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木村羽衣/自殺学について の履歴(No.13)


自殺学について

木村羽衣



1.自殺学との出会い

すべての始まりは、2020年夏…コロナ禍の真っ只中に不登校になってしまったことから。
2020年2月末からの緊急事態宣言に伴い、長く続いた臨時休校のせいで、私には完全に休み癖がついていました。学校や友達に対する興味は、その休校の最中にすっかり失い、生活に必要な動作以外をスマートフォンと一緒に過ごしていました。
春が終わり学校が再開するも、勉強や課題はまともにせず、眠るために布団に潜っても画面ばかり見て、結局眠らずに学校に行き、授業中に寝るという生活を繰り返していました。


そして、2週間という短い夏休みが明けた頃のことです。
私は体調が悪いと母に嘘をついて、学校を1週間休みました。久しぶりに登校すると、夏休み前と同じようにいつも通りに話しかけてくれる仲の良い女の子たちがいました。
「休んでた間、何してたの?」と聞かれ、私は素直に
「ずっとゲームしてたよ」と答えました。





次の日から、私の周りに人が集まることはなくなりました。私に向けられたのは、軽蔑の目でした。
通っていたのが小中一貫校だったこともあり、「小学校6年間で築き上げた友情はこんなにも簡単に無くなってしまうのか」と中学生ながらにして大きな絶望を味わいました。物理的な暴力こそ受けませんでしたが、視線や言葉による精神的苦痛は計り知れないものでした。「日頃の素行の結果だ」と一言で片付けてしまえばそれまでですが、当時の私にとってはあまりにもショックすぎる出来事でした。
18歳になった今改めて考えると、自分たちは普段どおり学校を頑張っていたのに、「友達は家でずっとゲームをしていた」なんて怒る以外にないと思います。…



さらに、当時は親も不登校に対する理解がない時期でした。
朝、聞き馴染みの無い声で目覚めると自分の部屋に先生が居て、布団から引っ張り出されて起きる、なんていうこともしばしばありました。このようなことが続くうちに、プライベートと学校との境目を感じなくなり、私にはどこにも逃げ場がないように感じ始めました。

やがて、週に1〜3日学校へ行くか行かないかの不登校になり、大好きだったはずのみんながいる教室に入る気持ちもなくなりました。ご飯も喉を通らなくなり、人生で初めて「自殺」を考えた時期だったと、今振り返ると思います。


学校に行けていない罪悪感から「自殺」に対する強い興味はありましたが、ただ感情的に「死にたい」と溺れることはありませんでした。
インターネットの海を泳げば、自分と同じように死にたがっている人は山ほどいるのに、どうして私の近くには一人もいないように思えるのだろう、と不思議だったのです。
やがて、「人はなぜ死にたいと思うのだろう?」「そもそも自殺はいけないことなのだろうか?」と、自問自答を繰り返すようになりました。


その疑問の延長線上で進学を考えた際に、哲学や心理学、社会学などに興味を持ち調べていくうちに「自殺学」という学問と出会いました。
これが、私の自殺学の原点です。



2.そもそも「自殺学」とは?

自殺学とは、人が自ら命を絶つという現象についてその原因を解明し、心理学、社会学、精神医学、哲学、歴史学など、多角的な視点から科学的に研究する学問領域です。
一般的に「自殺」は、個人の心の弱さや、突発的な精神状態によるものと片付けられがちです。しかしこの自殺学では、その背景にある社会的な孤立、経済的な困窮、文化的な要因などをデータや理論に基づいて冷静に解剖しています。
単に「死なないためにはどうすべきか」という予防の視点だけでなく、「人はなぜ自殺をするのか」「目の前の苦しい人をどう救うのか」という、人間の心理や自殺の根底にある問いに迫る学問、それが自殺学だと私は考えています。

