ソーシャルデザインの考え方
SocialDesign|Concepts
自律分散協調
小さいことをうまくやる|UNIX の哲学
生物の細胞は、おとなりの細胞とうまくやることだけに専念しています。それでも全体はうまく動くのです。
社会は中央集権(ツリー構造・トップダウン)ではうまくいかない・・というのは現実を見れば明らかです。生物の世界と同様に「うまく動く小さなもの」が「自律分散的に協調する」というしくみ(セミラティス)をデザインする必要があります(インターネットの登場は、この「自律分散協調システム」を飛躍的に拡張する契機となりました)。
BAND(結束・絆)は、音楽のバンドを意味すると同時に、かつて人類が狩猟採集生活を行なっていたときの基礎集団を意味する言葉ですが、まさにこのBANDの集合体として社会が構成されることが、生物としての人類の道理にかなう方法ではないかと思います。
省資源・省エネルギー・少廃棄物|自然の道理に反しないこと
現在の私たちは、生物としてのヒトのスケールをはるかに超える量の資源とエネルギーを消費しています。人間も地球上の生物の一種にすぎません。自然の道理を無視して環境を破壊すれば、その先には間違いなく破綻が訪れます。
太陽エネルギーによって水と土(無機物)から、葉や実などの有機物を作り出す植物、動物の排泄物や死がい、枯死した植物などを無機物に分解する微生物、すべてが共生関係にあることを意識した活動が求められます。
規模が小さいこと(半径10mの自分ゴトから半径10kmの「地域」まで)
まずは自分自身が楽しいと思える「自分ゴト」からはじめる。組織を急に大きくしたり、大きな施設や設備を投入したりすると、リスクも大きくなります。
行政や企業といった大きな組織による支援も、それがあるとプロジェクトの外面はいい(マスコミも取り上げてくれる)のですが、手続きがめんどくさい、しがらみが多くなる、自由に動けない・・など、現場のモチベーションが下がって短期間で立ち消えになる「取り組み」が多いのも事実です。助成金などの支援がなくなったとたんに破綻するようではダメなのです。
昭和の町に見られた個人商店のように、小さな規模で自力走行する「小商い」のスタイル。「足るを知る」という言葉のとおり、儲けはそこそこに・・少し儲けて、長〜く続けられる仕事がいいのではないでしょうか?
いきなり「世界を変えよう」などと考える必要はありません。Webが世界をつないでいます。小さな石でも、投じればその波紋は大きく広がります。
面白い・楽しい・・ものであること
ソーシャルデザインの提案は、基本的に「面白い・楽しい」ものであることが大切です。自分自身が「面白い・楽しい」と感じること、そして、それに関わる人たちも自発的に参加したくなるような提案でなければ、持続できません。
- 面白い:
- 目の前が明るくなる感じ
- 目からウロコが落ちる感じ。新鮮な体験。常識を覆す新たな知見・・
- 興味をそそられて、心が引かれるさま。風流。趣が深い
- 笑いたくなるさま。こっけい
- 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい
- 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい
- 楽しい:
- 心が満ち足りる
- うきうきするような明るく愉快な気分
- 豊かで快い
- 例えば:
エスカレータと階段が併設された駅のホームで、階段の利用を促進させたいとき、単に省エネや健康を訴えても人はなかなか動きません。でも、階段を上り下りする人にだけ「絵」が見える・・というデザインをすれば、その面白さで人は動きます。
参考:「面白い!」に関する考察
そこに誰かの「ありがとう」があること
モノづくりにせよ、コトづくりにせよ、仕事とは本来誰かの「ありがとう」が伴うものです。誰にも感謝されない仕事というものは、自己肯定感が得られない点で長続きするものではありません。
「自分のやりたいことがわからない」という学生さんが多くいますが、それでいいんです。そんなものは自分の中を探しても見つからないことの方が多いと思います。「自分がやりたいこと」というのは、誰かに「ありがとう」といわれたときに初めて生まれるもの。「価値」は所与のものではなく、人と人との「関係」において生成されるものなのです。
「自分のやりたいことを探す」ではなく「誰かが必要としていることを探す」という方へと考え方を変えれば、人生はもっと楽しくなります。
日常化できること
ソーシャルデザインの成果は、特別なものとしてではなく、あたりまえのこととして日常化されるのが理想です。その存在を意識することはないけれど、それがなければ生きていけない、「水」や「風(空気)」のような存在。実は、私たちの生活は、すでにそうしたものに囲まれていて、それを再認識することも必要です。たとえば「道」は典型的なソーシャルデザインの成果物です。ソーシャルデザインは「森の中に道をつくること」と例えられます。
続けられること
