への移住について

柳川市への移住を考え始めたら、「オンライン移住相談」「移住体験施設」などを活用してみましょう。

-相談料は無料!オンラインで気軽に相談ができる

柳川市への移住を考え始めたら、いろいろと疑問が出てくると思います。そんな時は、「オンライン移住相談」を活用してみましょう。
柳川市では、Web会議システム「Zoom」を活用したオンラインでの移住相談を行っています。平日9:00から20:00の間で最大40分の相談ができ、相談料は無料です。
利用希望日の1週間前までに相談の予約をして下さい。

-オール電化住宅で柳川暮らしを体験

実際に柳川市に行ってみたくなったら、移住体験施設の「もえもん家(ハウス)」を活用しましょう。滞在可能期間は最短20日間から最長1か月で、利用料は、2,000円+(体験日数×400円)です。木造瓦葺平屋建2DKのオール電化の住宅には食器類、寝具、Wi-Fiなどが一通り揃っています。
「もえもん」とは、柳川の方言で「みんなで分け合って仲良く使う」という意味です。「もえもん家(ハウス)」に滞在しながら、地域の人たちと交流し、より柳川市について知るきっかけにできるでしょう。

-暮らしと仕事の両方が体験できるツアーも開催されている

現在、柳川市独自では体験ツアーは行われていませんが、福岡県が「しごと発見!ふくおか暮らし体験事業」を実施しています。
これは、実際にその地で仕事をしながら、暮らしを体験できる事業で、一定期間働けるものや、短期のインターンシップなどがあります。
福岡までの旅費や宿泊費が助成されたり、地域の人たちと交流ができる本事業には、柳川市内の5つの事業者が参画しているので、仕事探しや体験を兼ねて柳川市に行くことができるいい機会になりそうです。

-福岡県柳川市に暮らす先輩移住者の声

--柳川市は都会と比べて時間の流れがゆっくりしているが、その分朝が早いように感じる
--リモートワークができる仕事の人にとって、歴史がある町で過ごせるのはとてもいいと思う
--自然観察が好きなので庭に飛んでくる鳥を見るのが楽しい。掘割でカワセミを見かけたこともある
--車の運転が難しくなった時に、歩いていろいろな場所に行ける利便性の良さも移住の決め手になった
--ちょっと行けば山もあるし、ちょっと行けば都心もあるっていうロケーションの良さが気に入っている
--柳川は歴史が深く、掘割が残っているなど、ほかのまちとは違った魅力をもつ特別なまちのように感じている

アクセスの良い立地にありながらも、掘割や農地、有明海などの自然にも恵まれているバランスの良さを気に入っている方が多いようです。