3.おすすめしたい著者・本

私がこの学問の中で特に支持している研究者がいます。
その方の名は、末木新(すえきはじめ)です。
彼は和光大学(現代人間学部 心理教育学科)の教授であり、全学生が受けられる共通教養講座として「自殺学」を教えています。
多くの自殺予防の専門家や世の中の人々は、「生きていれば必ず良いことがある」「自分の命を大切にしよう」「周りに悩みを打ち明けよう」といった道徳論や綺麗事を語りがちです。しかし彼は、そうした安易なアプローチを明確に否定しています。


彼は臨床心理学をベースにしながら、インターネット上の自殺コミュニティやSNSの「死にたい」という書き込みなど、普通ならスルーされてしまうような生々しい声を長年研究しています。だからこそ、「死にたいと思うのはその人が弱いからではなく、そう思わざるを得ない構造があるからだ」という、広い客観性と冷徹な視点を持っています。


著書である『「死にたい」と言われたら—自殺の心理学』は、新書ではなく、そうした感情の現場に向き合い続けてきた彼だからこそ書ける、リアルで圧倒的に面白い一冊です。また、中高生でも読みやすく、専門用語には解説が付いており難しい言葉も噛み砕いた表現で書かれているため、本が苦手な人でも理解しやすいと思います。

4.自殺学を通して見えてきたもの

本や学問を通して私が見出したいちばんの答えは、「死にたい」という感情は決して特別ものではなく、社会の構造によって当事者の「逃げ場」と「声」が完全に奪われた結果だということです。
あの日、学校に行けなくなり部屋に引きこもっていた私が見たインターネットの海には、自分と同じように死にたがっている人が無数に溢れていました。それなのに、一歩現実に戻ると、私の周りにはそんな人は一人も存在しないかのように平然と世界が回っている。あの時に抱いた「なぜこれほど多くの人が苦しんでいるのに、現実の世界ではいないように見えるのだろう」という強い違和感の正体が、末木先生の言葉を借りることでようやく言語化できました。

「人口の2〜3割が経験する身近な感情」

本の導入やデータ解説の中で、「死にたい」という気持ちは決して異常なことではなく、人口の2〜3割が人生で一度は経験する身近なものであることが示されています。



「死にたい」が見えないのは、社会がそれを「あってはならないタブー」として隠蔽しているからだと感じています。統計を見れば人口の2〜3割が経験しているはずの身近な感情なのに、「命を大切にしよう」「生きていれば良いことがある」という綺麗事ばかりが私達を包んでいる。その道徳論の美しさが、結果として当事者に現実世界で声を上げることを禁じ、孤独へ誘っているのだと気づきました。


かつて、先生が私の部屋の布団から無理やり私を引っ張り出したように、社会は良かれと思って「学校や日常」という枠組みに引き戻そうとします。しかし、その周囲の「善意」こそが、逃げ場を失った人間にとっては「自分は周囲の重荷になっている」という、本にある「負担感の知覚」を増幅させる凶器になり得ます。
だからこそ、末木先生がSNSの生々しい叫びをスルーせず、感情論を排除して客観的なデータとして冷静に見つめる姿勢に私は感動しました。「かわいそうに」と情緒的に共感されることや、綺麗事で励まされることは、本質的な解決になりません。なぜ死にたくなるのかという「構造」を冷徹に解剖し、物理的にそのリスクを減らしていく取り組みこそが、本当に人を絶望から引き留める手段なのだと知りました。


名前のインパクトこそ強い自殺学ですが、恐ろしい学問ではありません。
かつての私のように「どこにも逃げ場がない」と絶望している人に対して、社会の側にどうやって新しい逃げ場やセーフティネットを設計できるか。現実世界から隠蔽され、ネットの海に沈んでいる無数の声に対して、ソーシャルデザインを学ぶ私たちがどうやって具体的な「居場所」を社会の中に実装していけるか。
その構造を変えるためのデザインの視点を、私はこの学問と本から受け取っています。