日本人は、嫌なことでも我慢して頑張ることを美徳とする傾向がありますが、それでうつ病になってしまうのでは本末転倒です。高収入エリートのうつ病患者がいる一方で、収入が少なくとも人生を豊かに楽しんでいる人がいることも事実です*1。考え方を変えるだけで大きく人生が変わることも事実です。そもそも幸せとは何か。生きるとはどういうことか。しっかりと考えることが大切です。大学というのは、そういう「哲学」をするためにあるのです。
頑張ることは大事ですが、その頑張り方はズレていないか?*2 楽しい・面白いと感じることができる仕事、そしてそれが自分だけでなく、みんなの幸せにも貢献する・・そんな仕事でなければ続けていくのは難しいと思います。
法・制度・マニュアルに依存しない
法・制度の静的固定は、秩序の動的変更・循環を阻害する悪玉コレステロールのようなものです。ソーシャルデザインは「立法」とは異なる視点で問題の解決を考えます。
- 法やマニュアルによる問題解決(問題の発生抑制) > 政治
- 法は共有不可能(すべてを知ることが不可能)な量にまで増え続けている
- 法やマニュアルが制定されると、人は問題の本質を考えなくなる
- 法による裁きは、関係者の対立という問題の改善には寄与しない
- 法の抜け道はいくらでもあるし、網羅できない例外事象は山ほどある
- 法が人権を侵害することがある(法そのものに問題があることもある)
- 憲法第14条(法の下の平等)はあるが、問題は解決していない
- 法やマニュアルがなくとも問題が起きないようにする > デザイン
- デザインはノイズを削ぎ落とすことで問題の本質に注目させる
- デザイン思考は、関係当事者の「共感」からはじまる
- 考えさせる以前に、感じさせる
- 集団規模を小さくすれば、法やマニュアルは必要ない(文字は必要ない)
- 制定するときには、アポトーシスの仕組みを組み込む
カタチ < しくみ
一般にデザインというとポスターのビジュアルや家電製品の外装形状といった、「カタチ」のデザインが注目されがちですが、むしろその根底にある「仕組み」のデザインや「考え方」のデザインがとても重要です。人や社会を元気にする「仕組み」のデザイン、心を豊かにする「考え方」のデザイン。
ソーシャルデザインは、何かをつくる仕事というより、その社会の当事者に対して、本質的な問題がどこにあるかを気付かせる仕事です。
コンクリートジャングルに石を投げても何も起こりませんが、水面に石を投げれば遠くまでその波紋が広がります。Webは社会の水面です。
主役はその地域に住む人たち
プロジェクトを企画したデザイナーがその役目を終えて不在となった後も、地域(現地)の人たちだけで継続できるものであることが大切です。プロジェクトの推進役には現地の人をあてる(あるいは予定する)。デザイナーが目立ちすぎてはいけないと思います。
ハイテクの井戸を物資として提供するのではなく、現地の人の技術と現地にある道具でつくることができる井戸の作り方を伝える・・現地の人が主役になれるような「知識」や「情報」を伝えることが大切です。
現地にあるもの、すでにあるものを活かす
地産地消という言葉にも象徴されるとおり、モノを動かすのは人が普通に移動できる半径10km、つまり「地域」をベースに考えるのが基本です(「地方」ではありません。「地域」です)。また、資源とエネルギーを使って新たにモノをつくるのではなく、既存のものを転用する(見立てる)という発想も日本人が得意とするコンセプトです。
持続可能(サスティナブル)であること
その場限りの「支援」や「提案」は、結果的に問題をリバウンドさせます。ゴミや負の遺産を増やすことにもなりかねません。続けることで成熟するような、サスティナブルな提案が望まれます。
「創造」の結果生じる新たな問題を「想像」できること
どこかに「秩序」をつくると、別のどこかにエントロピー(無秩序・複雑さ)が生じます。人間の行為すべてに言えることですが、人が何かを発明したり、組み換えたりすれば、必ず人間社会や自然環境にインパクトを与えてしまいます。
新しいメディアの登場によって新たな犯罪が生まれたり(電話の発明が「誘拐」を生んだ)、新たな製品が結果的に大量の粗大ゴミを生んだり、新たな法律の整備を必要としたり(近年ではドローンの登場で航空法が改正・複雑化)、新しい物質の開発が「毒」を撒き散らしたり・・。もとはといえば科学者や技術者の好奇心・「面白い!」に端を発したものです。そして一般に多くの資源・エネルギーを費やすもの(≒多くのお金がかかるもの)ほど、副作用も大きくなります。人が何か事を起こせば、必ずどこかに歪みは起こる。デザイナーが何かを創造すれば、新たな問題が生じる可能性がある。その「・・かもしれない」を想像する力も必要です。
プロジェクトの常識に囚われないこと
通常プロジェクトといわれるものには、目標、手段、予算、期限、評価方法といったものを設定するのが常識ですが、私たちの日常の「楽しみ」の多くは、そうしたものとは無縁です。ソーシャルデザインはコマーシャルデザインではないので、競争社会の常識にとらわれない「ゆるさ」があっていい。近現代の製造業やビジネスの常識を無理に適用する必要はないのでは・・とも思います。
- 数値目標は必要ですか?
プロジェクトの常識ともいえる「数値目標を決める」という行為は、人類の歴史を遡れば(あるいは世界に目を向ければ)、ごく限られた時空間で生じている極めて特殊な行為です。「目標を達成する悦び」を過大評価しすぎて、逆に息苦しくなっていませんか? そもそも「目標とは何か?」 それも、ソーシャルデザインの本質にせまる大切な問いです。
- 予算は必要ですか?
何をするにも「カネ」がかかるのが現代社会。しかし、お金をかけずに工夫するところに楽しさがある・・というケースもたくさんあります。
- 期限は必要ですか?
「時間」が「金」となる現代社会では「期限」を設定するのが常識ですが、ソーシャルデザインの取り組みは、すべてがそうとは限りません。時間をかけることで無理なく達成できるのであれば「期限」を決める必要はないのです。獲物が現れるのをじっと待ち続ける習慣がある我々にとって、 重要なのは物事が達成されることであって、 いつ達成されるかは問題ではない。 … イヌイットの環境大臣
- 評価は必要ですか?
学生プロジェクトによくある話ですが、評価と関係のない(単位にはならない)課外活動の方が、いいものが生まれます。そもそも人は良い評価を得るために活動しているのではありません。楽しければ体が勝手に動くのです。
みんなが幸せになる「仕事」をすること
現代社会は、技術的には便利で快適になりました。しかし「人は幸せになったのか?」という観点で考えると、歴史は逆向しているようにも見えます*3。誰もが「成長」という言葉を無批判に受け入れていますが、成長のための「競争原理」が結果として何をもたらしているのか、人類の歴史を振り返るとともに、現代人の常識を疑ってみることも必要だと思います。
何かをはじめるときは、「その仕事は人を幸せにするのか?」、「その仕事はみんなを笑顔にするのか?」という問いかけが必要だと思います。
誰にも「ありがとう」と言われない仕事は・・
人を幸せにする仕事には、「ありがとう」という感謝の声が上がるものです。現代人が取り組む「ビジネス」には、誰にも「ありがとう」と言われないような仕事があまりにも多すぎるように思います。
補足:「正しい」と「幸福」は違う
「正しいことをすれば幸福になる」という言い方がありますが、そもそも「正しい」というのは、当該集団の秩序に関わる価値基準で、それが共同幻想に過ぎない以上、絶対的な「正しい」は存在しません。「正しいこと」は当該集団のマジョリティの幸福には寄与するかもしれませんが、集団に居心地の悪さを感じているマイノリティに、さらに集団の外部に位置する人々に不幸をもたらす場合があることを忘れてはならないと思いまうす。
補足:会社に「入る」から、仕事を「得る」へ
日本では小中高大から就職までが単線化してパイプラインのようにイメージされやすいせいか、多くの人が「大学に入る」、「会社に入る」といった表現を無意識に使っていますが、個人が既存の器に「入る」という感覚はあまりお勧めできません。それでは「入れ物」が主役で、人はそれを越えることができません。人生の主役は「あなた」であって、そのあなたが「◯◯大学の◯◯専攻 Get!」、「◯◯会社のデザイナー職 Get!」する。人はそんなふうに様々なアイテムを得て成熟するのだと考える方が、人生はずっと楽しくなります。自分の軸をしっかりと地に据えて、世界を捉えなおす。ソーシャルデザインは「自分ゴト」からはじめる・・というのが基本です。